第59話 深層逃走
闇の中で、何かが動いた気配がした。
哆り声はまだ続いている。
低く、重く、地の底から這い上がってくるような音だった。一つではない。複数の何かが、呼応し合うように声を重ねている。
「……っ、誰も動かないでください。」
エミリさんが、押し殺した声で言った。普段の落ち着いた声とは違う、ぎりぎりまで張り詰めた声だった。
僕は息を止めるようにして、声の方向へ視線を向けた。
巨大な結晶が淡く光るこの空間の奥、闇がより一層深くなっている一角に、何かがいた。
最初は岩だと思った。
それくらい、動かなかった。
だけど、目が慣れるにつれて分かった。
あれは岩じゃないっ!生き物だ…っ!?
とてつもなく巨大な生き物。
体高だけで五メートルを超えているだろう。
鱗のような外皮が結晶の光を鈍く反射していて、四肢は太い樹木のように節くれ立っている。
頭部らしき部分から伸びる顎は、見ているだけで肺が締め付けられるような威圧感を放っていた。
魔力視を発動するまでもなく分かる。
あれは、僕たちが今まで戦ってきたどんな魔物とも違う。あきらかに桁が違う。
「……あれは。」
リョウが、声にならない声で呟いた。
「分かりません。」
エミリさんが即座に返した。
「ただ、一つだけ確かなことがあります。あれは私たちが戦って勝てる相手ではありません。」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
巨体の周囲には、白骨化した小動物らしき骨や、千切れた魔物の死骸の一部が転がっていた。おそらくこの階層に生息する、別の魔物たちの成れの果てなのだろう。人間の痕跡は、どこにもなかった。
それがかえって、不気味だった。
ここに人間が足を踏み入れた記録自体が存在しないのだから、当然と言えば当然だ。誰も生きて戻った者がいないどころか、誰一人として足を踏み入れたことすらないのかもしれない。
「…ぬしさま。」
ルージュが、僕の袖を軽く引いた。
声は小さかったが、その赤い瞳は巨大な魔物から一瞬も逸れていなかった。
「あれは、だめ。」
「…分かってる。」
「ぜったい、だめ。」
念を押すように繰り返すルージュの声に、僕はただ頷くしかなかった。あのルージュが、ここまではっきりと拒絶の言葉を口にしている。それだけで十分すぎる警告だった。
「…動きましょう。」
エミリさんが、誰よりも先に冷静さを取り戻していた。
「あの魔物は、今のところ私たちに気づいていません。風向きと音の反響からして、こちらの方向へ意識を向けてはいないようです。今のうちに距離を取ります。」
「…どっちへ?」
リョウが低く尋ねた。
「上層へ向かう通路を探します。階層が深くなるほど魔物の脅威度は跳ね上がります。今の私たちが取れる選択肢は、ただ一つです。」
「地上を目指す、か。」
「はい。」
エミリさんは短く頷いた。
「戦闘は徹底して避けます。私たちには、この階層の魔物と渡り合う力は、ありません。先程の個体だけではなく、この階層に生息する魔物すべてが、私たちにとって致命的な脅威になり得ると考えてください。」
リョウが仲間たちを見回した。
誰の顔にも、反論する余裕はなかった。
「…分かった。お前らに従う。」
その一言で、即席のパーティーがまとまった。
本来であれば実力も方針も違う複数のパーティーが、こうも素直に統率されるのは異常な状況だ。だけど誰もそれを指摘しなかった。
それだけ、この場所が異常だということだ。
「リョウさん。」
僕は小声で呼びかけた。
「進路は、僕たちが先導しても構いませんか?」
リョウは少し意外そうな顔をした。
それから、ふっと息を吐いた。
「…お前のその槍の子、頼りになりそうだしな。…いいだろう。」
「ありがとうございます。」
「礼はいい。生き残ってから言え。」
その言葉に、誰もが小さく頷いた。
僕たちは音を立てないよう、できる限り低い姿勢を保ちながら、巨大な魔物から距離を取る方向へ進み始めた。先頭は僕とルージュ、その後ろにエミリさんとマサトと小林さん、さらに後ろにリョウたちと女性パーティーの三人が続く。
歩くたびに、足の裏に伝わる地面の感触すら気になった。小石を踏んで音が出ないか、水たまりに足を入れて水音が立たないか。一歩一歩が、ひどく長く感じられた。
「…ねぇ。」
小声で、女性パーティーの一人が話しかけてきた。エミリさんと同じくらいの年齢に見える、ショートカットの女性だった。
「私たち、ちゃんと戻れるのかな。」
「…分かりません。」
正直に答えるしかなかった。
「でも、絶対に戻ります。」
根拠なんてなかった。それでも、そう言うしかなかった。
女性は少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「…頼りにしてるね、リーダーさん。」
その呼び方に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
通路の奥から、また低い唸り声が響いた。さっきよりも遠い。距離が取れている証拠だ。それでも全員の足が、反射的に止まった。
「…大丈夫です。」
エミリさんが静かに言った。
「向こうは動いていません。」
しばらく、誰も口を開かなかった。
ただ、息を潜めて様子を窺う。
やがて唸り声が完全に聞こえなくなったのを確認して、僕たちは再び歩き出した。
階層の構造は、これまで僕たちが見てきたダンジョンとはまるで違っていた。通路は広く、天井は高く、壁には不気味なほど美しい結晶が無数に埋め込まれている。本来であれば見惚れるような光景だったかもしれない。だけど今は、その美しさすら恐怖の対象でしかなかった。
「……分かれ道だ、な。」
マサトが小声で言った。
通路が三方向に分岐していた。
エミリさんが慎重に魔力を流し、それぞれの先の気配を探っていく。
「…右は、強い魔力反応があります。先程の個体に近い質のものです。」
「左は?」
「…分かりません。反応が薄すぎます。それが逆に不気味です。」
「真ん中は…?」
「比較的、穏やかな反応です。ただし、保証はできません。」
決め手に欠ける状況だった。
だけど立ち止まっている時間こそが、一番の危険だということは、誰もが分かっていた。
「…真ん中、行きましょう。」
僕は決断した。
「…根拠は?」
リョウが静かに尋ねた。
「……ありません。でも、選ばないと進めません。」
リョウはしばらく僕を見て、それから小さく笑った。
「…お前、リーダーに向いてるかもな。」
その言葉に答える余裕もないまま、僕たちは真ん中の通路へと足を踏み入れた。
ルージュが、僕の手をぎゅっと握った。
「…だいじょうぶ。ぬしさまは、あたしがまもる。」
その声は小さかったけれど、確かな強さを持っていた。僕は頷いて、ルージュの手を握り返した。
通路の奥は、闇に沈んでいて何も見えなかった。
ただ分かるのは、地上はまだ遠いってことだけだった。
――頑張れ、愛し子!
おっと、お約束を忘れるところじゃった!
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