名劇
私の前には、今にも泣き叫びそうな表情をした男性が、膝をついている。
まるで、この世の絶望を経験したかのように。
「案内人。俺のこと、分かるよな?」
震えた声で問う。
案内人とは誰だろう?
私に訴えかけているのは分かるが、ピンと来ない。
「何をおっしゃっているのか、分かりませんが……。君とは、初めてお会いするはずです」
「そんなことない。だって、さっきまで俺のことを、見習いって呼んでいたじゃん」
「何のことでしょうか?」
私は首をかしげる。
彼は、ふらっと立ち上がると、勢いよく私の腕をつかむ。
「ちょっと来い!」
「いや、待ってください!!」
彼は、力強く腕を引きながら、ある場所へ向かった。
「そんなに強く引いたら、腕が外れてしまいます!」
「もう死んでるから、外れねぇよ!」
「よく分からないこと、言わないでください!」
私の抗議は虚しく、彼は扉を蹴り飛ばす。
「笠木さん、教えてくれ!」
連れて来られた場所は、フィルムの匂いが充満していた。
あぁ、この匂い——懐かしい。
「映介! 前から思ってたんだが、扉は蹴るもんじゃなくて……お前さん?」
笠木さんと呼ばれた人が、私の姿を見て目を大きく見開く。
「何があった」
まるで、感情を押し殺しているような低い声。
すると、私の腕を引いてきた彼が、必死に話す。
「案内人が、俺の記憶に干渉して。それで——」
「あの、バカ! 忠告を無視して!」
「忠告?」
「いや、こっちの話だ」
そして、笠木さんは私の目をじっと見る。
すると、俯いて静かに立ち上がった。
「映介。案内人として、初仕事だ。ご案内しろ」
「何言ってんだよ! まるでお客様みたいに」
「見えたんだろ? 名前」
「……」
目の前では、現実味のない会話が繰り広げられている。
映介と呼ばれている彼は、手を握りしめながら、泣くのを堪えているのが分かった。
「俺は、呼ばない。絶対に……」
そう言って、彼は出ていってしまう。
笠木さんは、大きなため息をつきながら、私を睨んでいた。
「あの……私は、彼に何かしてしまったのでしょうか? それであれば、謝ります」
「覚えの無いことで、謝んな。だが、まぁな……」
笠木さんは、頭を掻きながら、何か言いたげな表情をする。
「こうなったからには、仕方がねぇか。よし、今から質問することに、正直に答えろ。いいな?」
私は、無言で首を縦に振った。
すると、笠木さんは、「よし」と小さくつぶやく。
「じゃあ、生前の記憶はあるか?」
「はい」
「名前は?」
「はい」
「出会ったころと逆だな……」
「え?」
「あ、悪い。では最後、さっきの彼は、分かるか?」
「いいえ……。でも、目を合わせると頭に文字が浮かぶんです。あれは何でしょうか?」
「なるほどな」
笠木さんは、腕を組みながら部屋中を歩き回る。
そして、優しく微笑んだ。
「お前さんにとって、最高の思い出ってなんだ?」
「最高の思い出?」
「それを、さっきの彼に見せてやれ。案内人としての力は、健在のようだしな」
「力?」
「そう、やり方を教える」
そう言って、笠木さんはこの場所について、案内人について教えてくれた。
私は、ずっとここにいたこと、先ほどの彼と何をしてきたのかも。
どうしよう。
まったく覚えがない。
すると、笠木さんがある部屋から1冊の本を持ち出し、差し出す。
「これは、映介との記憶らしい。きっと役に立つ。だが、開くのはあいつの許可を取ってから。分かったな?」
「はい……」
私は、恐る恐る受け取る。
「さあ、行ってこい」
笠木さんに背中を押されて、部屋を後にした。
ロビーに向かうと、彼が何か見つめながら握りしめている。
私は、本を抱きしめながら声をかけた。
「あの……。な、成見さん?」
彼の肩が、ビクッと跳ねる。
そして、ゆっくり振り向いた。
「なんで?」
「いや、名前が見えたので。成見 映介さんですよね?」
「俺は、こんなふうに呼んでほしいわけじゃ……」
「あの?」
目を真っ赤にしている。
私は、どう声をかけて良いのか分からなかった。
ふと、握られているものが目に入る。
「あなたが今、握っているものは?」
「え? これも……」
「これも?」
「いや……。雑巾だ、あんたが作った」
「私が作った?」
「そうだよ、30枚も。」
「そんなに!?」
過去の自分がなぜ、また雑巾を。
しかし、彼の表情をみていると、たかが雑巾なんて言えない。
あぁ、私は、彼に何と伝えればいいのだろうか。
その時、笠木さんに教えてもらったことを思い起こす。
そうか、これかと思った。
「成見さん、私と一緒に映画を観ませんか?」
「なんの?」
「私の記憶です。良い記憶とは言えませんが、私のことを知ってほしくて。いかがでしょうか?」
この、「いかがでしょうか」という言葉。
体に染みついている感覚があり、自然と言葉にしていた。
すると、彼は涙を拭う。
「分かった」
一言、返事をすると、雑巾を持ったまま大きな扉の前に立つ。
「それを持っていくのですか?」
「ダメか?」
「いえ、斬新だなと思っただけです」
思わず苦笑いしてしまう。
そんなに、掃除が好きなのかな。
この本を開けば、分かるのかもしれない。
でも、まずは自分から。
私は、シアターの中に一歩踏み入れた。
規則正しく並ぶ、座席に言いようのない感情が込み上げる。
あぁ、ここは映画館。
私が、徴兵前に働いていた場所。
見慣れていたはずなのに、懐かしい。
「どの席で、観ますか?」
私は、働いている側だったから、いつも一番後ろの右端だった。
だから、彼の好きな席が良い。
すると彼は、ある席を指さす。
「あそこ。ばあちゃんと一緒に観た席で」
そこは、最後列の中心席。
「分かりました」
私たちは、席についた。
目を閉じ集中する。
そして、1つの記憶が脳裏に映る。
それを合図に、モノクルを外し目を開く。
すると、ゆっくり部屋が暗くなり、スクリーンに光が照らされた。
——————————
それは、外の光を通さないほど、暗い場所。
野戦病院と化していた、壕にいた。
そこには、健気に命を救おうと走り回る1人の少女。
いつも笑顔を絶やさない人だった。
「兵隊さん、今日の分です」
そう言って、私に水と小さな芋のかけらを差し出す。
「ありがとうございます」
これは、毎日の挨拶のようなもの。
この短い会話が、実は生きていると実感させられた。
壕の中には血の匂いと土の匂いが入り混じっている。
「痛い」
「水をくれ」
あちこちからうめき声が絶えない。
私は、鉄の雨が降り注ぐ中、怪我人を壕へ運ぶ。
時には、処置に参加して、体中が真っ赤に染まることもあった。
早く終わってほしい。
ゆっくり、家族と映画が観たい。
しかし、それを口には出来ない。
次、この木板の上で横たわっているのは、自分かもしれない。
明日の約束を口にすることすら、贅沢で。
だからこそ、未来の話なんてできなかった。
そんなある日、いつものように少女から、食料を受け取った時だった。
「あの、兵隊さん。それは何ですか?」
はじめて、「今日の分です」以外の言葉。
凄く嬉しかった。
私は、手に持っていたものを差し出す。
「これは、万年筆です。特段、良いものというわけではありませんが、御守りみたいなものです」
「見てもいいですか?」
「もちろんです」
彼女は、万年筆を受け取り、ろうそくの明かりを頼りに、ゆっくり見つめる。
「これは……。名前ですか?」
「はい、私です」
すると、少し照れ笑う。
「私は、知念 ハナと言います」
「よろしくお願いします」
その時、私は自分の名を言わなかった。
伝えても、長く生きられる自信が無かったから。
しかし、彼女は万年筆に書かれた名を見て、少し嬉しそうだった。
それから、少しずつ彼女との会話は増えていった。
全て、彼女からの質問ばかり。
どこ出身なのかや、どんな仕事をしていたのか。
好きな食べ物などの他愛のないものまで。
そんな姿を見ていた、山本が茶化してくるようになった。
「なぁ、今日はハナちゃんとどんな話をしたんだ?」
「教える必要あります?」
「そりゃ、友人として知ってもいいだろ」
「教えません!」
「え~!」
いつ死ぬか分からないこの戦況で、彼女の存在は私たちにとって、唯一安心できる場所だった。
ある夜、壕の入り口で見張りをしていた時。
彼女も、一緒に番をしていた。
「今日は、星が綺麗ですね」
彼女は、静かに口を開く。
私も、小さな声で返事をした。
「そうですね」
「私、観てみたいです」
「何を?」
「映画です。以前、映画はたくさんの知らない世界を見せてくれると教えてくださいました。だから、観てみたいなと」
キラキラした瞳で、語る。
彼女の表情を見て、思わず微笑んでいた。
私は、期待に応えたいと思った。
「では、この戦争に勝ったら、案内しますよ」
「本当ですか!」
「もちろんです」
「では、その時は、めった汁も」
「ご馳走します」
それは、叶えられるか分からない未来の約束。
そして、死なないでほしいと願ったおまじないでもあった。
しかし、運命は残酷だ。
この時代、生きることより死ぬことの方が簡単だった。
敵兵に、いつ見つかってもおかしくない状況。
案の定、その時は来てしまった。
その日は、朝から風の音すら聞こえない異様な静けさだった。
皆、外から鳴り響く爆弾や、機銃掃射の音がなく、少し安堵していた。
だが、これは敵が忍び寄ってくる合図。
無音がそれを物語っていた。
私は、彼女からいつもの様に、食料を受け取ろうとしたときだった。
バン!
1発の銃声が鳴り響く。
そして、入り口方面に目線を向けると、銃口がこちらに向いているのが分かった。
「危ない!」
私は、守りたい一心で、彼女に体当たりした。
その瞬間、顔面に巨大な岩が落とされるような衝撃が走る。
不思議と痛みは無い。
幕の張ったような、誰かの声が聞こえた。
「しっかりしてください!」
きっと、この声は彼女だ。
ということは、無事だったんだ。
良かった……。
私は、薄れていく意識の中で、記憶のかけらが砕け散るのを感じた。
それから、朧気であまり覚えていない。
正確には、分からないが正しい。
私は、銃弾を右目で受けたようで、何も見えていなかった。
「悪い……。お前を連れていけない」
山本の一言で、何となく察した。
あ、これで自分は死ぬんだと。
傍で、彼女は声を押し殺しながら、泣いているのが分かった。
これから、どうなるのか分からない。
それでも、無事でいてほしいと願ってしまう。
私は、手探りでポケットからあるものを取り出す。
「ハナさん……。これ、受け取って?」
それは、万年筆。
彼女が、私に話しかけてくれたきっかけだった。
「でも、これは……」
「御守りです。効果は……あるとは言えませんが、ぜひ」
これは、願い。
言葉にすることができない、希望。
彼女との約束は、守れない。
ならば、せめて願ってもいいよね?
私の手から、万年筆が離れる。
彼女が、受け取ってくれたのが分かった。
どうか、お願いします。
ハナさんがどうか、生きていけますように。
この時、はじめて彼女の名を呼んだ。
「——さん!」
彼女が、呼んでいる。
きっと、私の名前かな?
どうしよう……。
分からないや。
私は、真っ黒に心と記憶が塗りつぶされていく感覚に、恐怖しながら、ただゆっくり沈んでいくのが分かった。
——————————
少しずつ部屋が明るくなっていく。
私は、モノクルをかけなおす。
彼の様子をうかがうと、目を大きく見開いていた。
「あの……」
私は、恐る恐る声をかける。
すると、彼はゆっくり振り向き、私の手を握る。
「そうか、あんたが……」
「えっと、どうなさいましたか?」
あまりの力強さに、思わず引いてしまう。
「あんたが、助けてくれたから、俺がいるんだな」
「成見さん?」
どういう意味だろうか?
すると、彼は優しく微笑む。
「あんたに、伝えたいことがある。聞いてくれますか?」
私は、静かに頷いた。




