第60話 迷宮と選択
真ん中の通路を選んで、どれくらい歩いただろう。
時間の感覚が、おかしくなっていた。
ダンジョンの中には窓も空もない。
太陽の位置で時刻を確認する手段がない。
腕時計を見ると、宝石の泉を出てからまだ30分も経っていなかった。体感では、もう何時間も歩いているような気がしていたのに…。
それだけ、この場所が人間の感覚を狂わせてくるということだ。
「……また分かれ道か。」
マサトが低く呟いた。
今度は二方向だった。右か、左か。エミリさんがまた魔力を流して探ろうとして、それから首を横に振った。
「…両方とも、反応が似ています。差異が小さすぎて判断できません。」
「どっちにする?」
「…右。」
「…理由は?」
「…わずかに、上昇気流を感じます。上に繋がっている可能性があります。わずかですが。」
わずか、という言葉が頭の中で繰り返された。
何もかもが、わずかな手がかりしかない。確信が持てないまま選んで、進んで、また迷って。それを繰り返すしかない状況が、じわじわと精神を削ってくる。
「…右に行きましょう。」
僕が言うと、全員が無言で頷いた。
右の通路へ入った瞬間、空気が変わった気がした。少しだけ、ほんの少しだけ、さっきよりも乾いている。上昇気流というエミリさんの読みは、あながち外れていないかもしれない。
だけど、確信なんてどこにもない…。
「…ルージュ。何か感じないかな…?」
隣を歩くルージュに小声で尋ねると、ルージュはしばらく目を閉じていた。
正直藁にも縋る気持ちだった。
「…うえ、の方に、なんか違う感じがする。」
「違う感じ?」
「…ここよりも、あつい。いや、ちがう。……あかるい、かな。」
明るい…。地上に近い、ということ?それとも、別の何かがあるということだろうか。
ルージュ自身も言葉にしきれていないようで、小さな眉が難しそうに寄っていた。
「…ありがとう。参考にしてみる。」
「…あたし、もっとちゃんと教えられたらよかった。」
「十分だよ。」
ルージュはそれ以上何も言わなかったけれど、僕の手を少しだけ強く握った。
◇
歩き続けながら、僕はずっと考えていた。
マップがない。現在地が分からない。上に向かっているのか、横に移動しているだけなのか、それすらはっきりしない。エミリさんの魔力探知とルージュの感覚だけが頼りで、それも絶対ではない。
正直、怖かった。
騎士兎との戦いは怖かったけれど、あれとはまた別の種類の怖さだった。戦いの怖さは、全力を出せば何とかなるかもしれないという感覚がある。だけど今感じている怖さは違う。全力を出す相手すらない。ただ歩いて、選んで、間違えたら死ぬかもしれない、その繰り返しだ。
それに、後ろにはたくさんの人がいる。
リョウとその仲間たち。女性パーティーの3人。マサトと小林さんとエミリさん。みんなが僕の判断に従って動いている。その重さが、一歩ごとに肩にのしかかってくる。
「……おい。」
不意にリョウの声が聞こえた。
振り返ると、リョウが何かを引きずるようにして歩いていた。いや、引きずっているのではなく、腕を掴んで連行していた。
宝石の泉で転移結晶を割った、閉門衆の仲間の男だった。
両手を縛られ、足もろくに動かせない状態で、それでもまだ諦めていない目をしていた。転移の直後にリョウが取り押さえていたらしい。あの混乱の中でよく捕まえられたと思うが、リョウにしてみれば当然のことだったのかもしれない。
「こいつに、聞きたいことがある。」
リョウが男の首根っこを掴んで、僕の前に引き出した。
「…お前、まだ結晶を持っていないか。」
男は黙っていた。
「……答えろ。」
リョウの声が一段低くなった。
有無を言わせない声だった。
男は少しの間口を閉じていたが、やがてふっと笑った。愉快そうではなく、自嘲するような笑い方だった。
「…持ってるよ。一個だけ。」
「…っ!?出せ。」
「出してやってもいいが。」
男は縛られた手をもぞもぞと動かしながら、懐から小さな結晶を取り出した。さっきのものと同じ形をしていたけれど、色が少し違った。さっきのものが赤黒い光を宿していたのに対して、これは淡い青白い光を内側に揺らめかせていた。
「…これはランダム転移結晶だ。さっき使ったのも同じだ。転移先が固定されていない。どこに飛ぶか、割ってみるまで誰にも分からない。」
「……どういうことだ。」
「文字通りの意味だよ。上に飛べるかもしれないし、もっと下に飛ぶかもしれない。60層でも、80層でも、100層でもな。」
男の言葉が、通路の空気に染み込んでいった。
深淵層という言葉が、頭をよぎった。40層でさえこれだけの魔物がいるというのに、60層、80層、100層となったら…。
「……おい。」
リョウが静かに言った。
「お前はさっき、その結晶を使って俺たちをここに飛ばした。近くにいたやつは飛ばなかった。それはどうやった。」
「…起爆した後に一定時間、転移に乗るかどうかを選べる。俺はどうやら近すぎて効果が及んでしまったみたいだがな。」
「つまり、今この結晶を割れば、俺たちがどこへ飛ぶかは、俺たちには選べない。」
「そうだ。」
男はあっさりと言った。もはや隠す気もないらしかった。縛られてここまで連れてこられた時点で、自分の状況は理解しているのだろう。
「…ただ。」
男がふと、付け足した。
「一応言っておくが、この結晶は元々上層への転移を想定して作られた品だ。使用者が上に行きたいという意思を持って割れば、上方向への確率が少し上がる。少しだけな。」
「少しだけ、とは?」
「…上に飛ぶ確率が6割くらい、になるかな。残り4割で下だ。それがランダムということだ。」
6割で上、4割で下…。
その数字を頭の中で転がした。
6割というのは、決して低くない。でも4割で深淵層に落ちるということは、5人に2人が当たるくじを引かされるようなものだ。ここより遥かに深い場所に、今よりも遥かに強い魔物の中に投げ込まれる。
「……使うのか?」
リョウが静かに尋ねた。
全員の視線が、僕に集まった。
マサトが、口をぎゅっと結んで僕を見ていた。小林さんは珍しく真剣な顔をしていた。エミリさんは自分でも考えを整理しているのか、視線を床に落としてから顔を上げた。
「……私には、どちらが正しいか分かりません。」
エミリさんが言った。
「使えば上に近づける可能性がある。使わなければ、地道に歩くしかない。ただ、この階層をいつまで歩き続けられるかという問題もあります。体力には限りがある。食料も、無限ではない。」
「……使わなかった場合の方が安全か、という問題でもない。この階層をただ歩いていれば、いつか必ず魔物に遭遇する。4割の賭けと、時間をかけて確実に消耗していくことと、どちらがマシかという話だ。」
どちらが正解なのか、分からなかった。
本当に、分からなかった。
ルージュが僕の手を握ったまま、じっと僕を見上げていた。何かを言おうとして、やめた。言葉じゃなくて、ただ傍にいることを選んでいるようだった。
「…少し、考えさせてください。」
絞り出した言葉は、それだけだった。
「…分かった。」
リョウは短く頷いた。
「ただし、長くは待てないからな。」
「……はい。」
男を連行するリョウが少し離れ、他の皆も壁際に寄って各々休んでいく。食料を口にする者もいれば、ただ目を閉じて体を休めている者もいた。
僕は通路の壁にもたれながら、天井を見上げた。
遥か上に、地上がある。今の僕たちとは、どれくらいの距離が隔たっているのだろう。地道に歩けば辿り着けるのか、それとも体力が尽きる方が先なのか。
「…ぬしさま。」
ルージュが、壁にもたれた僕の隣にそっと寄ってきた。僕の肩のあたりまでしかない小さな体が、壁にぴったりとくっついている。
「…こわい?」
「……怖いよ。すごく、怖い。」
「…あたしも、すこし。」
「え、ルージュも怖いの?」
「…ぬしさまが、こわいのが伝わってくる。だから、あたしも、なんか、こわい。」
それは怖いというより、僕の感情に引っ張られているということなのだろうか。それでも、ルージュが正直に言ってくれたことが、不思議と少し楽になった気がした。
「…大丈夫だよ、ルージュ。絶対に帰るから。」
「…うん。ぬしさまが言うなら、そうする。」
「信じてくれてありがとう。」
「…あたりまえ。」
その一言が、いつもと同じ言い方で、いつもと同じ声だった。この場所でも、ルージュはルージュのままだった。それだけで、また少し前を向けた気がした。
転移結晶を使うべきか、使わないべきか。
答えは、まだ出なかった。
壁の結晶がぼんやりと光を放ち続ける中で、僕はその答えを探し続けていた。
地上への道は、まだどこにあるのかも分からないのに。
――そろそろ妾も出番欲しいんじゃが…?
……面白いと思ったら、コメント、フォロー、評価をお願いするのじゃ…。
とても、励みになっておるからの…。




