20 ただいま
温かい、と思った。
なんだかふわふわするものが体に触れて、すごく居心地がいい。
いつかの外に出たときの陽だまりの芝生の上のような、柔らかく肌心地のいいソファの上のような、そんな場所で転がっているような感覚。
こんなにも心が落ち着いてるのは一体いつぶりだろう。
いつも、存在してはいけないような気がしていた。いつも消えてしまわなければいけないような気がしていた。
けれど、ここには誰もいない。誰も、リヴィアを責めるような人はいない。
ひとりぼっちで、ぽかぽかとよく晴れた日の芝生の上に転がっているような気分。
温かくて、心地が良くて、なぜか救われたような気がして。それでいて、少し寂しい。
温かい。全身が温かいのに、空っぽの手の中が寂しい。
何かを持っていた気がした。何か大切なものを握っていたような気がした。その何かが、今自分の手の中になくて寂しい。
何かを探そうとして手を持ち上げたが、ひどく重たい。
それでも頑張って手を動かす。その大切なものが近くにないか、傍にないかと探して。
けれども、それは見つからない。近くにないのであれば、もっと遠くを見なければ。もっと遠くを探さなければ。
ずしりと体が重たい。瞼も、腕も、足も、体全身が重たい。
けれども、探さなければ、それは絶対に見つからないだろう。
ぐ、と力を込めて、リヴィアは瞼を開けた。
♦♢♦♢♦♢
視界はぼんやりとしている。パチ、パチ、と炎が燃える音がする。
指に触れるのは滑らかで少し冷たいシーツの感触。ふわりと体にかけられた毛布の感触はいつもと変わらない気がするのに、今はやけに重たく感じる。
パチ、と薪が爆ぜる音がする。少しはっきりしてきた視界に映るのは、ここ最近見慣れてきたロブストフェルスの館の天井。
ぼんやりとした意識の中で、ここはリヴィアに当てられた部屋だと気づいた。
いつの間にここに戻ってきたのだろう。
どのくらい眠っていたのだろう。
何もわからず、リヴィアは目だけで周囲を探る。少し起き上がれないか、と力を込めるが、体はずしりと重たく、腕を動かそうとしただけでずきりと痛みが走った。
それでも無理やり体を動かそうとすれば、ごそごそ、と衣擦れの音がする。その音に反応したように、近くにいた誰かがぱっとベッドの方を振り向いた。
「……お嬢様!」
あまりの大声に、キンと耳鳴りがした。驚きで心臓が跳ね上がって、全身がドクドクと脈打つのがわかる。
部屋の中にいたのはマーサで、彼女はリヴィアが目を覚ましたことに気づくとすぐさまベッドの傍に寄ってきた。
「ああ、ああ! よかった、お嬢様! 目を覚まされたのですね! ばあやは本当に心配したんですよ!」
そう言って、マーサはぺたぺたとリヴィアの額や頬を触る。彼女のかさついた手がやけにひんやりしていて違和感を覚えたが、すぐに自分が熱っぽいのだと気づいた。
その間も、マーサはよかった、本当によかった、と騒いでいる。
「……っ、あ、……あの、マーサ。少し、静かに、して」
リヴィアは話そうとして、喉の奥がざらついていることに気がついた。飲み込んだ自分のつばが喉に引っかかって痛みを訴える。
そんな状況で絞り出した声は、ひどく掠れてざらついていた。
「ああっ! ……申し訳ございません、お嬢様。今すぐにお医者様をお呼びしますので、おとなしく待っていてくださいね」
マーサはリヴィアのお願い通りに声を潜めたが、やはり彼女の声は響く。だが、それよりもリヴィアには気になることがある。
重い腕を無理やり動かして彼女のエプロンを掴み、リヴィアはマーサを引き止めた。
「……あの、わたし、どのくらい寝てた?」
この館を飛び出したことをリヴィアは覚えている。飛び出したあと、ウォルターが連れ戻しに来てくれたことを覚えている。その途中で、記憶はふつりと途絶えた。おそらく気を失ったか、眠ってしまったのだろう。
そんな風になるまでリヴィアは無茶をしたのだ。普段であれば、目を覚ましたあとすぐにでもマーサのお説教が飛んでくる。
だが、実際のマーサは小言の一つも言わず、リヴィアの心配ばかりしている。
一体どれほどリヴィアは眠ってしまっていたのだろう。
マーサはリヴィアがそんなことを考えているのだと知ってか知らずか、大切で大事なものを扱うように、エプロンを掴むリヴィアの手をそっと外した。
涙で潤むマーサの穏やかな目線がリヴィアに落ちる。
「一週間です」
マーサがはっきりした声で言う。
「お嬢様は一週間も眠っておられたのですよ」
♦♢♦♢♦♢
その後はバタバタと部屋の外が騒がしかった。
医者が慌ただしくリヴィアの元を訪れ、もうしばらく休んでいた方がいいでしょう、と告げた。
少なくとも、今は起き上がれるような状態ではない。また倒れられてもいけないから、話をするのならもう少し後、と。
そのことにマーサは同意したが、リヴィアにとっては気が気ではない。時折、部屋の外からエレナの声がしたり、ふらりと扉の隙間からヒューロットが顔を覗きに来たり。
これを気にするな、という方が無理な話だ。
それでも、体を休めることに身を徹するのが今のリヴィアのやるべきこと。
とにかく寝て、できるだけ食べて、衰弱しきった体を回復するのに努めて五日。
ようやく医者の許可が降りて、リヴィアは部屋の外に出た。
「リヴィア様! ご無事でよかったです!」
勢いのある涙声とは裏腹に、リヴィアはエレナにそっと抱きしめられる。
少し震える声と背中に回された優しい腕の感触。いつでもまっすぐに感情を表すエレナがどこか懐かしい。
「あ、あの、ごめん、エレナ。心配かけて。……エレナは、大丈夫だった?」
リヴィアはエレナの背中に手を回そうとして、ビクリと手を止める。
魔物と遭遇したあの時、エレナの背中に回したリヴィアの手は血で真っ赤に染まっていた。そんな大怪我が十日程度で治るものなのだろうか?
リヴィアの手は躊躇うようにエレナの後ろを彷徨う。
リヴィアの問いかけにエレナはバッと抱きついた体を離すと、リヴィアの肩をしっかりと掴んだ。
「大丈夫です! 私は丈夫なのが取り柄なので。怪我なんていっつもしてますし、医療班に治療してもらったんで大丈夫なんですよ!」
それよりも! とエレナは金色の目を光らせてリヴィアの目を見つめる。
「リヴィア様の方が危なかったんですよ! どうして一人で森になんて行ったんですか!? 隊長が私をどこへでも連れてけって言ってたでしょう? 目を覚ました時に、リヴィア様が行方不明になってて、もう見つかったけどまだ起きないって言われたときの私の気持ちがわかりますか!? 本当にビックリしたんですから!」
わーっと小言を言うエレナは、どこかマーサに似ている。
リヴィアが体を起こせるようになってからお説教を始めたマーサの姿と今のエレナを重ねて、リヴィアはどこかおかしそうにふっと笑みを溢した。
「ごめんね、エレナ。……エレナが無事でよかった」
リヴィアは倒れ込むようエレナに抱きつく。ぽすん、と胸の辺りに額を押し付けて、今度こそ背中に手を回す。
エレナの体は暖かく、心臓は動いている。そのことにすごく安心する。
軽く腕に力を込めれば、エレナが驚いたように少しみじろいだ。
「そっ、そんなので誤魔化されませんからね! 今度置いていったら許しませんから!」
「うん。ごめんなさい」
リヴィアがそっとエレナから体を離すと、エレナは納得がいかないながらも満更でもなさそうな顔をしている。
「とにかく! リヴィア様がご無事でよかったです! これ以降は無茶はしないでくださいね」
「うん」
リヴィアが頷いたのを見て、エレナはパチンと自分の頬を叩くと、しゃんと姿勢を正して護衛としての顔つきに戻る。
「それじゃあ、隊長に呼ばれてるんで執務室に行きましょうか」
「うん」
そう言ってエレナはリヴィアの前を先導する。リヴィアはその背中を追った。
♦♢♦♢♦♢
ウォルターの執務室はリヴィアにとって最も印象深い場所だ。
訪れた回数はほんの二回。これよりももっと足を運んだ場所はあるはずだが、やはりウォルターと話をする場所として深く記憶に残っているのかもしれない。
一度目は謝罪、二度目はお別れ。嫌な記憶ばかりだが、今回は今までと比べて極端に怖いという感覚はない。
病み上がりの体のせいで足取りは少し覚束ない。けれど、今までよりも心は軽い。
とっとっ、とリヴィアはエレナの後をついていって、ウォルターの執務室に到着する。
エレナが扉をノックする。
「エレナです。巫女姫様をお連れしました」
ああ、と返事が返ってきたのを聞いて、エレナがガチャンと扉を開ける。
執務室にいたのはこの部屋の主、ウォルター。
後ろに撫でつけられた黒い髪に、黒曜石のような黒い瞳。そして、その右目の上の大きな傷跡。
ロブストフェルスに来た初日、それを見て深く絶望したときのことを覚えている。その傷跡がリヴィアの無能さを責め立てているようで、彼の顔をちゃんと見れなかったことを覚えている。
けれど、今は違う。
ウォルターは書類から顔を上げると、リヴィアの顔を見てホッと安堵したように微笑んだ。
「おかえり」
思いもしなかった言葉に、リヴィアは少々面食らう。
そう言ってもらえるのか。
ここに帰ってきてもよかったのか。
その温かい言葉がリヴィアの胸の中に降りてくる。
気づけば、部屋の中にいたヒューロットも、側にいたエレナも、二人ともリヴィアの方を向いている。
三人から目を向けられてリヴィアは少し怖気付くが、これは恐怖からではなく、気恥ずかしさゆえだ。
「……あ、えと、その。……ただいま」
小さな声でリヴィアは返事を返した。




