第55話 ぬ、し、さま?
洞窟全体が震え続けていた。
天井の岩盤から細かな砂が絶え間なく降り注ぎ、足元に広がっていた水たまりが同心円状の波紋を幾重にも広げながら揺れている。壁に埋まった宝石たちでさえ、その振動に共鳴するようにちりちりと鳴き声をあげている。
赤黒い魔法陣の直径は、ゆうに五メートルを超えており、複雑に絡み合う紋様は文字でも記号でもなかった。
それは、強いて言葉にするならば意志の形だ。
ダンジョンの深部で生まれ、何十年もかけて研ぎ澄まされてきた一つのダンジョンの意志が、そのまま魔力として可視化されたものだ。
「…なんですか、あれは。」
後方からエミリさんの声が届いた。
普段は感情を表に出さない彼女の声に、今は確かな動揺が滲んでいた。
分からない…っ。
…僕だって分からないんだ。
だけど、見えているんだ…。
魔力視が捉えているのは、その魔法陣から溢れ出す赤黒い奔流だった。川と呼ぶには激しすぎる。滝と表現しても生ぬるい。あれは堰を切った濁流だ。上流から全てを押し流しながら、ただ一点へ向かって収束していく、圧倒的な質量の魔力だった。
「田中アルトっ、下がりなさいっ!」
「…下がれない。」
「っ!?」
「…下がったら僕たちは終わりです。」
自分でも不思議なくらい、声は落ち着いていた。怖くないわけじゃない。膝が笑っているのは分かっている。肩の傷から血が流れ続けているのも分かっている。それでも視線は前から外れなかった。
騎士兎の全身を巡る魔力が、槍の一点へと収束していく。
見える。全部見えている。
足の裏から脹脛、腰、背骨、肩、腕、そして穂先へ。一本の川のように繋がった流れが、今まさに決壊しようとしている。あの奔流を正面から受けたら死ぬ。
プロテクションがあっても、エミリさんの身体昇華付与があっても、あの一撃を全身で食らったら無事では済まない、と思う…。
…だけど、だからこそ。
「……ここしかない。」
右手のナイフを握り直した。
目の奥に熱が灯る感覚がした。いつもの感覚だ。紫紺の魔力が目の端から滲み出てくる、あの熱だ。だけど今回は違う。流さない。垂れ流さない。目から頬へ伝わって消えていくそれを、今度は意識的に掴んで、ナイフへ、ナイフの刀身へと叩き込んでいく。
――|さぁ、最後の掛け合いをしよう…《勝負だ》。
「――紫煌」
…僕に出来るのは、もう、これしかないのだ。
これに全てを掛ける…。
呟いた声は、自分でも聞こえないくらい小さかった。
刀身が紫紺に染まっていく。震えるほどの熱が右手の平から指先まで満ちていく。握っているのか握られているのか分からないくらい、ナイフと手が一体になっていく感覚がした。
その瞬間、騎士兎の槍が解放された。
赤黒い閃光が、洞窟の空気ごと引き裂くように迸る。
「――っ!!」
逃げるんじゃない!受けるんじゃない!喰い破るのだ。
地面を蹴った。
真正面から。
一歩で間合いを潰すように、全力で踏み込んだ。
紫紺の刃と赤黒い奔流がぶつかった瞬間、世界が白くなった。
ドォォォンッ!!!
爆音が洞窟全体を叩いた。
衝撃波が空気を圧縮して壁の宝石を一斉に弾き飛ばし、天井から大粒の岩が降り注ぎ、赤黒と紫紺が激突し、混ざり合い、洞窟全体を塗り潰すほどの光が溢れた。
何も見えないし、耳が鳴っている。
身体が後方へ弾き飛ばされていくのは分かった。
「ぐぅ…っ!!」
床を転がりながら右腕で衝撃を殺そうとするが、腕全体に電流のような痺れが走り、まともに機能しなかった。二度、三度と転がって、岩壁の手前でようやく止まった。
しばらく、何も考えられなかった。
ただ息をしていた。荒く、浅く、肺の底から酸素を掻き集めるように。
視界が少しずつ戻ってくる。
天井が見え宝石の欠片が光を反射して、ゆっくりと降り積もっていた。
…綺麗だなぁ。昔こんな風にキラキラと光る星空を見に行ったことあったな…。
つい全く関係ないこと考えてしまうほど幻想的な光景だった。
…いやいや、立たないといけない。
右腕が痺れている。肩の傷が熱い。頭の奥がじんじんと鳴っている。それでも、膝をついた体を、左腕一本で押し上げた。
「……っ。」
騎士兎が、五歩後退していた。
宝魔槍を地に突き、片膝をついていた。あの圧倒的な存在が、確かに膝をついていた。宝石角の輝きが、戦闘中よりも随分と薄れている。
赤黒い魔法陣は完全に消えていた。
洞窟に静寂が落ちた。
騎士兎がゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳が、まっすぐ僕を見た。
最初に出会った時の目じゃない。
力量を測る目でも、試す目でもない。
その瞳の奥に宿っているのは、紛れもなく、畏敬だった。間違えるはずがなかった。あの騎士が、今、僕を見てそういう目をしている。
「……っ、ははっ。」
笑みが漏れた。
膝が笑っているのに、胸の奥が熱くてたまらなかった。
◇
少し時間を遡る。
僕が騎士兎と死闘を繰り広げている頃、数十メートル離れた通路では別の戦いが続いていた。
「マサトくんっ、左!」
「見えてる!」
マサトが地面を蹴り、横から飛びかかってきたカーバンクルの側面へ拳を叩き込んだ。
通常個体のカーバンクルでも、その速度と跳躍力は相当なものだ。
普通の新人探索者なら目で追うことすら難しい。
だけど今のマサトには見えていた。
「小林、次の個体を壁際へ追い込め!」
「オッケー!」
小林さんが軽い足取りでカーバンクルの前へ回り込む。彼女の動きは独特だった。重心が低く、ふわふわとしているように見えて、足の踏みしめ方が異様に安定している。カーバンクルが跳躍の方向を変えようとするたびに、まるで予測していたかのように先回りする。
「こっちだよ~?」
呑気な声と裏腹に、カーバンクルは完全に壁際へ誘導されていた。
「今だ!」
マサトが一気に間合いを詰め、カーバンクルの額の宝石角へ手刀を叩き込む。ガキンッ、と乾いた音がして、角に亀裂が入った。
「もう一発!」
続けて逆の手で打ち込む。角が砕け、カーバンクルが力なくその場に崩れ落ちた。
「よし!」
「マサトくん強~!」
「当たり前だろ。……ってか、アルトの方が心配だ。」
マサトが顔を上げて通路の奥を見た。そこからは激しい剣戟音と、洞窟を揺さぶる衝撃波が断続的に届いていた。天井から砂が落ち、足元が微かに揺れ続けている。
「……あいつ、ちゃんとやれてんのか?」
「大丈夫じゃないかな~。」
「…お前はなんでそんな呑気なんだよ。」
「だってアルト君、明らかに昇華してたよね?前よりも。…多分今の私たちじゃ足手まといにしかならないと思うよ?」
「……。」
マサトは何も言わないし、否定もしなかった。
いや、否定が出来なかったのだ。
別の通路では、リョウたちが残りの二体を相手にしていた。リョウは無駄のない剣捌きで一体を削り、仲間たちが連携して囲んでいる。眼鏡の少女が魔法で動きを封じ、その隙をリョウが突く。
手堅く、堅実な戦い方だった。
「リョウ先輩、もう一体は!」
「俺がやる。お前たちは下がれ!」
リョウが前へ出た。正面から残りの一体と向き合い、剣を構える。その横顔は真剣で、さっきの険しい表情とはまた違う、戦士としての顔をしていた。
その時だった。
洞窟の奥から、轟音が響き渡った。
壁が揺れた。床が揺れた。天井から握り拳大の岩が幾つも落下してくる。
全員が反射的に動きを止めた。
「……何が起きてる?」
リョウが低い声で呟いた。
誰も答えなかった。答えられなかった。あの衝撃はただの戦闘音ではない。ダンジョンの構造そのものを揺さぶるような、桁外れた力のぶつかり合いだった。
「……早く終わらせるぞ。」
リョウが剣を構え直した。仲間たちも無言で頷いた。
◇
騎士兎はゆっくりと立ち上がった。
膝についていた片足を地面へ戻し、宝魔槍を両手で持ち直す。その動作に焦りはなかった。
ただ、静かで、厳かだった。
そして槍の穂先を下に向け、深々と頭を下げた。
騎士が主君に対して行う礼のように、長年の戦友の墓前に立つ武人のように、静かで、重くて、誤魔化しのない礼だった。
言葉が出なかった。
相手は魔物だ。
ダンジョンで生まれた、人ではない存在だ。
なのにその礼が全然おかしく見えなかった。
むしろ、これ以上ない形で決着がついた気がした。
騎士兎は頭を上げ、もう一度だけ赤い瞳で僕を見た。
その目の色は、最初に出会った時からは想像もできないほど穏やかだった。
試す目でも、測る目でも、もうなかった。ただ、静かな満足が宿っていた。
それから騎士兎は、音もなく光になった。
…っ!?
魔物が消えたっ!?
通常魔物を討伐するとその場に遺体が残る。
いや、ダンジョンで倒せば時間で自然とダンジョンに吸収されることはあるけど、こんな早く消えることはふつうあり得ない。
そして、現状爆発するわけでも、崩れ落ちるわけでもなかった。ただ静かに、赤黒い粒子が宙に舞い上がり、緩やかな渦を描きながら収束していった。
騎士兎の輪郭が薄れ、形が崩れ、銀色の毛並みも宝石角も赤黒い鎧も、全部が光の粒になってほどけていく。
そして最後に残ったのは、一本の槍だった。
宝石を組み上げたような穂先、赤黒く鈍く輝く柄。ついさっきまで騎士兎が握っていた、あの宝魔槍が、音もなく床に横たわっていた。
「…田中アルト。」
エミリさんの声がした。気づいたら隣に来ていた。
「怪我の状態を見せてください。」
「…大丈夫ですよ?」
「大丈夫じゃありません。」
エミリさんは眉を寄せて僕の肩口を見た。槍に掠めた傷は、じわじわと血を滲ませ続けていた。
「治癒魔法をかけます。動かないで。」
「……ありがとうございます。」
温かな光が肩に灯った。傷口から痛みがじんわりと引いていくのを感じながら、僕はずっと床の槍を見ていた。
「なぁアルト。」
マサトが駆け寄ってくる足音がした。
…よかった…小林さんも一緒だ。
通路の奥ではリョウたちが後片付けをしているらしく、剣を鞘に収める音が聞こえた。
「……あの槍、拾うのか?」
マサトの声は、いつもより少し静かだった。
「拾います。」
迷いはなかった。
エミリさんの治癒が終わるのを待ち、ゆっくりと床へ歩み寄る。
宝魔槍はさっきまで戦っていたとは思えないほど静かに横たわっていた。穂先の宝石が微かに赤黒く瞬いている。まるで、眠っているみたいに。
手を伸ばして、柄を掴んだ。
その瞬間、槍全体が一度だけ強く光った。
「っ!?」
反射的に目を細める。
周囲のみんなも驚いて身を引いた。
光は一瞬で収まり、宝魔槍は何事もなかったように、普通の槍と変わらない重さで僕の手の中に収まっていた。
「…変な感じはしない。ただの槍みたいだ。」
「田中アルト。」
エミリさんの声のトーンが、わずかに変わった。
「その槍、魔力がとても…歪に感じます。」
言われて、意識を向ける。
「……あ。」
槍の内部に、細い魔力の筋が通っていた。
血管のように、あるいは木の根のように、複雑に枝分かれしながら中心の宝石へと向かっている。そしてその宝石の奥で、何かがゆっくりと脈打っていた。眠っているような、息をしているような、生き物みたいな動きで揺れている。
「それは…何ですか?」
「…分かりません。ただ魔石の類とは明らかに違うみたいです。魔石は魔力の器でしたよね?…でもこれは…何か、宿っているような感じがします。」
宿っている。
その言葉を頭の中で繰り返した時だった。
槍の中心の宝石が、ぽっ、と温かく光った。
「わっ!?」
マサトが一歩飛び退く。小林さんが「わあ!」と声を上げた。エミリさんも息を呑む気配がした。
光は膨らみながら槍の柄から離れ、宙に浮かんだ。
それはゆっくりと形を作り始めた。輪郭が生まれ、色が乗り、ぼんやりとした像が少しずつ鮮明になっていく。
「…え。」
僕の口から、間の抜けた声が出た。
そこにいたのは、小さな女の子だった。
白くてふわふわした耳が頭の上に二本。騎士兎と同じ、深い赤の瞳。赤黒い色合いの鎧部分が施されたワンピースを纏い、頭には小さな宝石の角が一本だけ。
ふわりとした銀色の短い髪が、洞窟を流れる空気を受けてゆっくりと揺れていた。
背丈は小林さんよりさらに小さく、どう見ても子供だった。
その子はきょとんとした丸い瞳で、僕の顔をじっと見つめていた。それからゆっくりと視線を下ろし、僕の手の中にある槍を確かめるように見て、また顔を上げた。
小さな口が、開いた。
「…ぬし、さま?」
声は鈴を転がしたように澄んでいた。
洞窟が静まり返った。
「え。」
「ぬし、さま。」
もう一度、今度は少しだけ確かめるように繰り返した。
…真っ赤な瞳と目が合ってしまう。
ルビーのようなきれいな目だ…。
さっきまで戦っていた騎士の目と、同じ色だった。同じ色で、でも全然違う。あの騎士の眼差しには長い年月と戦場の重さが宿っていたけれど、今目の前にある瞳は、世界に生まれ落ちたばかりの子供みたいに澄んでいた。
「……アルト。」
マサトが固まった声で言った。
「これ、どういう状況だ?」
「……僕に聞かれても。」
「え~!超かわいい!!」
小林さんだけが完全に普通のテンションで反応した。女の子はびくりと肩を震わせて小林さんの方を見て、それからまた僕に視線を戻した。
「……よろしく、お願いします。」
何を言えばいいか全然分からないまま、僕はとりあえずそう口にした。
すると女の子は、ゆっくりと、とても丁寧に頭を下げた。さっきの騎士兎がそうしたように、深く、真剣に。
洞窟の壁に埋まった宝石たちが、紫紺と赤黒の残光をゆっくりと瞬かせながら、僕たちを照らし続けていた。
右手の中で、宝魔槍が一度だけ温かく光って、それから静かになった。
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