第56話 追跡者《チェイサー》
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
洞窟の震えはとうに収まっていて、あれだけ激しく波打っていた足元の水たまりも、今は鏡のように静まり返っている。天井から落ちる水滴の音だけが、規則正しく洞窟に響いていた。
女の子は僕の手元をじっと見ていた。
正確には、僕が握っている宝魔槍を見ていたのだが。その赤い瞳には感情が読み取りにくいけれど、敵意はない。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなさそうだ。ただ、確かめるように見ている。
「……あの。」
声をかけると、女の子の耳がぴくりと動いた。
「名前は、ありますか?」
女の子は少し考えるように首を傾けた。
銀色の髪がさらりと揺れ、それから、小さく口を開いた。
「…ない。」
「名前がないんですか?」
「ない。」
きっぱりと繰り返す。
嘘をついている様子はなかった。
「…じゃあ、つけてもいいですか。」
女の子がまた僕を見た。
今度は少しだけ目が丸くなっていた。
「……ぬしさまが、つける?」
「嫌だったら言ってください。」
女の子はしばらく黙って、それからもう一度だけ深く頭を下げた。どうやらそれが彼女なりの了承の仕方らしかった。
…名前かぁ。
と思いながら宝魔槍を見る。
赤黒い宝石の穂先が微かに瞬いていた。
騎士兎の赤い瞳と同じ色だ。
「……ルージュ、はどうですか。」
「るーじゅ…?」
女の子は口の中で転がすように繰り返した。
それから、ほんの少しだけ、唇の端が上がった。笑ったのかどうか分からないくらい微かな変化だったけれど、確かにそう見えた。
「……るーじゅ。」
もう一度、今度は自分のものにするように言って、また頭を下げた。
「よろしくお願いします、ルージュ。」
「…よろしく、おねがいします。ぬしさま。」
そのやり取りを、マサトはずっと呆然と眺めていた。
「…なぁ。」
「うん。」
「アルト…お前、その白っこいのを本当に連れていくのか?。」
「…うん。一人にはできないから。」
「まぁ、女の子だもんな。」
「…うん。」
さっきまで戦っているときは男かなって思ったけど…もしかして、人格が入れ替わっているのかな…。
「え~!ルージュちゃんって言うんだ!かわいい!!」
小林さんがルージュの前にしゃがみ込んで顔を覗き込もうとすると、ルージュはさっと僕の後ろに隠れた。僕の上着の裾をきゅっと掴んで、小林さんの方をじっと警戒している。
「あ、びっくりした?ごめんね~!」
「小林さん、少し距離を取ってあげてよ。」
「は~い。」
素直に引いた小林さんに、エミリさんがほっと息をついた。それからエミリさんはルージュを見て、少し考えるような顔をした。
「…召喚魔法の使い魔に近い性質かもしれません。ただ、私が知っている召喚魔法とは根本的に違いますが、あの槍に意思が宿っているとするなら、貴方が槍を手にした瞬間に主と認識したのでしょう。」
「使い魔、ですか…。」
「あくまで推測ですが。」
エミリさんはそう言いながらも、ルージュから視線を外さなかった。学者が珍しいものを見る目、というよりは、何かを慎重に見極めようとしている目だった。
「…エミリさん。」
「はい?」
「ルージュは…この子は危なくないですよね?」
少し間があった。
「…少なくとも今は、田中アルトに敵意を向けていません。ただ――」
「ただ?」
「あれだけの実力を持つイレギュラー個体が変化したものです。油断はしない方がいいと思います。」
後ろから裾を掴んでいるルージュを振り返ると、赤い瞳がまっすぐ僕を見ていた。怖いとは思わない、むしろ、どこか懐かしいような気持ちになった。さっきまで死闘を繰り広げていた相手だというのに。
「大丈夫だと思います。」
「…根拠は?」
「なんとなく。」
エミリさんが小さくため息をついた。
「…まったくあなたという人は、まったく…。」
◇
「…お前ら、随分と呑気だな。」
通路の奥からリョウが歩いてきた。
仲間たちを連れて、こちらへ向かってくる。
眼鏡の少女が興味深そうにルージュを見ていたが、リョウはルージュよりも先に僕の手元へ視線を落とした。
…宝魔槍を見ている?
リョウの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「…それがドロップか。」
「はい。」
「イレギュラーのドロップを単独で手に入れたのか。」
「エミリさんに支援してもらいながらですけど。」
リョウは少し黙った。
さっきまでの険しい表情とは違う、何かを測るような目だった。それから短く息を吐いた。
「…お前は俺たちとの取り決めは守ってくれた。カーバンクル2体、ちゃんと分けてもらったしな。」
「それはお互い様です。リョウさんたちが協力してくれなかったら、もっと大変でした。」
「…俺たちは通常個体しかやってないけどな。」
苦笑に近い表情で言って、リョウは宝魔槍をもう一度だけ見た。それから視線を上げて、僕の目を見た。
「…強いんだな、お前。」
「…いえ、今日の戦いはギリギリでした。他にも魔物があらわていたら僕たちは全滅していたかもしれません。正直なところ運が良かった、としか…。」
「…他人の俺が言っていいのか分からないが、お前はその…よくやっていた方だと思うぞ?」
意外にも素直に認めた言い方が、思っていたより気持ちよかった。リョウは仲間たちへ振り返り、顎で通路の奥を示した。
「…行くぞ。今日はここまでにしておく。」
「え、先輩もう上がるんですか?」
「新宿ダンジョンは儲かる分、危険も多い。今日みたいなイレギュラーが出た後は周辺の魔物も荒れる。初心者がいるパーティーは特にな。」
最後の一言はこちらに向けた言葉だった。
嫌みではなく、本当に忠告として言っているように聞こえた。
「…ありがとうございます。」
「別にいい…じゃあな。」
リョウはそれだけ言って歩き始めた。
仲間たちが後に続く。
眼鏡の少女だけが振り返って、ルージュへ小さく手を振った。ルージュは僕の裾を掴んだまま、微動だにしなかった。
「…行った、か。」
マサトが呟いた。
「案外悪い奴じゃなかったな。」
「最初は怖かったけどね~。」
「小林、お前は怖いと思ってたのか?」
「ちょっとだけだよ?」
僕はリョウたちが消えていった通路を見ながら、宝魔槍の柄を握り直した。ルージュがまた槍の方を見ている。
「ルージュ。」
「…なに、ぬしさま。」
「槍に戻れますか?」
少し間があった。
「…もどれる。」
「無理にとは言わないけど、ここから先は魔物も出るから、戦闘中は槍の中にいた方が安全かもしれない。」
ルージュは少しの間じっと考えていた。
それから裾から手を離し、槍の前へ歩いた。小さな手を穂先に添えると、赤黒い光がじんわりと広がって、ルージュの輪郭を包んでいく。
「…呼んだら、でてくる。」
「分かりました。」
「…ぬしさまが、よんだら。」
最後にもう一度だけそう言って、ルージュは光の粒になって槍の中へ消えていった。宝魔槍の宝石が一度だけ温かく瞬いて、静かになる。
マサトがぽつりと言った。
「…お前の人生、絶対普通じゃないよな。」
「…自分でもそう思ったよ。」
「まぁいいや。行こうぜ。」
◇
それからしばらくは、順調だった。
一階層の奥へ進むにつれて魔物の密度が上がるけれど、イレギュラー戦の後では通常個体が随分と楽に感じた。
マサトと小林さんがテンポよく前衛をこなし、エミリさんが的確な支援を飛ばす。
リョウの忠告通り、イレギュラーが出た後は周辺の魔物が若干荒れている気がするけれど、それでも対処できない水準ではなかった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「…エミリさん。」
「なんですか。」
「さっきから、後ろが気になるんですが。」
エミリさんが足を止めずに小声で返した。
「…私も気になっています。」
30メートルほど後方で、気配がする。
魔力視には映らない、もっと薄い気配だ。
これは…人間の気配だ。
「マサトには?」
「まだ言わないでください。竜ケ崎さんは顔に出ますから。」
確かに、とは思いながらも少し申し訳ない気持ちになった。
気配はずっとついてきている。距離を詰めてくるわけでもなく、離れるわけでもない。
ただ、僕たちの動きに合わせて動いている。
ダンジョン賊、という言葉がどうしても頭に浮かんでしまう。
…ヒナさんやサクラさんから何度も聞いていた。
やっぱり、いるのかな…。
「…数は?」
「少なくとも3。多ければ5だと思われます。」
エミリさんが淡々と答えた。
「装備の気配からして、それなりに慣れています。おそらくですが、素人ではないと思います。」
「狙いはやっぱり…。」
「恐らく…。」
エミリさんが一瞬だけ宝魔槍へ視線を落とした。
それで十分理解できてしまった。
さっきまで洞窟に響き渡るほどの戦闘をしていたのだ。イレギュラーのドロップが出たことは、近くにいた者なら気づいていておかしくない。
新宿ダンジョンで手に入る異常種のドロップがどれだけの価値を持つか、ダンジョンに慣れた者ならきっとすぐに分かる。
それも、ドロップ目当ての盗賊ののらば尚更に。
「…来ますね。」
「…ええ。」
「マサト。」
「言わんでもわかってる。」
「…っ!?」
エミリさんの表情が一瞬固まった。
それからすぐに、さりげなく前を向いたまま小声で返した。
「…人数まではわからん、何人だ。」
「3から5人かと。」
「武装は?」
「しっかりとした物を装備されているかと。」
短いやり取りの間に、マサトの目が切り替わった。さっきまでの気軽な雰囲気が消えて、戦士の目になっていた。
「小林、聞こえてるな?」
「…うん。」
小林さんも、珍しく真顔だった。
「逃げるか、戦うか。」
マサトが低く言った。
「逃げたら?」
「追ってくるだろ。ここは一本道だ、振り切れないと思う。」
「…戦ったら?」
「…相手は人間だ。冒険者とやり合う気があるなら、それなりの準備をしてきてると思う。」
沈黙が落ちた。
後方の気配が、じりじりと近づいてきていた。
もう距離を保とうとしていない。
間合いを詰めてきている…。
「…戦いおう。」
僕は言った。
「逃げながら戦うより、こちらで場所を選んだ方がいい。」
「リーダーがそう言うなら。」
マサトが拳を鳴らした。
右手の中で、宝魔槍がかすかに温かくなった。
「ルージュ。」
小さく呼びかけると、槍の宝石が一度だけ瞬いた。
――まだ出てこなくても大丈夫です。
でも、準備はしておいてほしいんです。
そんな気持ちで槍を握り直した時、後方の通路に人影が現れた。
松明の光に照らされた顔には、僕たちと同じ探索者の装備をしていた。
ただ、その目が違った。
あれは、僕たちを――いや、獲物を見る目だった。
「よぉ。」
先頭の男が、低い声で言った。
「そこの槍、少し見せてもらえるか?」
愛想のいい声だったけれど、後ろに控えた仲間たちが静かに武器へ手をかけているのが見えた。
「…見せるだけですか?」
男が笑った。笑顔の形をしていたけれど、目は笑っていなかった。
「まぁ、そこは話し合い次第だな。」
僕はマサトとエミリさんを一度だけ見た。
二人とも、頷いた。
「…そうですか。」
宝魔槍を腰のベルトに差し込みナイフに手を置いた。
――新宿ダンジョン第一階層の通路に、再び緊張が走っていく。
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