おバカ貴族と導きの月光
月光が、ヴェズィラーザム子爵邸の廊下を、奇妙に穏やかな光で包み込む夜だった。
怒り混じりの意見打診を終えたばかりのザラは、自身の内側から湧き上がる苛立ちとは裏腹に、その足取りにはある種の解放感が宿っていた。だが、彼の視界に現れた向かいからの存在は、その僅かな安堵を瞬時に凍てつかせた。
「バカサル……貴様、一体どこへ行っていた」
暗闇の中から緩慢に姿を現したのは、齢にしては不似合いなまでに幼い、しかし紛れもない美少年カサル。
彼は、使用人の使う木の皿に残り物の豆のスープを入れ、まるで機械に給油するかのように、無言でそれを口に運びながら歩いていた。
その口元に浮かぶ含み笑いは、彼を糾弾する弟の言葉を嘲笑うかのような、異様な空気を纏っていた。
「物見遊山に街へな。ふっふっふっ……」
「何が可笑しい!」
カサルの視線は、感情的な激昂を湛えるザラを、まるで実験動物を観察するかのような冷徹さで見つめていた。
「いやなに、お前から我に声をかけてくるとは珍しいと思ってな。どういう風の吹き回しだ?腹でも減ったのか?」
茶化すような兄の言葉は、ザラの内なる激情に火を注ぐ。彼の顔は、不愉快と屈辱によって醜く歪んだ。
「貴様が自らの責務を放棄し、邸を抜け出したせいだろうが!少しは反省をしろ!」
「我がどこにいようと、それは我が決めることだ。指図される謂れはない」
豆のスープを口に運びながら、悪びれる様子もない厚顔無恥な兄。その存在は、ザラの理性という細い糸を、ついに断ち切った。
彼は自分よりも遥かに小さなカサルの、フリフリとしたドレスの胸ぐらを掴み上げた。その指先には、長年の屈辱が凝縮されたかのような力が込められている。
「俺に継承権を譲れ!長男のお前が言えば、全員が納得する。この領地は頭のおかしいお前が持っていたところでなんの役にも立たないものだ!」
ザラの感情的な迸りに、カサルは笑みを零した。それは成長を喜ぶ兄のそれではなく、まるで自らが設計した実験が、想定通りの反応を示したかのような冷酷な満足感であった。そしてその笑みは当然ザラに更なる挑発として映る。
「領地内であれば我の特権で水着の美女を邸に招き、酒池肉林の限りを尽くすことができる。随分と楽しませてくれるだろうさ。その時はそうさな、お前も女を連れてくるといい。我の女はくれてやらんぞ」
「そんなことのためにお前は……!」
怒りによって思考を停止したザラは、臆面もなくそうのたまった馬鹿の顔を殴り飛ばした。
小さな体は廊下の壁まで吹き飛び、豆のスープが入った皿は中身をぶちまけ、粗末な木片の音を立てて転がる。その散乱したスープは、まるで領地の荒廃を象徴するかのようであった。
「愚か者が。説教に暴力を使うのは最終手段にしておけ。その道具には毒が塗ってある」
仰向けで廊下の天井を仰ぎ見るカサルは、鼻から血を流しながらも、その目はどこか遠くを見据え、淡々と説教を続けた。
彼の言葉は、ザラの内側で怒りの炎をさらに燃え上がらせる薪となる。ザラは意識の奥底で蠢く本能に突き動かされ、倒れた兄に覆いかぶさった。二発、三発と、彼の可愛らしい顔を容赦なく殴りつけた。
「俺がどれだけ愚兄であるお前のせいで、嘲笑と言われもない誹謗を受けたと思っているんだ!」
鼻から血を流し意識が薄れゆくカサル。だが彼の瞳には月光を浴びて金髪が輝くザラの姿を捉えていた。
(あの時、小さな太陽の下で光を浴びることができたのは一人だけだった。だから僕は賭けに出たけど……どうやら間違っていなかったようだね)
「……ああ、我が悪かった。お前には随分と苦労をかけている」
「……は?」
まるで、過去のどの記憶とも合致しない、素直すぎる言葉。
ザラは混乱のあまり、廊下に散らばった豆のスープに目を向けた。アレに毒物でも入っていたのではないか。しかし、カサルが口にしたのは紛れもない本音であった。そして、その本音をこの場で口にすることは、彼にとって、計画が最終段階に入ったことを意味していた。
「お詫び、と言っては何だが……お前に、これをくれてやろう」
カサルは、血に濡れた袖から一枚の手紙を取り出した。その封蝋に押された紋章を見た瞬間、ザラの瞳は、貪欲な光を宿し、大きく見開かれた。
「それは……!公爵家の家紋!」
「ああ。これはそこの長男、つまりは公爵家の次期頭首になる男と一対一のお茶会が出来る招待状だ。お前にこれをくれてやる」
公爵は貴族社会の頂点に立つ存在であり、その長男に気に入られることは、この貧しき領地の未来を切り開く、まさにプラチナチケットに他ならなかった。
ザラは、なぜこのような破格の機会を兄が持っているのかなど、思考することもなく、ただ本能のままにそのチケットに飛びついた。彼の視界は、己の価値を示す機会に巡り合えた歓喜で満たされていた。
「これだ……コレがあれば俺は……!」
招待状に浮かれ狂喜乱舞する獣に、カサルは最後の調教を施すための言葉を用意した。そしてそれは、見方を変えれば兄が弟に送る最後のエールでもあった。
「もしそこで先方の評判が良ければ、我もお前に継承権を譲ってやらんこともない。だが、チャンスは一度きりだ。お前のミスが領地の今後を左右すると知れ。それでもやるというのなら……行ってこい。行って、兄より優れているのだと証明して見せろ」
「言われるまでもない。後悔するなよ」
毅然とした態度で去って行こうとするザラの背中は、その内側で騒ぐ高揚感を隠しきれず、どこか浮足立っているようにも見えた。カサルは、その光景を苦笑しながら見送ると、廊下に落ちたスープの皿を拾い上げた。
「十六歳か。……デカくなりやがって」
次の回はやっと空賊のあの子が戻ってきます!
でもあれ?あの泥棒って死刑になるんじゃ……。
ではまた(^_^)ノシ
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