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episode8 事件

凌雅が去った後、自由になった夏華は、ゆっくりとティータイムを過ごしていた。


柔らかな光。

高級な茶器。

誰にも邪魔されない、ほんの短いひととき。


カップを持ち上げながら、ふと―先程の光景が思い浮かぶ。


(……お義父様に喜んでいただけてよかった)


年に一度の、生誕祭。


華やかな席。

交わされる祝辞。

並べられる贈り物。


その中で、夏華はいつも神経をすり減らしていた。


黎蓮会統帥の妻として、恥じない品を。

そして、誰よりも見劣りしないものを。

何より―お義父様である黎浩然が心から喜ぶものを。


(……間違えられない)


その重圧は、年々増していく。


(……でも)


カップの中で、紅茶がわずかに揺れる。


(これが、唯一___お兄ちゃんと一緒にいられる、理由だから)


小さく息を吐く。

自分でも分かっている。


これは、少し“ずるい”。


それでも___手放したくない。


「……」


もう一口、紅茶を含む。

その時だった。


【カチャッ】



背後で、わずかな音がした。

振り返る間もなく___視界が、黒に覆われる。


「……っ!?」


口を塞がれる。

身体が浮く。


声は出ない。


必死に抵抗しようとするが、力が入らない。


(……なに…こ…れ……)


意識が、急速に遠のいていく。


(お…に…い…ちゃん…ごめ…ん)


夏華の体の力が抜け、意識を手放した。



「 第一阶段任务完成(第一ミッション完了)」


***



____________凌雅side


会場に戻る途中、夏華と別れた凌雅は、最後の夏華の顔を思い出していた。

照れたように笑う姿は、昔からみていた無邪気な夏華の表情だった。


(夏…可愛かったなぁ)


気付いたら会場前まで来ていた。

そこには、右腕の劉が待っていた。

劉は俺の顔をみてため息をつく。


「凌雅様、夏華様のことを考えるのは良いですが、もっと顔を引き締めてから戻ってきてください」


「ッ」


凌雅は一瞬言葉に詰まる。


「……そんな顔してたか?」


「えぇ。非常にわかりやすく」


劉は呆れたように肩をすくめる。


「今の顔で戻れば、“黎蓮会の総帥”ではなく“ただの新婚ホヤホヤの嫁溺愛野郎”に見えますよ」


「……」


図星だった。


凌雅は軽く息を吐き、ネクタイを整える。

一度、目を閉じる。


___切り替えろ。


開いた瞳には、もう先ほどまでの柔らかさはない。


「……戻るぞ」


「はい」


*****


会場は、まだ賑わっていた。

笑い声、グラスの音、交わされる祝辞。

あっという間に時間は過ぎた。


凌雅は江崎さんとの会談のため、ホテルの貸切部屋へ移動する。


(本当は…夏と…過ごしたいのに…)



___これが終われば。



凌雅は珈琲を一口飲む。


「凌雅様…江崎様と濱田様をお連れしました」


劉の後ろには江崎と濱田が着いてきていた。


「いや〜、お忙しいのにお時間を作っていただきありがとうございます。凌雅様」


「いえ…。どうぞお掛けください」


江崎と濱田は、凌雅の迎え側の

ソファに腰掛ける。


凌雅も合わせるように座り、口を開く。


「早速で悪いけど、XC代表の江崎さんが俺に何のよう?」


江崎はゆっくりとにこやかに口を開く。


「俺というか、俺の連れがお前に用がある」


凌雅は視線を濱田に向ける。

濱田もそれに気付き、口を開く。


「このニュース知っていますか」


ポケットから1枚の紙を出し、凌雅の前に出す。

それを受け取り内容を確認する凌雅。


「……あぁ、最近の若い女の誘拐事件ね」


凌雅は紙を前の机の上に置き、改めて濱田を見る。


「この事件が____もしかして()()の仕業だと疑ってるのかな?濱田さん」


濱田は凌雅の声色の変化に狂気を感じた。


(これが…マフィアのトップ…生半可の覚悟じゃ相手にしてもらえねぇな)


濱田は、背筋を伸ばして頭を下げる。


「疑ってはいません。俺は妹を助けたいんです。どうかお力をお貸しいただけないでしょうか?」



その言葉に凌雅はピクッと眉を片方動かす。


「疑ってない?何を根拠に言っているわけ?もしかしたら、俺がやってるかもしれないじゃん。それに、何でわざわざ俺に頼むわけ?」



「…理由ならあります」



濱田は真っ直ぐ凌雅を見る。



「奥様への対応見て、あなたではないと思いました」



「…は?」



まさかの返答に凌雅は聞き返す。

濱田は深呼吸をして話し始める。


「最近、中国系マフィアが若い女をターゲットにやたらと誘拐をしています。もし、あなたの組織がやっているなら、溺愛してる奥様に8人も護衛をつける必要はないでしょう」


「………」


凌雅は濱田の考えを黙って聞いていた。


「しかし、あなたは奥様に8人もの護衛をつけていた。誰も顔も名前も知らない黎魔の華に対して。あなたがあれほどの護衛をつけるのは、あなたは狼牙が若い女を誘拐するのを知り、大切な妻を守るためではありませんか?」



沈黙が流れる。

沈黙を破ったのは凌雅だった。



「ハハハ、流石探偵だね。濱田誠さん」



「!?」



濱田はまさか自分の正体に気付かれたことに内心驚くが、動じないように真っ直ぐ見つめる。

それに反して、凌雅は笑う。


「まぁ、確かに狼牙の奴らが最近やたらと若い女を誘拐するからな。念には念をと思ってつけていたが、まさかたった数時間でその答えが導き出せる君はなかなか面白いね」



今日初めて会った人が本質をついてきたことに凌雅は笑う。それを見て硬い雰囲気はどこかへ行きそうになるが、濱田が頭を下げる。



「頼む。大切な人がいる貴方ならわかるはずだ」



流れる沈黙。


「悪いけど…うちは協力しない」


濱田は思わず顔を上げる。

そして今まで黙っていた江崎が口を開く。



「…大切な奥さんを助けた恩人にあんまりにも薄情じゃないか、凌雅さんよ」



「それはそれ。これはこれ。夏の件に対しては本当に感謝してる。本当にありがとう。でも、だからと言って、今回みたいな他組織と抗争がおっ始めるかもしれないリスクを上げる必要はないね」



「…随分、黎蓮会も逃げ腰になったなぁ」



「江崎さん、あなただってわかるでしょ?俺たちが動いたらいろんな均衡が崩れかねない。俺だって歯痒いんだよ」



江崎の嫌味に対して、優雅に珈琲を飲む凌雅。



(…ここで終わりなのか…。理世を…助けたいのに…何もできねぇ…)



2人の会話についていけないこと。

助けたいのに何もできない濱田は、悔しそうに俯くしかできなかった。


2人が静かな交戦をしていると、いきなりドアが開く。



「老大 、不好了!(ボス、大変です)」


「没看我在谈事吗。「今大事な話してるんだけど)」


部下は頭を下げながら、凌雅の元に向かい耳打ちする。それを聞いた凌雅は低い声で「あぁ?」と眉間に皺を寄せる。



「悪いが、急用ができた」



そう言って、足早にいなくなろうとする凌雅を

引き止めようとする江崎。



「まだ、話は終わって…」



「…そんなこと言ってる場合じゃない」


凌雅の余裕のない表情。

その顔を見て江崎の勘が頭に冴える。


「濱ちゃん追いかけるぞ」



「え?」



「いいから行くぞ」



江崎に連れられ、濱田は凌雅を追いかける。

凌雅がエレベーターに取るところで追いついた。


「オマエタチ、コレハカシキリダ」


一緒に乗ろうとすると部下が止める。



「得快点……得赶快去见她(早くしろ!早く…夏の元へ行かないと)」



部下は総帥の言うことを聞いて2人を乗せる。

エレベーターは上へと上へと向かっていく。

濱田も今の状況がなんとなくわかるような気がした。

でも、現状それについて口を開くことはできない。


なぜなら、黎凌雅がブチ切れているからだ。

先ほどとは、全然違う。


(ちょっとでも触れればこちらの首が飛びそうだ。)



エレベーターが止まりドアが開くと駆け足で、凌雅が出ていき、必死に叫ぶ。



「夏!!!夏華!!!!どこにいるんだ!!」



最上級スイートルームを全力で探し回る凌雅。

彼女が飲んだであろうティーカップ。

飲んでいる時に襲われたのか、残りのお茶が床にこぼれ、カップが割れている。


「ビンゴ。やっぱり奥さんのことだった。あいつがあそこまで取り乱すのは奥さんだろうと思ったが…まさか誘拐とはな」



江崎も周りの状況を見て濱田に呟く。




「凌雅様!!これを」



戻ってきた凌雅に、

劉が拾ったものを凌雅に見せる。



「…これ…狼牙の組章…?…あいつらもしかして夏を…?」



「可能性は大だと思われます」



劉は険しい顔で凌雅を見つめる。



「…夏を取り戻しに行くぞ」



凌雅から溢れ出す殺気。

凌雅の低い声が、部屋の空気を凍らせた。

先ほどまで余裕をまとっていた男とは、まるで別人だった。


総帥としての冷静さはある。

だが、その奥に煮えたぎる怒りが見える。


劉が一歩前に出る。


「凌雅様、すでに出口の監視映像を確認させています。ホテルの裏口から大型スーツケースを運び出した男が二名。顔は狼牙の下部構成員と一致しました」


「……やっぱりか」


凌雅の拳がきしむ。


「車は?」


「黒のワンボックス。ナンバーは偽装されていますが、進行方向は港湾地区です」


その瞬間、濱田が顔を上げた。


「港……?」


江崎が舌打ちする。


「狼牙の売買ルートだ。港から船に乗せられたら終わりだ」


濱田の顔色が変わる。


「理世も……そこにいる可能性が……?」


江崎は静かに頷いた。

濱田は息を呑み、凌雅へ向き直る。


「頼む……!今度こそ協力してくれ!」


部屋に沈黙が落ちた。

凌雅はゆっくりと振り返る。

その目には、冷たい光。


「……さっき、断った」


「……っ」


「だが、状況が変わった」


凌雅の視線が、濱田を真っ直ぐ射抜く。


「狼牙は俺の女に手を出した」


空気が張り詰める。


「これはもう、ただの誘拐事件じゃない。黎蓮会への宣戦布告だ」


その言葉に、劉の目も鋭くなる。


江崎は口角を上げた。


「ようやく本気になったか」


凌雅はゆっくりと濱田に歩み寄る。


そして、目の前で立ち止まった。


「濱田誠」


「……!」


「お前の妹を助けたい気持ちは痛いほどわかった」


一拍置いて、低く告げる。


「さっきはすまなかった。共に大切な人を救おう」


濱田はその言葉を受け止めた上で、真っ直ぐ答える。


「いいってことよ!むしろ俺からしたら心強い。よろしく頼む、黎さん」



互いに握手を交わし二人の視線がぶつかる。


静かな火花。

探偵とマフィアの総帥。

本来なら交わるはずのない二人。


だが今だけは違う。

目的は同じだ。

大切な人を取り戻す。

江崎が低く笑う。


「交渉成立ってとこか」


劉が即座に部下へ指示を飛ばす。


「港湾地区、狼牙の倉庫候補を全て洗い出せ。警察の動きも確認しろ。船の出港予定もだ」


「是!」


部下たちが一斉に動き出す。


凌雅はスーツの内ポケットから拳銃を取り出し、弾倉を確認した。


カチリ、と乾いた音。


「……夏」


その声には、押し殺した焦りが滲む。


濱田がそれを見つめ、静かに言う。


「必ず助ける」


凌雅は濱田を見た。

先ほどまでただの堅気だと思っていた男。

だが今、その瞳には覚悟があった。

凌雅は小さく鼻で笑う。


「死ぬなよ、探偵」


「そっちこそ」


江崎が肩をすくめる。


「全く、厄介な夜になったな」


ホテルの外では、黒塗りの車が次々と並び始めていた。


狼牙と黎蓮会。

ついに均衡が崩れる。


その夜、横浜の裏社会は大きく動き出す―。



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