映し記すこと
彼は、1枚の紙とペンを取り出す。
ロビーに設置してある机を前にしながら、彼の様子を伺っていた。
そして、迷いなく3人の名を書き連ねる。
「これは、俺の名前。これが、ばあちゃんの名前。そして……」
指で、誰の名なのかを指示していく。
「あんたの名前」
漢字で書き記されていることに、驚いてしまう。
思わず、彼の言動に固唾を飲む。
「俺、やっと思い出したんだ。ばあちゃんが伝えたかったこと。忘れちゃいけなかったこと」
彼は、私の目を真っ直ぐ見つめる。
「あんただったんだな。俺の名の由来は」
「え?」
「俺は小さかったからうろ覚えなんだけど、ばあちゃんや父さんから聞いていた話があって。それは、ひいばあちゃんの初恋相手のこと」
「初恋?」
「そう。兵隊は、荒々しくて命を奪う怖い人というイメージだったらしいんだけど、その人だけは優しい人だった。いつも『大丈夫だから!』って声をかけながら、怪我をした人を担ぎこんできたらしい。どうしても近づきたいために、食料配給の時は率先してその人へ渡しに行ったりして。それでも足りなくて、会うたびにあれは好きか、これは何だとたくさん話しかけたって。小さなことでもその人を知ることができた時、ものすごく嬉しくて。映画の約束までできたときは、涙が出そうなほどだった。でも、ひいばあちゃんを庇って亡くなった」
彼の語る、ひいおばあ様の話は、私の記憶と重なる。
もしかして——。
彼は、優しく微笑む。
「その人の名は、永瀬 映記さん。あんただ」
私の名を呼ばれ、一気に蘇ってくる。
コロコロと笑う彼女の姿。
いつも口元を手で隠しており、おしとやか。
しかし、一瞬手が離れたときに見せる表情は、今、目の前で微笑んでいる彼と重なる。
「ハナさんは……。生き残った」
「そう。だから、俺がいる」
彼の言葉に、涙が溢れそうになる。
守れたことへの安堵もある。
しかし、きっとそれだけではない。
「父さんが、その話をすごく大切にしていてさ。最初は戦争の話だから怖い印象しかなかったけど、話をしているときの表情が忘れられなくて。時代に関係なく、優しい人に育つようにって、あんたの名前から一字もらった。だから、今度は……」
彼は、私の手を握る。
そして、その手を彼の頬にあてる。
「まだ、記憶に干渉する力が残っているなら、俺の記憶を見て。きっと、本だけじゃ足りないだろ?」
「どうして?」
「俺のわがまま。ちゃんと、あの約束を果たしたいから」
「約束?」
「そう、それも思い出させる。だから、頼む」
彼の真剣な目。
私は、彼の思いに応えたい。
私は、モノクルを外す。
ゆっくり頬にあてていた手を、目を覆うように動かす。
そして、そっと目を閉じた。
すると、次々と私と会話する彼の姿が流れ込んでくる。
——————————
「あんた、誰だ。ここはなんだよ!?」
「よくお越しくださいました。成見 映介様。私は、ここの案内人です」
何事もないように、平然と話し続ける私に、苛立ちを隠せない彼。
「大変失礼いたしました。お名前は、かつおぶし様ですね。ようこそお越しくださいました」
「か、かつおぶし!?」
猫のお客様に、驚愕する彼の姿。
「ふ~ふふふん~♪」
「それは何ですか?」
「あ、これはね——」
楽しそうに、歌について語る彼。
「おい! 案内人!」
必死に私の意識を繋ぎ止めようと、叫ぶ声。
たくさんの他愛もない、記憶が溢れる。
そして、1つの約束にたどり着く。
「もし、思い出すことができたら。呼んでくれますか?」
それは、一番避けていた未来への約束。
「当たり前だろ! その時は、俺の名前も呼べよ!」
彼の、花が咲くような笑顔。
——————————
私は、ゆっくり目を開ける。
そして、手を離し紅色の本を開く。
そこに書かれていた一文に、背中を押される。
『これからも、彼との思い出が増えていくことを願う』
そうか、私が本当に求めていたものは、記憶ではない。
何もないはずだった私を満たしてくれたのは、彼との日々だった。
紅色の本を閉じる。
もう、この本だけに縋らなくてもいい。
私は、彼の目を見つめる。
そして、一番呼びたかった名を口にした。
「なんて顔をしているんですか、映介」
私の呼ぶ名に、彼は我慢していたものが溢れてくる。
ぽろぽろと涙を流しながら、笑った。
「それは、こっちのセリフだから。映記さん!」




