その13 事務作業に業務目標って必要?
『ユウちゃん』のおかげで?
岩尾君と河澄さんのトラブルが何とか解決して、数週間後。
会社ではまた一つ、ちょっとした事件が起こっていた。
それは、河澄さんの突然の退職。
このことは彼女の業務に関わる僅かな人間しか知らされておらず、同じグループたる藤田さんでさえも、直前まで知らなかったらしい。
当然、岩尾君も驚いていた――
悠季の話によれば、あれからずっと岩尾君は悩んでいたらしい。
『ユウちゃん』については、完璧すぎるほど潔く振られたことで吹っ切れたみたいだけど、河澄さんについては結構グダグダと引きずっていたようだ。
彼女が退職を決めたのは自分のせいではないか、とまで言っていたという。
「思い上がりもいいトコ!」って、沙織さんは吹き出してたけどね。
私もそう思う。
確かに、岩尾君とのことは彼女の心に多かれ少なかれ影響を与えたのは間違いない。
でも、それはほんのきっかけに過ぎず――
「……河澄の奴だけどさ。
岩尾とのことがあるずっと前から、会社自体が嫌だったみたいだぜ」
いつもの会社帰り。
私は残業を許されず、山のようにたまった事務を何とか悠季と協力しつつ、定時で片づけ――
会社近くの公園で、悠季と二人で一息ついていた。
彼はブランコに乗りつつ、ふと漏らす。
「女同士のしがらみも普通に嫌だったらしいし、それに――
毎日毎日ずっと変化を望めない事務仕事をやらされて、それでいて仕事に目標達成を求められる矛盾が、心底嫌だったんだとさ」
「事務作業に目標……確かに変だよね。
私も、ミスを少なくするとか期日通りに仕事を達成するとか電話を出来るだけ取るとか、色々目標にあげてるけど……
上司にはいつも言われるの。そんなのはやって当然のことであって、目標とは言えないって」
不満げに頬を膨らませる悠季。
「葉子たちみたいな事務作業で目標決めるって、他にナニすりゃいいんだよ」
「例えば……業務改善の提案、とか?
残業削減の為にマクロを組むとか、システムの改善案を通すとかだね」
「そんな余裕あったらとっくにやってるし、そもそも提案した改善案が通ったことなんてあったか?」
「……ないよね。
私のものは勿論、他の人の改善案がまともに通ったこともないよ。
人員も時間も足りてないのは分かってるのに、それ以外で改善案を出せとか無茶言われて。
仕方ないからシステムの改善を提案したら、それはIT部門が受け付けないとか言われて……」
「それでも、無理矢理目標のうちに入れられるんだろ?
その業務改善とやらがさ」
「そう。
業務改善系のマクロ組むとかマニュアル作るとか、強引に年間目標に入れさせられて。
でも他に優先すべき仕事は山ほどあるから、そんなのやる余裕なんか全然なくて。
ひっ迫してる業務の残業でさえなかなか受け入れられないのに、個人の目標達成の為の残業なんて許されるはずもないし。
それで、結局出来なかったねってことで評価が下がる。
ずっと、その繰り返し」
「今更業務改善なんて、出来ることは全部やり切った上で人員と時間が足りねぇって言ってんのに、それだからな」
「辞めたくなるよね……河澄さんみたいなベテランでも」
悠季の隣でブランコを揺らしながら、私もため息をつく。
社員に変化を強引に求めながら、古い体質を頑なに変えようとしない会社。
社員から変化を求められると、頑として突っぱね続ける会社。
そういう会社の歪みは、大なり小なり様々なところで現れる。
岩尾君が河澄さんにあんな真似をしてしまったのは、そんな歪みのほんの一例にすぎないのかも知れない。
今の私みたいに、残業を殆どせずに帰れるのは、理不尽な残業ばかりを押し付けられるブラック企業の社員から見れば幸せなのだろう。
だけどそれは、本来残業しなければ処理出来ないレベルの仕事を無理矢理定時で終わらせるように命じられ、何とか悠季と協力して必死で終わらせた結果だ。
それが果たして、ブラックじゃないと言えるのだろうか?
どれほど仕事が残っていても、容易に残業は許されない。残業すれば理由を執拗に問い詰められ、お前の仕事のやり方が悪いだの能力がないだの散々責め立てられるのは。
そんな会社の中で悩み続け、理不尽な目に遭い続けているのは、私だけじゃない。
沙織さんも、多分岩尾君も、河澄さんも――
悠季やみなと君という、文字通り住む世界が違う異分子が飛び込んできても、その体質は容易に変わらない。
それどころか、彼らを傷つけ、力づくで排除しようとまでする――
この前の震災が、悠季たちを抹殺する為の策略だったように。
――だから河澄さんは、多忙な中でもずっと資格の勉強をして。
いつでも退職できる準備をしていた。
岩尾君とのことは、彼女をほんのちょっと後押ししただけにすぎない。
――それにしても。
こうして緑豊かな公園で、柔らかな夕陽の中でブランコに乗る悠季を見ていると――
あの『ユウちゃん』を思い出して、どうしても吹き出してしまった。
「おい……いい加減忘れろよ。
もう俺、当分やんねーからな。あーいう真似は」
「当分ってことは、いつかまたやるんだ?」
「え?
い、いや、それは……その」
悠季にしては珍しく、ちょっと赤くなりながら頭をかき、言葉を濁している。
そんな横顔がなんだか可愛くて、ますます吹き出してしまう。
「……に、してもさぁ。
やっぱり送別会とか、やるんだなぁ。面倒くせぇ」
あ。悠季、明らかに話を逸らした。
しかもあんまり触れたくない方向の話題。でも、思いっきり愚痴りたかった話題でもある。
「そうだね。
この間の震災の影響がやっとおさまってきたとはいえ、早速また送別会の名目で飲み会とか……
正直、ありえない」
「河澄自身も嫌がってたらしいぜ。
元々、飲み会の類は全部断ってきたみたいだしな」
私も、親しくもない上司や意地悪な先輩たちと一緒の飲み会なんて、絶対に嫌だ。
ただでさえ仕事で心身共に疲れているのに、業務後のプライベートの時間まで潰されるなんて冗談じゃない。それが本音。
だけど大抵の場合、断れずに地獄を見る。
色々理由を考えて断りのメールを書き上げても、送れずに結局連れ出されてしまうのだ。
もしかしたら、心から悩みを相談できる相手がいるんじゃないか。上司が思わぬところで悩みを聞いてくれるんじゃないか。そうどこかで期待してしまい、断り切れない。
でも――
学生時代には時々起こった奇跡ではあったけど、会社の飲み会では決してありえなかった。そんなことは。
「しかしまぁ……沙織も多分一緒だろ。
ならハルマもいるし、ちゃんと脇固めて、楽しく飲めるようにしてやるよ♪」
「そっか。
じゃあ、普段の夕飯とあまり変わらないね」
そう。悠季が来てくれてから、あれだけ地獄だった飲み会や送別会・歓迎会も、だいぶ楽になってきた。飲み会にもちゃんとついてきてくれて、私の隣にいてくれるから。
ついでに言うと、私が嫌だと思う相手(例えば上司とか)の隣席にならないよう、さりげなくサポートまでしてくれる。
さらに言うと、事前に飲み会の出席者の確認も透視術でやってくれる。
悠季がいない頃は、軽い気持ちでうっかり歓迎会に出席したら周りは全員上司だったなんていう絶望もあったくらいだ。そんな危険が消失したのもとても嬉しい。
「はは。
この際だ。河澄とちょっと話してみるのもいいんじゃねぇか?」
「えっ?」
白い歯を見せて笑いながら、そんな言葉を口にする悠季。
だけどその一言は――
ほんの少し、私の心をざわっとさせた。
河澄さんと――話、か。
もしかしたら、色々聞けるかな。
退職したら、どうするつもりなのか。
転職先は決まっているのか。
誰かいい人がいるのか――それとも。
「結構真面目に、俺、考えてる。
葉子は――本当に、この会社で働き続けたいのかってさ」
「……!」




