第61話 挟撃と鼻歌
――こやつも来ておったか…忘れておったわ。
答えが出ないまま、10分が経ってしまった。
壁にもたれながら天井を見上げていると、思考がぐるぐると同じところを回り続けた。
6割で上、4割で下。6割で上、4割で下。その数字の意味を何度も反芻するけれど、どれだけ考えても正解が見えてこない。
「…田中アルト。」
エミリさんが隣に座った。
「少し、話してもいいですか?」
「もちろんです。」
「…私が今まで調べた限りでは、ダンジョンの階層構造には一定の法則があります。上層から下層へ行くほど通路が広くなり、空間が大きくなる。40層のこの場所も、一層と比べて明らかに空間が広い。」
「…はい。」
「それを逆に考えると、上層へ向かうほど通路は狭くなるはずです。ルージュが感じた明るさ、それから私が感じた上昇気流。どちらも、上に繋がっている可能性を示唆しています。」
「じゃあ、歩いて上を目指せる可能性もある?」
「……ゼロではないと思います、ただ。」
エミリさんは少し間を置いた。
「体力の消耗速度を考えると、楽観はできません。それだけです。」
それだけ言って、エミリさんは立ち上がった。
答えを出すのは僕だ、ということを分かった上で、材料だけ置いていってくれたのだろう。
「……ありがとうございます。」
「お礼はいりません。考えてください。」
短く言って、エミリさんは元の場所へ戻っていった。
僕はまた天井を見上げた。
ルージュが相変わらず隣にくっついていて、小さな手が僕の袖を掴んでいる。
歩き続けるか、賭けるか。
どちらが――
「……っ。」
ルージュの手が、突然強張った。
「どうしたの?」
「…くる。」
低い声だった。
さっきまでの柔らかい声音ではなく、騎士兎だった頃の、戦場に立つ声だった。
「前から、なにか。うしろからも、なにか。」
次の瞬間、エミリさんが立ち上がった。
「……魔力反応、二方向から接近中。速い…っ!」
「っ、全員立て!」
リョウの怒鳴り声が通路に響いた。
休んでいた全員が弾かれたように立ち上がる。武器を抜く音が重なって、狭い通路に金属音が反響した。
前方の闇から、音が来た。
ずるずると何かを引き摺るような、重くて湿った音だ。それが一つではなく、複数重なって近づいてくる。
後方からも、別の音が来た。
こちらは足音に近い。だけど人間のそれではない。等間隔で、速く、規則的すぎる。
「…2種類いるぞ。」
マサトが絞り出すように言った。
「前と後ろで、違う魔物が来てる。」
魔力視を全開にする。
前方から接近してくる反応は、横に広がった巨大な何かだった。通路の幅いっぱいに広がって、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
後方の反応は逆で、細長く、速い。複数の個体が縦列を組んで走ってくるような、まとまった魔力の流れだった。
どちらも、1層で相手にしていた魔物とは比較にならない密度の魔力を持っていた。
「…囲まれた。」
誰かが呟いた。
そこからの数秒は、恐ろしいほど静かだった。
前方の闇から、それが姿を現した。
軟体動物に似た外見で、しかし巨大だった。
体の幅が通路いっぱいに広がっていて、体表からは粘液が光を反射させながら滴り落ちている。無数の触手が壁と床と天井を這いながら、ゆっくりとこちらへ迫ってくる。目がどこにあるのか分からない。口がどこにあるのかも分からない。ただ、体全体から放たれる魔力の圧が、空気を変えていた。
後方から来たのは、四足歩行の群れだった。体長は一メートルほどで、前方の個体より遥かに小さい。だけど数が多い。10は超えている。骨格が透けて見えるような薄い皮膚に包まれた細い体で、牙だけが異様に発達していた。群れで動くことで、一つ一つの弱さを補っているのだろう。
「……前が厄介だ。」
リョウが低く言った。
「後ろは数が多いが、小型だ。前を突破して前進する方が、まだ可能性がある。」
「…同意見です。」
エミリさんが頷いた。
「後方の群れは速い。追ってくる前に、前方を突破して距離を取る必要があります。」
全員の視線が、また僕に集まった。
何故だろう。こんな状況でも、みんな僕を見る。リョウでさえ、最終判断を待っている目をしていた。
「…前を突破します。全員で。」
言葉が出た。
「後方の群れはリョウさんたちに任せます。足止めだけでいい。前方はうちのパーティーと、リョウさんに一人だけ貸してほしいです。」
「…分かった。」
リョウは即断した。
「ケイ、お前は田中たちと行け。残りは俺と来い。」
「先輩っ!?」
「いいから動けっ!」
リョウの部下の一人、ケイと呼ばれた青年が頷いて、こちらへ移動してきた。
後方から群れの接近音が増していく。
「行きます!」
僕は前方へ駆けた。
全員が続く。
前方の軟体の巨体が、触手を伸ばしてきた。通路の天井まで届く長さの触手が、しなやかに、だけど恐ろしい速度でこちらへ向かって薙ぎ払われてくる。
「散れっ!」
マサトが叫んだ。
左右に散らばりながら、それぞれが触手を躱す。小林さんが身を低くして滑り込むように回避し、ケイが剣で触手の一本を叩き落とした。エミリさんが素早く詠唱を始めた。
「❘ᚨ ᛚ《護りよ、堅牢よ。》❘ᛒ ᛟ《障壁よ、我らを守れ。》――守護付与!」
魔力の膜が全員を薄く覆った。
「ありがとうございます!」
返しながら、宝魔槍を構えた。
軟体の巨体は、正面から攻撃するには中心が分からなすぎる。触手を一本ずつ落としていくには数が多すぎる。だとすれば、突っ込むしかない。懐に潜り込んで、一番密度の高い場所を貫く。
魔力視が捉えているのは、巨体の中心部に集まった強い魔力の塊だった。あそこが核だとすれば、あそこを潰せば動きが止まるかもしれない。
「ルージュ!」
「…わかった。」
ルージュが僕の前へ出た。
小さな体が、深層の空気の中で、赤黒い光を纏い始める。騎士兎だった頃の魔力が、ルージュの中でまだ生きていることが分かった。
「……ひらけ。」
ルージュが静かに言った。
次の瞬間、ルージュの小さな拳が触手の密集した中心部へ叩き込まれた。
ガアァァンッ!!
爆音が通路に轟いた。
触手が一気に吹き飛び、巨体がのけぞるように後退する。通路の中心に、一瞬だけ空間が生まれた。
「今だっ!!」
全員が一斉に駆け込んだ。
触手が再び迫ってくる前に、僕は宝魔槍を構えて巨体の核めがけて踏み込んだ。魔力視が指し示す中心点へ、全力で。
「はぁぁっ!!」
槍が突き刺さった。
巨体が震えた。通路全体が揺れるほどの振動が走り、天井から砂が降り注いできた。触手の動きが急激に鈍くなり、やがて床へと崩れ落ちていく。
「通れ、全員!」
リョウの声が後方から飛んだ。
振り返ると、リョウたちが後方の群れを食い止めながらこちらへ向かってきていた。数の多い群れを相手に、リョウは正面から剣を振るいながら後退していた。仲間たちも傷を負いながらも全員立っていた。
「先に行け、追いつく!」
「一緒に行きます!」
「言ってる場合かっ!」
「言ってる場合です!」
リョウが舌打ちしながらも、押さえ込んでいた群れを全員で一斉に蹴散らした。倒しきれないが、一時的に退かせる程度の一撃を叩き込んで、そのまま全員が前方へ走り出した。
「走れっ!!」
叫びながら、通路を駆ける。
軟体の巨体は核を潰されたことで動きを止めていたが、後方の群れはまだ追ってきている。
諦めないっ!
数が多い分、1体2体倒しても勢いが止まらなかった。
どれくらい走っただろう。
足が痛い。腕が痺れている。肺が熱い。それでも止まれない。止まったら追いつかれる。
「…曲がり角だ!」
ケイが叫んだ。
前方に、直角に曲がった通路があった。角を曲がれば、群れの視線から一時的に外れる。追跡されにくくなるかもしれない。
「曲がります、全員!」
角を曲がった瞬間に、通路が一段低くなっていた。踏み外しそうになりながらも、全員がなんとか転ばずに走り続けた。
後方の足音が、少しずつ遠のいていく。
それでもまだ、全員が走り続けた。
どれくらい経ったか分からない。
足音が完全に聞こえなくなったのを確認したのは、最初に小林さんだった。
「……聞こえなく、なった、かも。」
壁に手をついてよろめきながら、小林さんが言った。その声はいつもの呑気さが消えていて、純粋な疲弊だけがあった。
「…止まります。」
エミリさんが言って、全員がその場に倒れ込むように足を止めた。
壁に背中を預けて、荒い息を整えようとする。誰も何も言えなかった。言う体力が残っていなかった。
リョウが壁に片手をついて、後方を見た。
「…追って、きていない、か。」
「…今の、ところ、は。」
長い沈黙が落ちた。
助かった、と思っていいのかどうかも分からなかった。ここがどこなのかも分からない。上に向かっているのかどうかも分からない。さっきより深い場所に来てしまった可能性すらある。
マサトが床に座り込んで、天井を見上げながら言った。
「…疲れた。本当に、疲れたぞ。」
「…同意見です。」
珍しくエミリさんがすぐに同意した。
ルージュが僕の隣でぺたりと座り込んだ。小さな膝を抱えて、じっと前を向いている。
「…ルージュ、大丈夫?」
「…つかれた。でも、だいじょうぶ。」
「…そっか。」
「…ぬしさまは?」
「疲れたけど、大丈夫。」
「…よかった。」
ルージュが小さく息をついた。それから、耳をぴくりと動かした。
「…?」
「どうした?」
「……なんか、きこえる。」
「魔物っ!?」
「…ちがう。なんか、ひと、みたいな。」
僕も耳を澄ました。
最初は何も聞こえなかった。通路の奥から流れてくる空気の音と、全員の荒い呼吸だけが耳に入ってくる。
だけど、もっと意識を集中させると。
「……?」
確かに何かが聞こえた。
こ、れは、歌…?
それも、ひどく呑気な。
「パチンコ、お酒にた・ば・こ~、今日もダンジョン一人旅~♪」
全員が、固まった。
鼻歌だった。男の鼻歌が、通路の奥から、遠くから、軽快なリズムで流れてきていた。
マサトが呆然とした顔で口を開いた。
「…今、何て聞こえた?」
「…パチンコとお酒と煙草、だと思います。」
エミリさんが、これまでで一番信じられないものを見る目をしていた。
だってここは、誰も到達したことのない未到達エリアだよ?
「…この場所で?」
「…この場所で。」
エミリさんもマサト達も口ではそう言うが、顔に安心の色が出てきている。
何も知らないリョウが立ち上がり、通路の奥を凝視した。
「…誰だ。こんな場所で鼻歌を歌っている奴は。」
鼻歌は続いていた。のんびりと、楽しそうに、まるでそこら辺の商店街を散歩しているかのような調子で、深層の闇の中から流れてきていた。
「…なぁ、アルト。」
マサトが、僕を見た。
「あの鼻歌。」
「…うん、多分…いや間違いなく。」
「…そうだよな、やっぱりそうなのか。」
僕は息を呑んだ。
聞き覚えがある。確かにある。あの声の質、あのやる気のない節回し、あのひどく独特のリズム感。
「…まさか。」
「…まさかだよな。」
「…でも。」
「…でもな。」
二人で顔を見合わせた。
鼻歌は、だんだん近づいてきていた。
「今月の家賃どうしよっかな~、パチンコ当たってくれな~い~か~な~♪」
「……伊藤先生。」
僕とマサトの声が、同時に重なった。
なんで、ここに先生がっ!?、と。
――相も変わらず暢気な奴じゃの…。
はよぅ、アルトを助けてやればいいものを…。
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