25 三つの条件
パチン、と魔力を使うときの特徴的な音が瘴気の広がる森に響く。二度、三度、とその音が鳴り、やがて人影が立ち上がると同時に静寂が訪れる。
リヴィアは、ふぅ、と疲れたように溜息をつくと、雪の中についていた両手をさすって温めた。
「大丈夫か、リヴィア?」
「あ、うん。大丈夫。平気」
ウォルターの問いかけにリヴィアはこくりと頷いた。
♢♦♢♦♢♦
リヴィアが騎士の見回りについていくためにウォルターがあの日出した条件は三つ。
一つ。ウォルター、ヒューロット、エレナの三人は絶対に同行させること。
二つ。瘴気の濃い北の森や、堀の近くまでは行かないこと。
三つ。もし、瘴気を浄化できなかった場合を考えて、何かしらの対策を講じること。
この三つの条件を飲まない限り、騎士の見回りに連れていくことはできないとウォルターは言った。
リヴィアが一つ目の条件をクリアするのは簡単。そもそも以前からリヴィアが見回りに出るときはこの三人がついてきていた。この条件が飲めないわけがない。
二つ目は少し厄介。北の森はリヴィアが初めて自分で瘴気を浄化できた場所だ。もうすでにあの場所の瘴気は均一に均されていてリヴィアが浄化したときの痕跡はないらしいのだが、それでも自分の目で見てみたかったという思いがあった。
ただ、この条件を出したウォルターの気持ちもわかるので致し方ない。
そして、三つ目。この条件が特に厄介だった。要は、瘴気を浄化できる目途が立たない限り、館から出るなと言われているのとおんなじだ。それも、二つ目の条件により、リヴィアは濃い瘴気に触れることが禁じられている。
状況としてはリヴィアが逃げ出す前とほぼ同じ。あの時もリヴィアは瘴気を浄化しようと頑張っていたが、結局は何もできなかった。
だが、今はあの時と同じではない。以前から大きく変わった点がいくつかある。
それは、リヴィアの心持ちと、他者との関係性。
その二つが変わっただけで、できることが大きく増える。
『もしも、それが可能なら――』
三つ目の条件を聞かされた時、リヴィアはウォルターに対して一つの提案をした。
許可されないかもしれない。却下されるかもしれない。それでも、言うだけでも価値がある。
結果として、ウォルターはその案を受け入れ、リヴィアはこうして瘴気の広がる森に連れてきてもらっている。
「結局、瘴気は浄化できないままだね」
リヴィアの様子を見ていたヒューロットが率直な意見を述べる。あまりに率直すぎる意見だが、事実が事実なだけにリヴィアは言い返せない。
ウォルターの出した三つの条件を飲み、騎士の見回りに同行させてもらうのはこれで三回目。そのいずれも、ヒューロットに浄化の魔法を使う様子を見てもらっているが、以前と比べても何も変化がないらしい。
「一度、瘴気を浄化できたのは確かなんだがな。お前も痕跡が完全に消える前に見に行ったんだろ?」
「うん。確かに少しわかりにくくなってたけど、ここで浄化の魔法を使ったんだなっていうのはわかった。だから、絶対にできないなんて思ってないけど、……本当にあのときどうやったの?」
「……ごめん。わかんない」
ヒューロットの問いにリヴィアはすこし落ち込みながら答えた。
瘴気を浄化できていたとウォルターは言うが、リヴィアにはその時の記憶がない。瘴気の浄化と同時に気を失ったというが、その辺りの記憶は怪しいのだ。
ウォルターが見つけてくれて何か話したのは覚えている。彼の言葉に救われたのも覚えている。だが、彼に背負われてから何を話したのかは曖昧だ。
あのときリヴィアは何を思ったのか。ウォルターと何を話したのか。
そもそもの話、それを思い出したからといって、本当に瘴気を浄化できるようになるのか。リヴィアには何もわからない。
落ち込むリヴィアの頭を大きな手が撫でた。そうやって慰めてくれる手を、リヴィアはほんの少しの申し訳なさを抱きながら受け入れた。
「三つ目の条件、覚えてるか?」
「……うん」
リヴィアはもう何度も瘴気の浄化に失敗している。流石にもう、館の中に引きこもっていろと言われるだろうか。
リヴィアが恐る恐るウォルターを見上げれば、彼はやっぱりなというように嘆息した。
「別に俺は怒ってるわけじゃない。お前が頑張ってるのも知ってるし、ここに来るのが無駄だと言うつもりもない。俺が言いたいのは一つだけだ」
ぽすぽすと手が頭の上を軽く跳ねる。
「そんなに落ち込むな」
ウォルターの優しさがじわりとリヴィアの胸に沁みる。それと同時にやはり申し訳なくなる。
やりたい、とあれだけの啖呵を切ったのに、結局結果を出せなかった自分が情けない。
ぐ、と何も言わず唇を噛み締め、涙を必死に堪えるリヴィアに対し、ウォルターが語り掛ける。
「三つ目の条件、『できなかったときの対策を立てろ』。あれはお前を抑えるためのものじゃない。むしろ逆だ」
幾度となく聞いた優しい声音。ウォルターの言葉の真意が理解できず、リヴィアは顔を上げる。
「お前が瘴気を浄化できない可能性はあった。そもそもあの日から二週間以上経ってるんだ。あの時のことを覚えていたとしても感覚はズレるだろ」
ウォルターは優しく諭すようにリヴィアに言う。
「だから、対策を立てろと言った。できなかった時に行き詰まらないように、失敗してもただ落ち込むだけじゃなく次の手を打てるように。そんな俺の出した条件に対して、お前はちゃんと答えを出した。――まだ打てる手はあるだろ?」
「うん」
「なら、大丈夫だ」
その言葉がリヴィアの落ち込む心に指針を示す。
ウォルターの励ましに、リヴィアは一度ギュッと目を瞑った。深く息を吸い、吐き出す。
全部、ウォルターの言う通りだ。できなかった時の対策は打った。なら、今すべきことは落ち込むことじゃなくて、次の手の準備をすること。
パッと目を開けて、リヴィアは気持ちを切り替える。それからウォルターの顔をもう一度見上げた。
「ありがとう、レイ」
「どういたしまして」
リヴィアが持ち直したのを見て、ウォルターは笑う。彼の笑みにつられたように、リヴィアも気が抜けたように笑った。
「……レイはすごいね。私、そんなとこまで考えてなかった」
「そうだな。これでもお前より長く生きてるから失敗した経験も多いんだよ。それに、足掻くなら手伝うって言ったしな」
ウォルターの言葉に、リヴィアはさらに笑みを深めた。それだけでは収まらず、さらにクスクスと笑い声までもこぼれる。
そんなリヴィアを不思議そうにウォルターは見つめていた。
「何がそんなに可笑しいんだ?」
「うーん? わかんない」
時々、自分でも自分のことがわからなくなる。最近は特に。ロブストフェルスの皆に受け入れてもらった後から、抑え込まなくてもいい、溢れ出る自分の感情の発露にまだ戸惑っている。
笑ってもいい。泣いてもいい。怒ってもいい。喜んでもいい。自分の意見を自由に言ってもいい。
この環境に戸惑いつつ、自分が抱く感情がどこから来るのかもわからないまま、それでも今はただ揺れ動く心を楽しんでいる。楽しめている。
だからこそ、ここにいる人たちの役に立ちたい。
ふぅ、とリヴィアは軽く息を吐き出した。
「レイ。私、頑張るね」
「ああ。それもな」
「それ?」
ウォルターの指摘にリヴィアはコテンと首をかしげる。瘴気の浄化以外にリヴィアが今頑張らなければならないことがあっただろうか。
意図を掴みかねている様子のリヴィアに、呆れたようにウォルターは言う。
「『レイ』ってまた呼んでたぞ。自覚なかったのか?」
「……あっ!」
リヴィアは一瞬考え込み、ハッと自覚したように口に手を当てる。そのままキョロキョロと辺りを見渡して、周囲に自分とウォルターしかいないことを確認し、ホッと安堵する。
「ごめん。またやっちゃった」
「気をつけろよ。それでヒューロットと、エレナにもバレたんだろ?」
「うん。気を抜いてるとそう呼んじゃうみたい。特にあの二人と一緒にいる時は普通にしゃべっちゃうから……」
『レイ』と『ヴィー』。五年前に二人で決めた呼び名は、大勢の前で呼び合うにはあまりよくないらしい。あまりにも親しすぎて公的な場にはそぐわない、というのはウォルターの言だ。
リヴィアからしても、五年前のことを掘り起こされてあれこれと叱られたり、ウォルターに迷惑をかけてしまうのはできれば避けたい。
それに、過去のことが周囲にバレなくても、城の外に出たことがないと噂の姫君がロブストフェルスの騎士と短期間でそこまで仲良くなっているのはあまり外聞がよくないと聞いた。
リヴィアにはその辺りのことはよくわからないが、バレたのがエレナとヒューロットという身近な二人だけだったというのが救い。
まだ誤魔化しが効き、他の人にバレる前に呼び名を矯正しておくべき。と、ウォルターやエレナだけでなく、ヒューロットにまで言われた。
そこまで言われるのなら、頑張って直すべきだとリヴィアも気合が入る。のだが、五年前の一番楽しかった記憶は強烈にリヴィアの脳裏に刻み込まれているらしく、中々彼の呼び名が直らない。
「二人っきりの時なら大丈夫、ってことにはならないよね……」
「むしろ、そっちの方がバレたときにヤバい。面倒なことが起きるのは確かだ」
ウォルターからそう言い切られ、リヴィアは肩を落とす。結局のところ、絶対に呼び名は直さなければならないらしい。
「こういうのは数をこなせばすぐに直る。とりあえず、今呼んでみろ」
「今!?」
「今」
リヴィアははくはくと口を開閉させ、少し戸惑いを見せながらもなんとか言葉を口から絞り出す。
「ウォ、うぉる、ウォルター、……さん」
「何でそこで『さん』が付くんだ」
「様……?」
「それはもっとやめてくれ」
ウォルターの目線に、リヴィアはしょぼしょぼと体をすくめる。彼の本名を呼び捨てにするのはどこか慣れないのだ。
エレナやマーサが言った通り、ウォルターはリヴィアから敬称付きで名前を呼ばれるのを嫌がった。
ここでの立場上、リヴィアはウォルターの部下に当たる。そのことに対して、リヴィアに否定的な意見はない。この土地においても、戦闘についても、瘴気についても、その全てにおいてウォルターはリヴィアよりも専門的な知識を持っている。リヴィアが彼に従うのは至極当然のことだ。
だが、だからといって、ウォルターは自分がリヴィアよりも上だとは思っていないらしい。
身分で言えば、リヴィアは王族で、ウォルターは辺境の貴族の子息に当たる。当然、ウォルターの方がリヴィアよりも下だ。
「本来なら、俺がお前を『リヴィア様』と呼んで、お前が俺を『ウォルター』と呼ぶんだぞ。こんな砕けた話し方も普通ならありえない。こんな状況で、俺とお前が知り合いだったから、こうして喋れているだけだ」
「うん。わかってる」
「なら、早めに慣れろよ。公的な場で『レイ』や『ウォルターさん』と呼ばれるのは嫌だぞ、俺は」
「わ、わかった……」
リヴィアはウォルター、ウォルター、と口の中で小さく呟く。一人の時には普通に呼べるのだが、本人を目の前にしたり、彼の部下が傍にいるときは、自然と『ウォルターさん』と呼んでしまうのは何故だろう。
エレナを『さん』付けで呼んでしまっていた時とはまた別の葛藤を抱きながら、リヴィアは必至で呼び名を直す。とにかく、できるだけ早く直さなければならない理由がある。
ブツブツと人の名前を小声で繰り返すリヴィアを見て、ウォルターは不思議そうにぼやく。
「『レイ』は『レイ』なのにな。なんでウォルターになると『さん』付けになるんだ? 心境の問題か?」
「え、えと、よくわかんない。なんかそう呼ばなきゃって思っちゃうの」
ウォルターにそう問われても、リヴィアにもわからないものはわからない。心境がどうの、と言われても、自分の心の何が変わっているのか、よくわからないのだ。
こてり、と首をかしげるリヴィアを、ウォルターはじっと見ている。
「……まあ、俺も間違えることもあるから、気楽にな」
「それって、私のことを『ヴィー』って呼んじゃったこととか?」
リヴィアがそう口にした瞬間、ウォルターの顔が苦々しいものに変わった。人前でリヴィアのことをヴィーと呼んだときのことを、彼はまだ、とんだ大失態だと思っているらしい。
「アイツは耳聡いんだよな。お前を連れ帰ったときに一回だけ呼んだときのことをしっかり覚えてやがる」
「それって私が気を失ったあと?」
「ああ。本当に一回しか呼んでないし、聞いただけじゃ誰のことを呼んでるのかわからないはずなんだがな。頭の回転が速いのか、何なのか」
「呼んだ?」
ウォルターがそう愚痴った瞬間、ふらっと彼が帰ってくる。ヒューロットの気まぐれさは、相変わらず猫のようだ。
「呼んでない」
「でも、頭の回転が速いって言ってた」
「何でそれで自分の事だと思うんだ?」
本当に、どこで聞き耳を立てているのか。
ふらりと現れたヒューロットに、リヴィアは声をかける。
「気づいたらいなくなってたから、どこに行ったんだろうって思ってた」
「なんか真面目そうな話を始めたから離れてただけだよ。近くにいた方がよかった?」
「……別にそういうわけじゃないけど」
リヴィアは否定しながらも、ヒューロットが傍にいなくてよかったとなんとなく思った。落ち込んだり、励まされたり、そういったところを人に見られるのは少し恥ずかしい。
ヒューロットが戻ってきたことにより、リヴィアはもう一度辺りを見渡す。大体こういうとき、もう一人もリヴィアの元に戻ってくるのだ。
キョロキョロと辺りを見ていると、少し離れた木の影から彼女の声が聞こえる。
「だーかーら! リヴィア様は今集中してるって言ってるでしょ! 様子なんて見に来なくていいから!」
瘴気の広がる森によく響く声。何を話しているのかと見てみれば、エレナが他の騎士を押さえているようにも見える。瘴気のせいで少し視界が悪いが、三人いる騎士の内の一人はアードルフだろうか。
それにウォルターもヒューロットも気づいたのか、二人とも軽い溜息をつく。
「さすがに喝を入れなきゃじゃない?」
「そうかもな」
簡単なやり取りだけでわかりあっている様子の二人に、リヴィアは首をかしげる。ウォルターは何も答えずエレナのところに向かい、ヒューロットも何も言わないまま、リヴィアの肩をポンポンと軽く叩いた。
「アンタは何も気にしなくていいから」
「そう、なの?」
帰るよー、と手を引くヒューロットに連れられて、リヴィアも困惑したまま、エレナとウォルター達に合流した。
♦♢♦♢♦♢
「隊長。領主様から書状が届いています」
見回りから帰ったリヴィア達を出迎えたのは、館に残っていた騎士のそんな言葉だった。
彼はリヴィアに笑顔で軽く頭を下げると、ウォルター宛に届いた書状を館の主に渡す。ウォルターはその場で軽く内容を確認すると、リヴィアに向かって書状を掲げた。
「三つ目の条件に対してお前が出した提案。その答えが来たぞ」
その言葉を聞いて、リヴィアは目を丸くする。それと同時にリヴィアはぎゅっと気を引き締めた。




