18 後悔
「ヴィー! リヴィア! どこにいる!?」
暗く雪の積もった森に声が響く。けれども、積もった雪に音が吸収されて、遠くにまでその声は届かない。
ザカザカと馬を無理やり走らせて、ウォルターは再び声を上げた。
巫女姫であるリヴィアがいなくなったと報告を受け、ウォルターはすぐに捜索隊を立ち上げた。
リヴィアがヴィーであることを知ってから、ウォルターは彼女が逃げ出す可能性を頭に入れていた。が、騎士の手が空いていない状況を狙って、乳母の目を欺いてまで逃げ出すとまでは考えていなかった。
……いや、本当はそこまで考えておかなければならなかったのだ。五年前の彼女だって、いろんなことを考えて城の外に出ようとしていた。魔物と遭遇したことで騎士が出払っていたのは偶然だろうが、彼女がこのタイミングを逃さずに行動することは予想できたはずだ。
眉間にしわの寄ったウォルターの口から白い息が漏れる。瘴気はどんどん濃くなり、雪もまた深くなる。視界は悪く、音は響かない。おまけに先ほどから雪が降り始めていて、人が通ったであろう痕跡も消えていく。
館の外に捜索に出ているのは動ける騎士のみ。そうでない者は館内を探すように指示したが、リヴィアが館の中にいる可能性は低い。
彼女はきっと外に行く。それもおそらく最も瘴気の濃い場所に。
リヴィアの言動、行動、考え方。それらを思えば、彼女がどう動くのか、何となくでも予測できる。
リヴィアはいつも役に立てないことを気に病んでいた。最後の最後まで瘴気を浄化できないことを気にしていた。
で、あるならば、彼女は逃げ出した先でも瘴気を浄化しようとあがくだろう。
雪は更に深くなる。これ以上馬で進むのは無理だと判断したウォルターは馬の進行方向を変えた。
リヴィアが外に出ているという考えはおそらくあっている。が、それともう一つ考えなければならないのは、協力者の存在だ。
リヴィアが一人で外に出たのであれば、もうすでに見つかっていてもおかしくない。彼女の体力を考えれば、そう遠くには行けないからだ。
だが、騎士の誰かがリヴィアを連れ出したのであれば話は別だ。馬にでも乗りさえすれば、彼女はどこまでも行ける。
どこまでも。
それこそ、ウォルターの手の届かないところまで。
「……クソッ!」
思わず悪態が口からこぼれる。
これはウォルターの失態である。
なぜ、エレナが倒れたことを知っていながら、リヴィアに別の護衛をつけなかったのか。
なぜ、リヴィアのことを気にかけておくように、誰にも監視を頼まなかったのか。
それこそ、なぜ、五年前のあのとき、リヴィアを、ヴィーを外に連れ出してしまったのか。
ほんの半日、彼女を外に連れ出してしまった。
そのときのリヴィアの成功体験が今のこの状況に繋がっているのだとしたら、それはウォルターの失態である。
「リヴィア!」
ウォルターはもう一度声を張り上げる。けれども、返事が返って来ることはない。
静かな森の中で、降りしきる雪が体や木々に当たる音だけが聞こえる。と、その音の中に森の中にはそぐわない、ザザッとした微かなノイズが耳に届いた。
『隊長! 隊長、聞こえる!?』
「どうした!?」
ロブストフェルスの騎士なら全員持っている通信用の魔道具。雪が降り、距離も離れているため音質は悪いが、魔道具の向こうから聞こえて来るのは確かにヒューロットの声だとわかる。
『今、リヴィアの捜索に出てた騎士が戻ってきてさ、錯乱した騎士がいるって報告だけして取り押さえに行った。北の森の方で、『役立たずを消したからもう大丈夫だ』って騒いでるって!』
「……わかった。俺も北にいる。他の方角に向かわせている騎士も皆、こっちに向かうように伝えてくれ」
『了解!』
ザザッと音がして、通信が終了する。
錯乱した騎士。役立たず。北の森。
おおよそウォルターが聞きたくなかったワードが全て並んでいる。
ロブストフェルスで最も瘴気が濃いのは北の森。リヴィアを連れ出した協力者がいるなら、それはおそらく騎士。
そして、彼の言った『役立たずを消した』という言葉。
寒さには慣れているはずなのに体が震える。背筋に悪寒が走る。
消した。消したというのは、つまり。
ウォルターは馬を止め、崖の上に繋がる道を見上げた。
♦♢♦♢♦♢
冷たい、と思った。
倒れ込んでいる地面からヒンヤリとした冷たさが服越しに伝わってくる。
目を開けようとしても、なかなか開かない。瞼が何かで貼り付けられたようにピッタリと閉じられていて、どれだけ力を込めても開かない。
でも、とふと思う。
頑張って目を開けなくてもいいんじゃないかって。このまま凍てつくような冷たさに体を委ねていてもいいんじゃないかって。
だってそうじゃないか。誰も彼もが言ってた。
役立たずは出て行けって。
お前がいなくなれば、皆が幸せになるって。
役立たずで、何にもできないお姫様なんかいなくなってしまえばいいって。
だからきっと、もし本当にそうなったとしても、誰も気にも留めない。きっとすぐに皆、私のことなんて忘れてしまうに違いない。
そうして、私のいないところで、皆が幸せになる。
だから、これでいい。これでいいんだ。
このまま力を抜いて、諦めてしまえば全てが丸く収まる。
そのはずなのに。
『またな』
どうして、あの人の声を思い出してしまったんだろう。
グッと瞼に力を込める。感覚のない手を動かして、目の上を擦る。
パリ、と小さな音がして、凍った涙のカケラが指についた。
いつの間に泣いていたんだろう、と自分の体温で溶けていく涙のカケラを見て、リヴィアはボンヤリと思う。
パチパチ、と数度瞬きをして、光るような眩しい白に目を細める。
夜の闇のような濃い瘴気の間から降りしきる雪。崖の黒い岩肌を覆い隠す雪が目に痛いほど白く、そこを這う靄のような黒い瘴気がリヴィアの心に影を落とす。
白く、黒く、美しく。残酷なほどに綺麗で、人の暖かさなど一瞬で奪い去ってしまう場所。
そこに今、リヴィアはいる。
リヴィアは魔力不足で気怠い体を無理やり起こした。落ちた時にどこかにぶつけたのか、左足を動かすとズキリと痛みが走る。
状況を把握するため、リヴィアはおそらく自分が放り出されたであろう崖の上を見上げた。
あそこから落ちたのにこうして生きていられたのは、深い雪が積もっていたからと、持たされていた防御魔法の魔道具のおかげだろう。落ちた際、魔法障壁が張られたようで、リヴィアの周りの雪は軽く凹んでいる。
そのままぐるりと周囲を見渡して、リヴィアは白い息を吐き出した。
何もない。
誰もいない。
ここにいるのはリヴィアだけ。
リヴィアは自分の上着の中を軽く探って、持ち物を確認した。
どうやら投げ出された時に、回復の魔道具と通信用の魔道具がどこかへいってしまったらしく、手元から無くなっている。防御魔法の魔道具が残っていたのは奇跡だが、魔法石にはヒビが入り、残量魔力を示すその色は薄く、持ち手の鎖が引き千切れている。ボロボロになったこの魔道具はおそらく使えなさそうだ。
リヴィアが持ってきたものはそれで全部。あとはもう何もない。
どこかに落ちているであろう魔道具を探す気力も体力もなく、残っている魔力も残りわずか。
何もない。
きっと大したこともできない。
なら、どうするか。
リヴィアは深く息を吐き出して、魔力の操作に意識を集中させた。
それから、両手を雪の中につき、グッと魔力を込める。
パチン、と浄化の魔法に使われた魔力が宙に霧散する。当然の如く、瘴気は全く浄化されない。
それでもリヴィアはパチン、パチン、と浄化の魔法を使い続けた。
だってもう、これしかないのだ。リヴィアにはこれしかない。
誰からも生を望まれていないのなら。
誰からも存在を認められていないのなら。
リヴィアには浄化の魔法を使い続ける以外にできることはない。
『役立たずの巫女姫』ではなく、普通の少女として生きるにはもう遅いのだ。
多くの人に迷惑をかけて、憎まれて、傷つけた。
その被害を、憎悪を、傷跡を、全て捨てて逃げ出すにはリヴィアの責はあまりにも重い。
返さなければいけなかった。何かを返さなければならなかった。
その罪に、この責任に、見合う何かを差し出さなければならなかった。
ならば。今のリヴィアに差し出せるものは、この命しかないだろう。
存在を。生を。最期まで『役立たずの巫女姫』として生きたという証拠を。
この命尽きるまで、浄化の魔法を使い続けるのだ。
それが『役立たずの巫女姫』として生き続けたリヴィアの全て。
パチン、とリヴィアの魔力が霧散した。
それに、とほんの少しの打算もある。
誰も彼もがリヴィアを恨んでいても、文字通り死ぬまで頑張ったといえば、一人くらいは許してくれるのではないかという打算。
積み重なった恨みがほんの少しでも悲しみに変わってくれるのではないか、という打算。
それさえあれば、リヴィアの罪の意識はほんの少しだけ軽くなる。
もう、下手な謝罪を続けなくても済む。
パチン、と浄化の魔法を使う。
ボタ、と雪についた両手に何かが落ちた。
赤い色。悴んだ鼻の奥で鉄の匂いがする。
深く考えず、リヴィアは鼻の下を擦る。手や指に赤い血がベットリとくっついた。
鼻血。ああ、そういえば、魔力を使いすぎると鼻血が出ると聞いたことがあったっけ。
そんなことを思いながら、リヴィアは自身の出血に構わず再び雪の中に両手をつく。
魔力が尽きると、人はどうなるんだっけ。
そんな疑問を頭の片隅におきながら、リヴィアはもう一度魔力を込める。パチン、と魔力の音が鳴る。
ボタ、ボタ、と赤い色が雪の中に落ち、ゆっくりとその周りを溶かしていく。
鼻血が出て、そのあとは?
パチン、と魔力を使う音がその先の思考を奪う。冷え切った指先に落ちる血がまるで熱湯のように熱く、氷のようなリヴィアの手まで溶かしてしまいそうで。
そのあとは?
リヴィアは、ぐ、と手のひらに魔力を込めた。
バチンッ! と今までにないような大きな音がして、頭の中を殴られたような衝撃が走った。耳の中がキーンとなって、うっすらと膜がかかったような、そんなこもった音がする。
腕で体を支えていられない。グラリと視界が揺れて、ボスン、と何かが倒れたような音がする。気づけば世界が横向きになっていた。
指も腕も動かない。冷たいと痛い以外に感覚がない。
こんな時、どうすればいいんだっけ?
脇腹で、肩で、首で、頬で、地に伏している全てで雪の冷たさを感じながら、リヴィアはただ考える。
けれども、頭は回らない。思考も、視界も、全てが白に染まって、やがて端からジワジワと黒が侵食してくる。
ああ、死ぬんだった。
何故か、今になってふと思い出した。
死ぬんだ。
魔力を使い切ったら、そのままジワジワと弱っていく。介抱してもらえれば助かるかもしれないけれど、今のこの状況で、一体誰がリヴィアを助けてくれるというのだ。
どんどんと白が黒に染まっていく。それを呆然とリヴィアは感じ取っていた。
不思議と恐怖はない。死は怖くない。
リヴィアはそれよりも恐ろしいものを知っている。
何故か眠くなって、自然と瞼が下りた。
胸に浮かぶのは深い後悔。
今日、魔物に会ったとき、初めて身近に死を感じた。
そのときに気づいてしまった。
もっと早くに死んでしまえばよかった、と。
そうすれば、エレナも、他の騎士も怪我をしなかったかもしれない。
ロブストフェルスに来る前に死んでいれば、ここは『異界の乙女』であるココネに救われていたに違いない。
ココネが現れた時点で死んでいれば、誰からも疎まれなかったはずなのだ。
ああ、そもそも。
生まれてさえこなければよかったのに。
「……ごめん、なさい」
掠れた声が出た。
エレナは泣くだろうか。
ヒューロットも気に病むだろうか。
マーサにはどうか、誰にも怒りをぶつけないでほしい。
そして、ウォルターは。
レイは。
彼は。
どうしてほしいのか、どうしてほしくないのか。彼に対する思いが浮かばず、リヴィアは必至に目を開ける。
最後に手を繋いだ。
再会した時、謝らせてしまった。
城下町に連れ出してもらった。
何度も何度も迷惑をかけた。
彼は最後に何を言いかけたのだろう。リヴィアのことをどう思っていたのだろう。
もう、知る由もない。
もう、知りたくもない。
もう、『またな』なんて、約束をしたくない。
どうせ叶わないから。叶ったって、彼を困らせてしまうだけだったから。
こんなことになるのであれば、いっそのこと出会わなければよかったのに。
再会してからの彼はいつも困った顔をしていた。
『役立たずの巫女姫』に手を焼いていた。
リヴィアのせいで、顔にあんな傷跡をつけさせてしまった。
そんな彼でもリヴィアが死んだと知れば、きっと心を痛めるに違いない。
泣かないでほしい。自分のせいだと責めないでほしい。
だから、リヴィアのことなんて全部忘れてほしい。
自分が最初から存在しなければ、こんな願いも持たずに済んだのに。
目から涙が溢れて、それもすぐに凍りついた。
もう目を開けようが閉じようが関係ない。視界はほとんど真っ暗だ。
リヴィアが目を閉じる瞬間、わずかにその目が捉えたのは血で汚れた自分の手のひらだった。
『はぐれないように』
そう言って、自分よりもずっと大きな手と手を繋いだことを思い出した。




