第57話 兎睨《ラビット・グレア》
先頭の男は、笑顔のまま動かなかった。
動く必要がないからだ。
後ろに控えた四人が、じりじりと左右へ広がっていく。通路の幅を使って僕たちを半包囲する形に移行しようとしている。手慣れた動きだった。
魔物相手ではなく、人間相手に何度もやってきた人間の動きだ。
「まぁ、落ち着けよ。」
男が宥めるように両手を広げた。
探索者用の革手袋が、松明の光を受けて鈍く光る。
「俺たちだって好き好んで揉めたいわけじゃない。その槍、ちょっと見せてくれるだけでいい。本物かどうか確認したいだけだ。」
「本物かどうか確認して、それからどうするんですか。」
「そこは確認してから話し合おうや。」
話し合い、という言葉を使いながら、仲間たちは着実に包囲を狭めていた。
僕たちの退路である後方の通路へ、すでに一人が回り込もうとしている。
隣でマサトが低く舌打ちをした。
「…アルト。後ろ一人塞ごうとしてるぞ。」
「分かってる。」
「どうする?」
「…戦闘準備を。」
言い切った瞬間、マサトの口元がわずかに緩んだ。
「そうこなくちゃ。」
男の笑顔が少しだけ変わった。愛想のいい表情の奥に、値踏みするような光が宿る。
「…やる気か、坊主?」
「最初からそのつもりで来たんじゃないですか、そちらが。」
「なら、無駄な抵抗はやめるんだな。」
男が顎で合図した。
次の瞬間、四人が一斉に動いた。
左から来た一人がマサトへ向かい、右の二人が僕とエミリさんを分断しようと割り込んでくる。
後方へ回った一人は小林さんへ向かっていた。
連携が取れている。烏合の衆じゃない。こちらの編成を瞬時に読んで、それぞれの担当を決めて動いている。
「小林さん!」
「わかってる!」
小林さんが素早く低姿勢になり、後方から来た男の踏み込みをするりと躱した。体格差があるのに、まるで水が流れるみたいに自然な動きだった。男が空振りして体勢を崩した瞬間、小林さんの肘が男の脇腹へ吸い込まれるように入る。
「がっ…!」
「ごめんね~!」
呑気な声と裏腹に、一撃で男が膝をついた。小林さんはすでに次の動きへ重心を移している。どこで覚えたのか分からないけれど、あの子の動きはどこか本物だ。
「おっ、やるじゃねぇか。」
マサトへ向かった男が、攻撃を繰り出しながら口笛を吹くように言った。
剣を持った大柄な男で、横薙ぎの一閃をマサトが両腕で受け止める。
ガァンッ!!
「…っ、重い!」
マサトが歯を食いしばりながら二歩後退した。
受け止めはしたけれど、腕への負荷が相当だったらしく、顔が一瞬歪んだ。相手の男は余裕のある顔のままだった。
「ガキが俺達、閉門衆に喧嘩売るとはな。いい度胸だ。」
「誰が売ったんだよ、そっちが来たんだろっ!」
「まぁ、そういうことにしといてやる。」
男が続けて踏み込んでくる。
剣捌きが洗練されていて無駄がない。マサトが防ぎながら反撃の隙を探しているが、なかなか崩せない。体格の差もある。純粋なパワーでも押されていた。
僕の方は、二人を相手にしていた。
一人が正面から圧力をかけ、もう一人が側面から回り込もうとしてくる。正面の男はダガーを逆手に持ち、間合いを詰めながらフェイントを混ぜてくる。経験のある動きだ。
騎士兎との戦いとは全然違う。
あちらは純粋な強さと技術だったけれど、こちらは人間特有の狡さと読みにくさがある。フェイントの使い方、体重移動の誤魔化し方、全部が戦い慣れた人間のものだ。
「その槍、重そうだな。扱ねぇのか?」
正面の男が言いながら踏み込んできた。
ダガーが閃き、ナイフで受け流す。
ギィンッ!
「…へぇ。」
男が目を細めた。
「ナイフ使いか。慣れてない槍よりそっちの方が様になるな。」
「ありがとうございます。」
「褒めてねぇよ。」
側面から来たもう一人の踏み込みを半歩ずれて躱し、すれ違いざまに肘を入れようとするが、相手も慣れていて腕で綺麗に流された。こちらの動きをある程度読んでいる。おそらくずっと後をつけながら、戦い方を観察していたのだろう。
正直、きつい…。
騎士兎との死闘の後だ。
肩の傷はエミリさんに治癒してもらったけれど、全身の疲労は取れていない。腕はまだ痺れが残っているし、紫煌を使った後の右手の握力も完全には戻っていない。それに加えて今は宝魔槍を持っているせいで、いつものナイフ捌きとリーチが噛み合わない場面が出てきていた。
「…エミリさん!」
「分かっています!」
エミリさんが詠唱を始める声が聞こえた瞬間、右側の男が動いた。
エミリさんの詠唱を潰しに行っている。
後衛の魔法使いを真っ先に狙うのは定石だ。
こちらの編成を最初から見抜いた上で、タイミングまで計っていた。
「妨害は想定内です!」
エミリさんが詠唱を切り替えた。
長い詠唱から短い詠唱へ、威力より速度を優先した魔法へ変えながら距離を取っている。
流石っ!咄嗟の判断が早い!
それでも迫ってくる男との距離は縮まっていた。
「っ、エミリさん!」
「田中アルト、前を見てください!」
言われた瞬間に正面へ視線を戻すと、ダガーの男がすでに踏み込んでいた。
「っ!」
慌てて身体を捻る。
ダガーが脇腹を掠めた。
プロテクションの魔力膜が一枚剥がれる感覚がして、鈍い衝撃が走る。皮膚は切れていないけれど、息が詰まった。
「ほら、無理すんなよ。」
男が言った。
声に余裕が戻っていた。
「その槍を置いてけば、俺たちも乱暴はしない。怪我する前に大人しくしな。」
「…断ります。」
「頑固だな。」
男が再び踏み込んでくる。
その瞬間だった。
宝魔槍が、急に温かくなったのだ。
ぽっ、と。
胸の中で何かが灯るような感覚だ。
さっきルージュが槍に戻っていく時と似た温もりが、右の掌から伝わってくる。
「ルージュ…?」
呟く間もなかった。
槍の中心の宝石が赤黒く輝いた。
眩しいというほどではないけれど、洞窟の薄暗がりの中では十分すぎるほど目を引く光だった。正面の男が反射的に目を細めて、踏み込んでいた足が一瞬止まる。
光が膨らんでいき、槍の柄から離れ、宙に浮かぶ。
「……なんだ?」
リーダー格の男が、初めて壁から背中を離した。
腕を組んでいた姿勢が解けて、目が光の方へ向いている。
光が形を作っていく。
輪郭が生まれ、色が乗り、ふわふわした銀色の髪が現れ、白い耳が二本がぴょこん。
赤い瞳が、開いた。
洞窟の空気が変わった気がした。
温度が下がったわけじゃないが、でも、確かに何かが変わった。ルージュの赤い瞳が、ゆっくりと賊たちを見回していた。
「…なんだ、あの幼女は。」
誰かが呟いた。
ルージュは答えなかった。
僕の前に立っているのは、小さな背中だった。
どう見ても子供にしか見えない小さな体が、僕をかばうように賊たちの前に立っている。
「るーじゅちゃん…。」
小林さんが、思わずといった様子で呟いた。
リーダー格の男が一歩前へ出た。
「…召喚魔法か?ずいぶん変わった使い魔だな。まぁ、関係ないがな。」
ルージュは男を見た。
何も言わないただ、見つめるだけ。
その赤い瞳が男に向いた瞬間、男の足が止まった。
一歩を踏み出しかけていた足が、そのまま地面に縫い付けられたみたいに止まった。強がっていた表情が、一瞬だけ揺れた。
それを見て、僕はようやく気づいた。
ルージュの目は、今、先程と同じような戦場に立つ騎士の目をしていた。さっきまでの、きょとんとした子供みたいな赤い瞳じゃない。
長い年月と、数え切れないほどの戦場を経てきた、あの騎士兎の目だ。
「…テメェ、それ何だ。」
正面にいたダガーの男の声の調子が変わった。
さっきまでの余裕が剥がれて、本能的な警戒が滲み出ている。
ルージュは男たちを見たまま、小さく口を開いた。
「……ぬしさまに、さわるな。」
声は静かだった。怒鳴るでも脅すでもなく、ただ事実を告げるように、淡々と言った。
だけどその一言で、洞窟の空気が完全に凍りついた。
先に動いたのは、ダガーの男だった。
「うるせぇ、ガキがっ!」
叫びながら踏み込んでくる。
ルージュへ向けてダガーを振り下ろした。
次の瞬間に何が起きたのか、僕には見えなかった。
正確には、動きそのものは見えていた。
でも速すぎて処理が追いつかなかったのだ。ルージュの小さな体が動いて、男の腕が何かに触れた瞬間、男が吹き飛んでいた。派手な音もなく、ただ静かに。まるで壁に叩き付けられた布人形みたいに、男は通路の端でずるずると崩れ落ちた。
騎士兎の面影が、一瞬だけルージュに重なった。
「っ…!!」
「なん…っ。」
残った賊たちの間に動揺が走った。
リーダー格の男が、今度こそ本気の顔をしていた。愛想も余裕も全部剥がれた、戦士としての顔だ。
「……何者だ、お前。」
ルージュは答えなかった。
ただ、静かにそこに立っていた。
小さな体で、赤い瞳で、賊たちをまっすぐ見ていた。その沈黙が、何よりも雄弁だった。
リーダー格の男が、仲間たちを一度見た。
壁際で崩れ落ちている男を見た。
それからルージュをもう一度見て、長い息を吐いた。
「……引くぞ。」
低い声だった。
「で、でも先輩、あの槍が——」
「…引くと言ったはずだぞ。」
仲間の言葉を遮って、男は踵を返した。
残った賊たちが顔を見合わせながら、それでも男に従って後退していく。倒れた男を一人が担ぎ上げ、足早に通路の闇の中へ消えていった。
足音が遠ざかる。
やがて完全に聞こえなくなった。
洞窟に静寂が戻ってきた。
「…終わった?」
小林さんが、おそるおそる言った。
「…なんとか終わったようです。」
エミリさんが静かに息を吐きながら答えた。その声に、隠しきれない安堵が滲んでいた。
マサトが乱れた呼吸を整えながら、ルージュを見た。腕をさすりながら、少し複雑そうな顔をしている。
「…お前、めちゃくちゃ強いな。」
ルージュはマサトをちらりと見てから、くるりと僕の方を向いた。
「…ぬしさま、けが。」
「脇腹を少し打っただけです。大丈夫ですよ。」
「…ほんと?」
「ほんとです。」
ルージュはじっと僕の顔を見て、それから小さく頷いた。納得したというより、信じることにした、という顔だった。
「…ルージュ。」
「なに?」
「ありがとう。助かりました。」
ルージュは少しの間、僕を見ていた。
それから耳をぺたんと伏せて、小さく言った。
「…あたりまえ。」
その言い方がなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。マサトが「あたりまえって言えるくらい強いのかよ」と呟いて、小林さんが「ルージュちゃんかっこよかった~!」と声を上げて、エミリさんが「少し休みましょう、全員疲弊しています」と一気に賑やかになった。
一通り落ち着いたところで、僕はルージュへ向き直った。
「ルージュ。」
「…なに、ぬしさま。」
「一つ、お願いがあるんですけど…。」
ルージュが首を傾けた。銀色の髪がさらりと揺れる。
「…敬語、やめてほしいんです。」
「…けいご?」
「ぬしさま、とか、おねがいします、とか。そういう言い方のことです。」
ルージュは少しの間、首を傾けたまま固まっていた。言葉の意味を処理しているのか、それとも意図が分からないのか、じっと僕を見ている。
「…なんで?」
「なんか、その、居心地が悪くて。ルージュは僕の仲間だと思ってほしいから。主とか従者とか、そういうのじゃなくて。」
ルージュはまた少し黙った。
「…なかま?」
「そうです。」
「…ぬしさまは、あたしのなかま?」
「はい。」
「…あたしは、ぬしさまのなかま?」
「…そうです。」
ルージュはしばらく、その言葉を転がすように繰り返していた。なかま、なかま、と小さな口が動いている。それから、ぺたんと伏せていた耳がゆっくりと持ち上がった。
「…わかった。」
「ありがとうございます。」
「…でも。」
ルージュが僕をじっと見た。
「…ぬしさまは、ぬしさまだから。ぬしさまも、けいご?やめて。」
「わかりま――いや、わかったよ。」
「…うん。」
きっぱりと言われてしまった。
有無を言わせない、騎士のような眼差しで。
僕は少し考えて、それから笑った。
「じゃあ、それだけはそのままで。」
ルージュは満足そうに頷いた。それから僕の上着の裾をまた掴んで、歩き出した。
「…いこ?ぬしさま。」
「行こうか。」
洞窟の壁に埋まった宝石たちが、僕たちを見送るようにゆっくりと瞬いていた。
右手の中で、宝魔槍が一度だけ温かく光って、静かになった。
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