第64話 再会
漆黒の膜を抜けた瞬間、全員が足を止めた。
ひ、広い…。ここは、ダンジョンの中なのに…。
天井は見えない。
壁も遠すぎて見えない。ただ足元だけが確かな岩盤で、その先は際限のない闇が広がっていた。空間の中心に、巨大な黒い結晶が脈動している。
あれが…コア…?
そして、コアの隣に、石組みの台座があった。
複雑な紋様が刻まれ、淡い光を放っていた。
「……転移陣、ありました。」
エミリさんの声に、全員の肩から力が抜けた。
帰れる…。地上に帰れるんだ…っ!
その安堵が空間に広がりかけた瞬間、先生が立ち止まった。
「……待て。」
低い声だった。
「……何かいます。」
エミリさんが続けた。
魔法陣を展開しようとして、止まった。
「……魔力反応が、あちこちに。でも、姿が見えない。」
僕も感覚を研ぎ澄ませた。
確かに何かがいる。複数、それも相当な数が、この広大な空間のどこかに潜んでいる。
「……先生、100層の門番は。」
「いるはずだ。だが気配が……。」
先生が目を細めた。
「……変だな。」
その時だった。
コアの光が波紋のように広がり、足元の岩盤を揺らした。その光が照らした空間の奥に、何かがあった。
巨大な何かが、地面に横たわっていた。
「……あれは。」
リョウが息を呑んだ。
横たわっているそれは、巨大な魔物だった。体長は二十メートルを超えているだろう。龍に近い形状で、全身の鱗が黒く輝いていた。四本の脚は地に投げ出され、長い首は力なく岩盤に伏していた。
生きていなかった。
「……ダンジョンボスだ。」
先生が静かに言った。
「100層…新宿ダンジョン最後の番人だ。」
「……死んでいます。」
エミリさんが言った。
「まだ、温かい。倒されてから、そう時間が経っていないと思われます。それに…この地面…。」
「……何が倒したんだ?」
マサトが呟いた。
その答えは、すぐに分かった。
ダンジョン内に音が反芻していたから。
――ぴちゃ。
それから、また。ぴちゃ、ぴちゃ、と。
コアの光が再び波紋を広げた瞬間、空間の全体が照らされた。
「……っ!!」
全員が、同時に息を呑んだ。
いた。
いたるところに、いた。
岩盤の上に。
コアの周囲に。
横たわったボスの死骸の上に。
100層の空間を埋め尽くすように、蛙が蠢いていた。
30体はいた。
全身を溶岩のような赤黒い光で覆った、体長二メートルから三メートルほどの個体が、空間のあらゆる場所に張り付いていた。その口から滴り落ちる液体が岩盤に落ちて、ぴちゃ、という音を立てていた。
そしてその群れの中心に、一際大きな個体がいた。
他の個体より一回り大きく、体表の溶岩の色が深く、赤黒く、炎のように燃えていた。
その瞳が、こちらを向いた。
「……ケロ。」
低く、地の底から響くような声だった。
その声が、記憶を引きずり出した。
な、なんでここにいるんだ…っ!?
ここは、新宿だよ?渋谷じゃないっ!
あの時の、炎のような赤い瞳。次は逃がさない、と言われた気がしたあの瞬間を。
脂汗が止まらなかった。
足が、動かなかった。
「……田中アルト。」
エミリさんの声が、隣から聞こえた。
「……はい。」
「一つ、聞かせてください。姉から聞いたことがあります。以前、渋谷ダンジョンで探索中に、マグマトードに襲われたと。」
「……はい。」
沈黙が落ちた。
「……そうですか。」
エミリさんはそれだけ言った。一拍置いて、もう一度口を開いた。
「……つまり貴方が驚いていたのは、今あそこにいるリーダー格のマグマトードは、お姉ちゃんを襲った個体と同一、あるいは関連する個体である可能性がある、ということで間違いないですか?」
「……おそらく。同一個体だと思います。」
また沈黙があった。
エミリさんの声が、静かだった。
いや、静かすぎた。
「……少し、待ってください。」
エミリさんは目を閉じて、深呼吸を一つした。
それから目を開けた。
その目が、怒っていた。
普段の冷静なエミリさんからは想像できないほど、はっきりと、静かに、怒っていた。
「……佐藤。」
先生が静かに言った。
「……落ち着いています。ただ少し、頭に血が上っているだけです。」
「…感情は殺せとは言わん、怒りは力になるからな。だが、怒るのならば冷静に、怒れ。」
エミリさんはしばらく先生を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……分かりました。」
群れが動き始めた。
30体のマグマトードが、ゆっくりとこちらへ向かってくる。統率されていた。バラバラに動いているのではなく、リーダー格の大きな個体を中心に、扇状に広がりながら間合いを詰めてくる。
「……群れで動いてやがる。」
マサトが低く言った。
「あの個体が指示を出しているのか?」
エミリさんが言った。
「他の個体はそれに従っているように見えます。」
「全員、転移陣のそばに下がれ。」
先生が前へ出た。
手斧をジャケットの内側から取り出しながら。
「先生、30体はいますよ。」
「見えてる。」
「さすがに一人では…。」
「黙って見てろ。佐藤、後ろから好きにやれ。ただし俺の邪魔をするな。竜ケ崎、小林、田中、リョウたち、転移陣を守れ。群れの一部がそちらへ向かったら対処しろ。」
「……分かりました。」
全員が頷いた。
先生が一人で、群れの前へ出た。
◇
先生は歩いていた。
走るでも、構えるでもない。ただ自分のリズムで、30体の群れの前へ向かって歩いていた。
群れの先頭の個体が飛びかかってきた。
先生は半歩ずれた。飛びかかった個体が空を切って地面に叩きつけられる。先生はなぞるような動作で手斧を当てた。
ドン。
崩れ落ちた。
次の個体が来た。その次も来た。3体、4体と同時に向かってくる。
先生は動じない。
1体をなぞって消す。1体を躱してなぞる。動きに無駄がなかった。最小限の動作で、最小限の魔力で、ただ核を見つけてそこだけを壊していく。
5体、6体、7体。
群れが次々と崩れ落ちていく。
「……先生、すごい。」
小林さんが呟いた。
だがその時、残りの群れが動いた。
先生一人に集中するのではなく、半数がこちらへ向かってきていた。
「来ます!」
エミリさんが叫んだ。
「❘ᛏᚱ ᚨᚾᛏ《地よ、縛れ》――束縛陣!」
詠唱と同時に、向かってくる群れの足元に青白い魔法陣が展開された。地面から光の鎖が伸び、前脚に絡みついていく。
3体、4体と同時に動きが封じられた。
「竜ケ崎さん!」
「分かってる!」
マサトが封じられた個体へ踏み込んだ。
ケイたちも動く。リョウが剣を抜いて、残りへ向かっていく。
僕は宝魔槍を構えた。
魔力視が映している。向かってくる個体の核の位置が、微かに輝いて見えていた。
踏み込んで、槍を突く。
手応えがあった。
核を外しているが、衝撃は通じた。個体がのけぞる隙に、エミリさんの追加の束縛陣が走る。
「❘ᚹᚨᛏᚱ ᛊᛏᚱᛖᚱ《水よ、奔れ。》――水流陣!」
空中から大量の水が叩きつけられた。
マグマトードの体表がジュウウウッと音を立て、溶岩が急激に冷えて固まっていく。動きが鈍くなった個体を、マサトとリョウが仕留めていく。
先生の方では、さらに個体が減っていた。
20体が15体になり、12体になり、10体になっていく。
「……いける。」
マサトが息を切らしながら言った。
「……このままいけば、勝てる。」
その言葉が終わらないうちに、空間の空気が変わった。
群れの動きが、一斉に止まった。
残っていた個体が全部、先生と戦っているリーダー格の大きな個体の方へ向かっていく。
「……なんだ?」
リョウが訝しんだ。
リーダー格の個体が、口を大きく開けていた。
残りの個体が、1体、また1体と、そのリーダー格へ近づいていく。
そして、触れた瞬間に、ぱくりっ。
リーダー蛙は仲間の蛙たちをどんどん貪っていく。
「……な、仲間割れ?」
エミリさんが、声を震わせながら言った。
「い、いや吸収しているの?」
10体が9体になり、8体になり、5体になり、3体になり――
最後の1体が吸収された瞬間、リーダー格の体が光に包まれた。
全員が、息を呑んだ。
光の中で、リーダー格の体が大きくなっていた。さっきより、一回り以上大きくなっていた。体表の溶岩の温度が上がり、赤黒い光が激しく揺らめいている。
そして、背中から何かが生えてきた。
それは、腕だった。
背中の筋肉が盛り上がり、皮膚が裂けるような音がして、溶岩のような赤黒い腕が2本、ゆっくりと広がっていく。
前脚2本、背中から生えた腕2本。
合わせて4本の豪腕。それぞれが別々に、ゆっくりと動いていた。
「……っ。」
「……佐藤。」
先生が静かに言った。
「……はい。」
「さっきの動き、良かった。だが今度は下がれ。」
「……それは。」
「命令だ。」
エミリさんは一瞬だけ先生を見て、それから頷いた。
「……分かりました。」
「全員、転移陣のそばまで下がれ。巻き込む。」
「……先生、今度こそ大丈夫ですか?」
マサトが言った。
「さあ。やってみないと分からない。でも。」
先生はジャケットの袖をくるりとまくり上げた。
「加減するのは、もう面倒くさくなった。」
手斧を握った右手に、今まで見たことのない色の光が灯り始めた。おそらく破壊属性の光なのだろう。
だがその密度が、今まで先生が使ってきたものとは全然違った。手斧の刃先だけに灯っていたそれが、今は腕全体を覆うほどに広がっている。
「……っ。」
ルージュが槍の中から、強く光った気がした。
「……これが。」
エミリさんが低く言った。
「……壊し屋の、本気だ。」
4本腕のマグマトードが、低く鳴いた。
「ケロォォォ――」
先生も動いた。
二つの強烈な存在が、100層の空間で今、激突する。
――これは…蛙の境界渡りか。
なかなか珍しい能力じゃな…。
おっと、いかんいかん。スタンバイじゃ。
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