21 偽りの代償
毎度遅くなってごめんなさい!よろしくお願いします。
闇色に濡れた路地を少女は小走りに急いでいた。
「だいじょうぶ……だいじょうぶよ」
震える小さな声で繰り返し、かごを下げている腕に力を込める。
中の花はほとんど萎れてしまっていた。持ち場を離れて仕事を放棄したせいだ。早く戻らねば宿のおかみさんに見つかってしまう。他の花売りたちが気付いて告げ口するかもしれない。『客も満足にとれないウスノロマのくせに』と姉さんたちにまた罵倒され、食事も取り上げられてしまう。
急がなければ、はやく戻らなければ――
不気味な静寂の中で身を竦め、破れた靴で少女は必死に冷たい石畳を踏みしめる。
雲間に隠れていた月がおぼろげに顔を出す。廃屋の続く路地の暗闇がほんの少し和らいだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ……ちゃんと……お祈りしたんだもの……」
神官様もそう言っていたもの……
幼い唇で、少女は自分を励まし続ける。
さっき覚えたばかりのある言葉が胸に浮かぶ。自分を守るための呪文だと教えられた。怖くなったら念じればいいのだと。だから大丈夫、怖くない――
「はっ……」
だがふいに何かの気配を感じて少女は立ち止まった。
ずる……ずる……
重い衣を引きずる音。何かがくる、後ろから――
「だ……だれ……?」
全身に怖気が走った。呼吸が震え、前歯がカチカチと鳴り始める。
――いけない。
だめよ、振り返っては。でも――
得体の知れぬ恐怖に背を向けていることに、少女は耐えられなかった。
「あ……あ……っ」
振り返った先で、“闇”が動いた。
「きゃああぁぁ…………」
悲鳴が途切れた。
赤い花びらが舞う。
無明の世界に鮮血のように飛び散って、はらはらと落ちていく。
花かごが、音もなく地面に転がった。
少女の姿はなかった。
あるのは、深淵のような闇と、それに同化した静けさだけ――
雲を切り裂いて現れた三日月が、青白い月光を路面へ映していた。
「ねえ、あれはどういうこと?」
バルコニーの手すりに頬杖をついて、ミトが不機嫌全開の声で言った。
吸い込まれそうな夜の淵に孤灯のように浮かぶバルコニーを包むのは、後ろの応接室からの柔らかな明かり。楽しそうな笑い声が漏れてくるその場所を振り返り、談笑する人々の輪の中にいる一人の少女をミトは眺める。
「なんで君と彼女が婚約してるわけ?」
次いで隣を振り仰ぎ、きっと眼尻を吊り上げた。。
「それも突然、何の前触れもなく! 昨日までは何も言ってなかったじゃないか。なんなの? なんだっていうわけ? いったいいつ、何がどうしてどうなったんだよっ!」
隣で優雅に薔薇酒のグラスを傾ける花形騎士に、ミトがずいと顔を突きつける。驚きや非難よりも“悔しさ”に満ちた幼なじみのその顔に、マラウクは思わず吹き出した。
「何必死になってるんだよ。正直だな、お前は」
「わっ、笑うなよ! ちゃんと説明しろ!」
「うーん……説明しろと言われても。お互い思い合ってると確信すれば自然と起きることだろう」
「だってお前、なんでもないって言ってたじゃないか! だから――」
「……“僕が狙ってたのに”?」
「う」
「悪いな」
ミトの白皙の美貌が赤く染まる。薄暗い中でも、酒を飲んだってこんなにはなるまいというくらいに赤い。それは意外な反応だった。
「……本気だったのか、お前。すまない」
「う、うるさい! 謝るなっ、余計むかつく! 昔から何をやってもオレよりうまく出来るし目立つし――こうやっていいと思った女の子は結局はみんな君が本命だし……! ああ! もう君ってほんと嫌なやつ! まあ僕の勝手な逆恨みだけど……」
手すりについた両腕に顔を埋め、ミトが深いため息をつく。
「もうそうなっちゃったのは仕方ないけどさあ……でもお前、一体どうやってあの蛇を説得したんだよ。あのコレッティだぞ? 口出ししてこないはずがない」
「――ああ、それは」
恨み顔を上げたミトに、マラウクは芳醇な香りを纏う極上の酒を一口含んだ。
「心配ない。……例えそうだとしても、彼女には手出しさせない、絶対に」
「え?」
笑い声に掻き消され、ミトが問い返す。「なんて言った?」
「――いや」
雲間にかすむ月のようにマラウクはかすかに微笑み、手すりの向こうに広がる闇を見た。
「説得はこれからだが、何を言われても負ける気はない」
たとえ剣を交えることになろうとも――引くつもりはない。
「……お前、何か隠してるだろ」
「べつに」
「はぐらかす気か? またそうやってお前は――」
両腕を腰に当てミトが臨戦体勢をとる。だがすぐに勢いを引っ込め、「やめたっ」と両手を振った。
「……まあ、いいや。どうせ時がくれば教えてくれるんだろう。お前はいつもそうだよな。でもぬけがけした理由は、近々じっくりと二人きりで教えてもらうからねっ!」
そう息巻くとマラウクの手からグラスをもぎとり、ミトは残りを一気に飲み干した。
「それから、ものすごく謎なんだけど」
空のグラスを突き戻し、形のいい眉を思い切り寄せる。
「“ティティーリア”って誰? なんでいきなり名前が変わってんの?」
「やっぱりやりすぎだと思うの、婚約って」
クレイヴランス邸へ向かう馬車の中で、ティティーリアは向かいに座るマラウクに切り出した。
「まだ心配なのか? 言っただろう、君を守れる力くらい俺にはあると」
ふう、と一息をついて座席に深く沈み、マラウクが怪訝そうにティティーリアを見た。
「あなたはそう言ってくれるけど……私はやっぱり自信がないわ」
ため息をつかれることは知った上での提言だったが、やはり気持ちは穏やかではいられない。
「嘘が大きすぎる。それに、どうして私の本名を皆に明かしたの?」
今夜の晩餐の席で、マラウクは突然「ルイーゼ」でなく「ティティーリア」と呼び始めたのだ。
事情を明かしたヘルヴォルと、始めからその名で紹介をされたエンリケはいいとしても、ミトとヘルヴォル夫人、そしてマーカス卿は一様に首を傾げた。もちろん何も聞いていなかったティティーリア自身も驚きで思わず固まってしまったくらいだ。
「全部ばらす気なのかと思ったわ。本当にびっくりしたんだから」
「うまく切り抜けただろうう? 思いつきのつじつま合わせにしては」
マラウクが悪戯っぼく片目を瞑って見せる。悪気のなさにむっとしてティティーリアは花弁のような赤い口唇を曲げた。
どういうことだと訊く三人に対し、マラウクが用意した説明はこうだ。
じつはルイーゼというのは、ケルナー家の“継ぎ名”で本名はティティーリアという。もともと侯爵家とは遠縁で爵位のない家の生まれだが、両親ははやくになくした。しかしケルナー家の亡くなった一人娘によく似ているということで引き取られ、娘の名である”ルイーゼ”を継承した。だがもとの名に愛着があるので、公の場以外ではもとの名を使うことが多い……。
上流社会では家督を継ぐ時や他家へ養子へ入る時に“継ぎ名”に変えることは一般的な風習らしく、三人を納得させることは出来たようだった。
「貴族の娘でない」と説明されていたエンリケは「えぇ! コレッティ卿の従姉妹だったの!?」と飛び上ったが、「彼女が騒がれるのを嫌うからあえて伏せた」というマラウクの言葉に、とりあえず騙されていた。
「“愛情をもって育ててくれた養父母のために彼女は本当の名を捨てようとしたが、僕はあえてティティーリアと呼びたい。ありのままの彼女を大切にしたいから”なんて、よく思いついたわね。さすが貴公子様はお口がお上手だわ」
夫人などマラウクのその言葉にいたく感動した様子で、涙ぐんでまでいた。
巧妙な芝居や嘘は上流社会では必須の処世術なのだろうが、名門貴族の当主だけあってマラウクは別格だ。その口調も表情も何もかもが自然すぎて、疑うべきところがなかった。嘘だとわかっていても信じてしまいそうになる何かがあって、こっちまで騙されそうだった。
「でもうまくいっただろう。こうやって少しずつ嘘を崩して、君をコレッティから引き離す」
「……どうして? “ルイーゼ”の方が都合がいいんじゃないの? コレッティの動きを抑えるためにも」
「いや――きっと向こうもこのまま黙ってはいない。むしろ今の状態でいる方が厄介なんだ。俺が君をかどわかし監禁しているなんて告発でもすれば、君を取り戻すのは簡単だ。なんせ君の肩書は“コレッティ侯爵の従姉妹”だからね。どちらが有利かなんて明白だろう。そんなことになる前に、奴に釘を刺しておいたほうがいい。だからヘルヴォル卿を味方にしておこうと思ったんだ」
およそ策謀には縁遠そうな完璧な容貌の一点に、、不敵な色が浮かぶ。
「ヘルヴォル卿は騎士団統括であるだけでなく、総督も一目置く高等院の重鎮だ。庇護下にいれば、コレッティも迂闊に手は出せない。君に身分偽装させオレの命を狙ったと脅しかけることも出来る」
「……色々と計算して動いているのね」
「もちろん。周到な計画や入念な警戒は貴族社会では必須だ。油断すればすぐに足許をすくわれる。己の身を守る術を知らずに滅んで行った者たちを今まで数え切れぬほど見てきた」
貴族の社会は均衡を重んじる。
ふさわしい振る舞いと言動、節度をわきまえた行い、そして調和。
この世界は、わずかな揺れや乱れも厭う暗黙の秩序という柵に覆われたこの箱庭では、人々は己に見合った位置を確保し、与えられた役割を演じていく。万一その柵を越え和を乱す者があれば、世界はたちまち兇器を振りかざしその者を排除するだろう。
「恐ろしい場所ね、あなたの世界は……。でもそうやって消されてしまうのは、貴族たちだけじゃない。たくさんの位も名もない人々も身勝手な秩序の犠牲になった――兄さんや、お父さんみたいに」
――昼間ヘルヴォルから聞かされた話は、ティティーリアにとって大きな衝撃だった。
父が政府と関わりがあったこと、そして罪人の烙印を捺されて永久牢獄に墜とされその名すら末梢されたこと――
兄もまた同じような運命を辿り消された。
それは偶然ではない。
二人の死は繋がっている。
そしてすべての真相は、この閉ざされた世界の中にあるのだ。
「あなたたちの世界が私の家族を殺した。なのに私は……いまその世界で生きてる。自分を偽って微笑んでる。笑いかける相手が、兄や父を陥れた人かもしれないのに」
表向きは華やかな貴族の世界。何も知らない幼い頃は、夜な夜な開かれる舞踏会に憧れたこともあった。
でも本当は、腐敗した狂った世界なのだ。犠牲の上に成り立っている繁栄なのだ。それなのに素知らぬふりをして、人びとは優雅暮らしを享受している。
本当は知っているのか、本当に知らないのか――わからなくて恐ろしい。
「……お願い、教えて」
切なる眼差しでティティーリアはマラウクを真正面から見つめた。
「あなたは……本当に私の味方? あなたは私の知りたいことをすべて知ってる。でも謎だらけだわ。与えるべき情報だけを選んでいるのは、わざとでしょう? それは私を操るため? 少しずつ絶望を与えて弱らせて……逃げられないようにするため?」
本当は裏切られるのではないか。そんな思いがずっと胸の中で点滅を繰り返している。
マラウクはセイクリッドのことだけでなく父マーティンのことも知っていた。その怜悧な美貌の奥にはもっともっと、ティティーリアが驚愕するような事実が隠されているに違いない。
彼は知っていて、知らぬふりをしている。それが欺くためなのかどうか、やはり確かめたい。
「あなたに助けられなかったら私はどうなっていたかわからない……それは確かよ。でも、先の見えない今の状態であなたを心から信用出来ない。他に頼る人もいないし行くあてもない。それもわかっているけど……怖いの。何があなたの本意かわからないから」
「……つまり、俺が君を利用しているのではと疑っている?」
不安を吐き出すティティーリアを、空色の瞳がじっと見つめてくる。
「……婚約者のふりをすることについても腑に落ちないことはあるわ」
俯きながらティティーリアは頷いた。
「エインリケが言ってたわ。あなたには想い人がいるって。たとえふりでもその人を欺いて他の女と結婚を誓うなんて、騎士にあるまじき行いでは?」
鎖を通し持ち歩いている“下賜の花”を指で持ち上げる。
「この花は心を捧げたい人に贈るんでしょう? だったら私が持つべきではないはず。あなたほどの騎士がそんな大事な誓いに背くなんて」
――知らないの?
エンリケにそう訊かれた時、驚くと同時に怒りのようなものが込み上げた。
そして気づいたのだ。自分は本当にマラウクのことを何も知らない。このまま従うだけでいいのかと――
「――それは」小さな銀の花からマラウクが一瞬目を逸らした。
「君が気にすることじゃない。それに何の問題にもならないことだ」
「問題にならない?」
突き放す物言いに再び気持ちが波立つ。
「関係ないということ? 婚約者のふりをするというのに、私には何も知る権利はないの? あなたは私のことを知ってるのに、あなたは自分のことは何も教えてくれない。それどころか私をそばに留めるちゃんとした理由も、私や私のまわりで何が起ころうとしているのかも何ひとつ……! あなたを悪い人だとは思いたくない……でも! 今のままじゃあなたについていくのは無理。私は無力だけどもう小さな子供じゃないわ。自分のことならばちゃんと知りたい。どんなに残酷で過酷なことでも……受け止める。お願いだから無視しないで……。助けてくれるというなら、一緒に立ち向かわせて」
銀の薔薇を握りしめ、ティティーリアはもう一度まっすぐにマラウクを見つめた。
大切なものが消えた理由を知るのは悲しい。そして……怖い。
でも今の、空っぽな状態の方がもっと耐えられない。
兄を取り戻そうと――誓った日から、覚悟はあるのだ。
「……君の気持はわかった」
マラウクが小さく頷きを見せた。
窓の向こうで巨大な門がゆっくりと開かれる。馬車はその間をすり抜け、前庭へと入っていく。
「君にすべてを告げないのは、危険から守るためだ。君の苦しい気持はわかった上で、でもそうしなければならないと思った。君をなんとしても失わないために……それが我が一族に課せられた使命であり、“願い”だから」
「願い……?」
揺れるランプの灯りの中で、稀にみる極上の輝きをもつ宝石のような青い瞳が頷く。
「……この身には、我が祖先の血だけではなく記憶も刻まれている。彼が何を思い、どう生きたのか……それらすべてが。クレイヴランスの当主たちはみな、その願いを果たすために“彼”の意志を継いできた。君はオレたちの存在理由なんだ」
御者の掛け声が聞こえて馬車が止まった。扉が開かれ、出迎えの明かりが並んだ。
「君に覚悟があるのなら、その言葉が揺るぎないものなら、――君に見せよう」
きゅっと引き締まったマラウクの表情に、ティティーリアの背筋に緊張が走った。
「我が一族が守り続けてきた“願い”を」