2 沙羅と『AMOUR』
灯夜が姉の朝陽に体の状態について告白してから五日後。
日曜日の昼下がり。繁華街近くの喫茶店で、沙羅はある男性と話し込んでいた。
「もう、この件は終わったはずです」
「そう言わず、もう一度考え直してくれないか? 君が必要なんだ」
沙羅と向かい合って座る男性は、見た目は二十代後半くらいの優男といった印象で、ミディアムヘアの茶髪に青いフレームの眼鏡をかけ、服装はネイビーのスーツで決めている。
話しの節々だけを聞いていると、まるでカップルの別れ話のようだが、二人は決してそういった関係では無い。
あえて二人の関係性を言葉で表すなら、元仕事仲間というのが適切だろうか。
沙羅と話している男性の名は翠川。沙羅が所属していたアイドルグループ『AMOUR』のマネージャーである。
「『AMOUR』の人気は確実に上がってきている、沙羅が戻ってきてくれれば、グループはもっと高みを目指せるはずだ」
話の内容からも分かる通り、翠川の目的は沙羅に対してグループへの復帰を求めることにある。
現在『AMOUR』は、音楽番組のランキングにも曲が入る機会が増え、一般層への知名度も上がってきている。
人気が上がって来た今こそが勝負どころだ。メンバー達はみな負けず劣らずの実力派揃いだが、所属していた頃の沙羅の実力は頭一つ抜けていた。沙羅が復帰してくれれば、必ずグループにとってプラスになると、翠川を含めた事務所側は考えている。
「私が引退することは、事務所やメンバーともちゃんと話し合って決めたことじゃないですか」
「もちろんそうだが、あの時と今とでは状況が違う。今のままじゃ足りない、グループの更なる躍進のためには君の力も……」
「その発言は、メンバーのみんなに失礼ですよ。みんなの頑張りは、翠川さんも一番近くで見て来たじゃないですか」
「……それは」
「『AMOUR』はとても素晴らしいグループです。もっと、みんなの力を信じてあげてください」
「……」
翠川は何も言わなかった。沙羅の言う通り、メンバー達は確かな実力を持ち、努力も怠らない優秀な娘たちばかりだ。それは翠川もよく分かっている。
だが、それだけで全てが上手くいくわけでは無い。より成功する可能性が高まるのなら、あらゆる手を尽くしたい。沙羅を復帰させることもまた、その手段の一つなのだ。
「沙羅、君は今の生活に満足しているのか? また、アイドルとして輝きたいとは思わないのかい」
「……過去に未練はありませんし、今の生活は楽しいです」
沙羅が答えるのに僅かに間があったことを、翠川は見逃さなかった。
声色から察するに今の生活が楽しいというのは本心なのだろうが、過去に未練が無いというのは嘘だろうと翠川は思った。
アイドル時代にあれだけ輝いていた沙羅が、そう簡単にその頃の感覚を断ち切れるとは思えない。
「そこまで言うなら仕方がないか」
沙羅の中に未練を感じられただけでも収穫だと思い、翠川は今回はここで退くことにした。しつこ過ぎるのも逆効果だろうし、未練が残っているのなら説得する余地は幾らでもある。
「また来るよ」
「私の考えは、たぶん変わらないと思いますよ」
「その時はその時さ」
意識しているのかどうか分からないが、今だって沙羅は「たぶん」という曖昧な表現を使っている。明確な拒絶の意志があるのなら、「絶対」と言えばいいのにだ。
「会計は済ませておくから、ゆっくりしていくといい」
翠川は伝票を持って席を立ったが、立ち去り際に、思い出したかのように沙羅にある話題を振った。
「そういえば沙羅。君はさっき、引退のことはメンバー達ともしっかりと話し合ったと言ったね」
「はい、みんな納得してくれたはずですが」
「本当にみんなかい?」
「どういう意味ですか?」
「絵麻だけは、納得していなかっただろう」
「……確かにそうですが、最後には納得してくれたはずで」
「周りに同調しただけさ。本心では、彼女は誰よりも君の復帰を望んでいるはずだよ」
意味深にそう言い残すと、翠川は会計を済ませて喫茶店を後にした。
「絵麻……」
翠川の去った後の店内で、沙羅は携帯端末に保存されていた写真を眺めていた。写真はアイドル時代のもので、あるイベントの際に控室で撮った、沙羅と絵麻のツーショット写真だ。
絵麻は北欧系の血を引いており、美しいブロンド髪が印象的だ。グループ内ではクールビューティーなキャラで通っている。
友人でもあった絵麻には、きちんと自分の考えを伝え、引退を理解してもらったつもりだった。
だけど、今になって思えば、自分の意見を一方的に押し付けただけのかもしれない。引退という結果は変わらなくとも、理解を得るのと得ないのとではまるで違う。
絵麻なら分かってくれる。絵麻なら最後は笑顔で送り出してくれる。そう決めつけて、彼女の言葉をきちんと聞いていなかったようにも思う。
真名仮市に越してきて以来、絵麻とは疎遠になっている。一度試しに連絡を取ってみようかと、沙羅はメールの作成画面を開くが、
「……やっぱりやめておこう」
どういう文面を書けばいいのかまるで思い浮かばず、沙羅は操作する手を止めた。
そもそもメールで済ませていいような話では無い。一度会う機会を作って、面と向かって話しをする必要がある。
「いつなら都合がつくのかな」
一般人となった今では、メンバー達のスケジュールも分からない。
今まで自分がいた場所との距離感を、沙羅は改めて感じていた。
今回は沙羅に焦点を当てた話となりました。三章ではまだ触れなそうですが、沙羅と『AMOUR』に関するエピソードも、今後の物語で描いていきたいと思っています。
次回は、二章では海外に行っていた『不可思議堂』の店主を登場させる予定です。




