17 落ちていく
お嬢様ー! お嬢様ー! と騒ぎ立てる声が聞こえる。
どこか聞いたことのあるような声に、ウォルターはまだ霞がかった思考でボンヤリと目を開けた。
視界に入るのは自分の書斎の天井。仮眠をとるたびに、幾度となく見た光景だ。
どのくらい寝ていたのか、そもそもいつから寝ていたのか。
ぼーっとする頭を無理やり働かせて、眠る前の記憶を探る。確か、魔物と交戦して、館に戻ってきた。医療班に軽く治療をしてもらい、重傷者を先に治療するように頼んだことも覚えている。
それから、とさらに思い出そうとした瞬間、バンッ! とヒューロットが部屋に飛び込んできた。
「ここにリヴィアいる!?」
荒くなった呼吸の合間に、問われたのはそんな言葉で。ヒューロットはウォルターの答えを聞く前に部屋を見渡し、リヴィアの姿がないことを確認して愕然と肩を落とした。
リヴィア。その名前を聞いて、はっとウォルターの頭に先ほどの記憶がよみがえる。
『ごめんなさい』
そう言って久しぶりにちゃんと目を合わせたときの彼女の顔は、昔の面影をよく残していて。
あの時の、城から抜け出そうとしていた時の少女と何も変わらないままで。
その記憶とヒューロットの言葉に、ウォルターの頭に嫌な予感が過ぎる。
「彼女がどうかしたのか!?」
ヒューロットが息を整えながら、ゆっくりと顔を上げる。
「リヴィアが、いなくなった……!」
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
「ここが、ロブストフェルスで一番瘴気が濃いところ……」
「はい。そうです」
眼前に広がる真っ暗な闇を見つめて、リヴィアは白い息を吐き出した。
マーサに少し休んでくる、と告げたあと、リヴィアはいくつかのドレスを丸めてベッドと毛布の間に詰めておいた。
今、館の騎士のほとんどが魔物との戦闘の後始末に追われている。ヒューロットでさえもまだ仕事があると言っていた。だから、リヴィアが館から抜け出すチャンスはこの時しかなかった。
城に戻ると言えば、マーサはそちらに意識を向ける。リヴィアが魔物に会った後だ。休むと言えば、しばらくリヴィアを放っておいてくれるだろう。
騎士とマーサの隙を狙い、リヴィアは館にいた騎士を一人捕まえて、ロブストフェルスで最も瘴気の濃いところへと案内させた。
ロブストフェルスの森の最北端。今、リヴィアが崖の上から見下ろしているその場所は濃い瘴気に覆われていて、森というよりはむしろ深く黒い海のようだった。
ここから落ちればきっとどこまでも沈んでいって、元の場所に戻って来ることはできないだろう。
目の前の瘴気を見て、そんな予感がした。
「あの、無理を言ってしまって申し訳ありませんでした」
リヴィアは後ろを振り返って、ここまで連れてきてくれた騎士に頭を下げた。
彼は魔物と対峙する前や見回りに出る時によくウォルターのそばにいた騎士だ。きっとウォルターから強い信頼を得ている人だろう。
そんな人ならリヴィアも安心できる。強さも申し分ないだろうし、何か危険なことがあってもすぐに対応してくれるだろう。
「いえ、礼に及ぶことではありませんよ。巫女姫様の頼みですので」
そう言って、彼は人好きのする笑みを浮かべた。悪意も、打算的な何かも感じない笑みを見て、リヴィアも少し緊張を緩める。
それから、リヴィアはもう一度崖下の瘴気に向き直ると、深く、肺に入った息を吐き出した。
ここに来たのは他でもない、瘴気を浄化するためだ。
リヴィアはもう何度も失敗している。もう幾度もウォルターたちに無駄足を踏ませている。どこまでも、自分は役立たずであると自覚している。
だからこそ、瘴気を浄化するためならば、どんなことでもやらなければならないのだ。
それこそ――。
自分の中でようやく思い至った答えを体の震えとともに飲み込んで、リヴィアは崖の上で膝をつく。
ここも、崖下ほどではないが濃い瘴気が立ち込めており、放っておけるような場所ではない。
リヴィアは地面に両手を置き、その手のひらにグッと魔力を込める。
魔力の操作はある程度慣れている。あとはこの魔力を瘴気の浄化に使うだけ。
浄化の魔法を発動させようとする瞬間、いつもリヴィアの頭の中にある色がちらついていた。
黄色。『異界の乙女』であるココネがいつも着ていたドレスの色。
リヴィアと違い、才能があり、誰からも必要とされていた彼女の色。
浄化の魔法を使う時、いつも、リヴィアの頭の中にはその色が思い浮かぶ。そしていつも、リヴィアはその色に縋っていいのかわからなくなる。
リヴィアが見たことのある浄化の魔法はココネが使ったものだけだ。だから、リヴィアが浄化の魔法を使おうとするのなら、ココネをイメージするしかない。
『異界の乙女』であるココネをイメージして。
それが浄化の魔法を使う一番の近道だと思うのに、彼女をイメージすると、途端に手が震える。
『何の役にも立ってないくせに』
チリチリ、と彼女が放った言葉がリヴィアの胸を焼く。
そんなことはないと言いたいのに、私も役に立ちたいと思うのに、結局のところ、リヴィアは何にもできていないのだ。
リヴィアは手のひらに込めた魔力を地面に流し込む。パチン、と乾いた音がしたが、それだけ。手のひらの下の地面からはまだ瘴気が吹き出している。
二度目、三度目、四度目。パチン、パチン、と何の変化ももたらさない空虚な魔力が空気中に散っていく。
五度目、と、パチン、と弾けた魔力の音とともに、リヴィアの視界が揺れる。
クラリと目眩がする。頭の中がグラグラと揺れ動く。
何故、と考えるまでもない。
今日どれだけの魔力を使っただろう。火を起こして、他人の怪我を治療した。大して体を休めることもせず、キチンと食事も取らなかった。
そんな状態で、魔力切れを起こさないはずがない。
リヴィアは手を止めて、ギュッと固く目を瞑る。思考がうまく働かない状態で、魔力を上手く操作できる自信がなかった。
一旦落ち着いて、それからまた瘴気の浄化を再開させよう。
震える両手を握りしめて、リヴィアは深く息をつく。体に入ってくる空気は冷たい。地に着いた足からも、地面につけた両手からも寒さが這い寄って来る。
こうして今吐いている息も、いずれ暖かさを失うのだろうか。
深く息を吐きながらぼんやりとそう思うリヴィアに、背後にいた騎士が声をかけた。
「巫女姫様。調子はいかがでしょうか?」
「え、あ、はい。……大丈夫です」
突然の問いかけに、リヴィアはビクリと肩を振るわせながら答えた。
彼のことは見知っているとはいえ、慣れているわけではない。ロブストフェルスでリヴィアと深く関わったことがあるのは、ウォルターとエレナとヒューロットの三人だけだ。
それ以外の騎士は顔も名前もおぼつかない。
けれど、今ここにいる騎士はウォルターがそばに置いているのだ。どのような性格をしているかはわからないが、悪い人ではないだろう。
慣れていないとはいえ、怯えるような失礼な態度をとってしまった。おまけに、ウォルターの命令でもないのに、こうして瘴気の濃い場所に連れ出してしまっている。
彼からしてみれば予定外の仕事を押し付けられて、きっと迷惑していることだろう。
ここは寒く、ただ立っているだけだと余計に冷える。こんなことに付き合ってもらっているのに、リヴィアは何も成果を挙げられていない。
あの、と一度声をかけようとして、後方に立つ騎士を見上げた瞬間、リヴィアの顔はビシリと固まった。
怖い。最初に思ったのはそれだった。
「どうかされましたか、巫女姫様?」
彼の優しい声音も、姿かたちも何一つ変わっていない。ロブストフェルスの騎士の制服も、悪意のない人好きのする笑顔も、ここに来る前と何ら変わった様子はない。
けれども、どうしてか、怖いという感情が拭えない。
カチ、と歯が震えて音が鳴った。口がうまく動かず、彼の問いにリヴィアは答えることができない。
「なぜ、お答えくださらないのでしょう? なぜ、浄化の魔法を続けてくださらないのでしょう? なぜ、国はロブストフェルスをお救いになってくださらないのでしょう? なぜ、なぜ、なぜ?」
騎士は瞬きもせずにリヴィアに近づいてくる。
彼は変わらぬ笑みを浮かべたまま、矢継ぎ早に質問を続けた。まるでもう、リヴィアの答えなんて必要としていないみたいに。
サク、サク、と雪を踏んで、騎士が一歩、また一歩とリヴィアに近づく。リヴィアは彼から距離を取ろうとして、トスン、と尻もちをついた。
手が震える。体が震える。視界が回る。何かがおかしいと頭の中で警鐘がなるのに、リヴィアの体はうまく動かない。
「なぜ。あなたはそんなにも役立たずなのでしょう?」
騎士がリヴィアの目の前に立つ。役立たずの巫女姫を見下ろすその目を見て、リヴィアは何が一番恐ろしかったのかようやく理解した。
そっくりそのまま、おんなじだった。
初めて瘴気に触れた五年前のあの時。ココネとともに瘴気を浄化しろと言われたあの時。リヴィアが役立たずだと知れ渡ったあの時、あの場にいた誰もがリヴィアに向けた目とおんなじだった。
リヴィアの体から力が抜けた。騎士は剣を抜かずに、リヴィアの胸倉をつかんで持ち上げる。
騎士の身長とリヴィアの身長は比べるべくもない。首を同じ高さまで持ち上げられれば、リヴィアの足は地面につかず、体は宙に浮いた。
襟元が詰まって呼吸することさえままならないリヴィアの耳に騎士の声が届く。
「役立たずのあなたがいなくなれば、きっと『異界の乙女』であるココネ様がロブストフェルスを救ってくださる」
無意識に抵抗しようとしたリヴィアの手が、その言葉を聞いて脱力し、ダラリと垂れ下がる。
そうだね、と、同意の言葉がリヴィアの頭の中に思い浮かんだ。
『巫女姫と呼ぶにはあまりに無能』
『何の役にも立っていない』
『お前のせい』
『嘘つき』
『ビビリな臆病者』
『贅沢な暮らしがしたいだけの箱入り娘』
ああ、そうだね。そうだ。全くもって、その通り。
リヴィアは自分が何と言われているのか知っている。これまでに言われた言葉を覚えている。
いつまでも城の中にいたのだ。人前に出なくとも、騎士の、メイドの、役人の、彼らが嗜む噂話くらい聞こえてくる。
リヴィアは他人から自分がどう思われているかを知っている。ここに来たらそれが全部なくなる、なんて、そんな都合のいい話があるわけない。
リヴィアの評価は一生変わらない。誰も彼もが同じ評価をリヴィアに下す。
『役立たずの巫女姫』と。
『お前は間違っている』
兄の言葉が脳裏によみがえる。
そう。その通り。私は間違っている。あなたが正しい。
リヴィアの視界も思考も黒く塗り潰されていく。
ブン、と騎士が腕を振り、リヴィアの体が大きく揺れる。
崖の上から崖の下へ。暗く深い瘴気の海へ。リヴィアの体が投げ出された。
落ちていく。深く深く、吸い込まれるように。リヴィアの体は濃い瘴気の中へ落ちていく。
浮遊感を全身で感じながら、リヴィアはこれが正しいとボンヤリと思った。
これでいいのだ。これで全部、何とかなる。この国は救われる。
私がいなくなりさえすれば。
宙に浮かんで消えていく涙をボンヤリと見つめるリヴィアの心に、本当に? と仄かな疑問が浮かんだ。




