16 バイバイ
ガチャン、とヒューロットが扉が開く。彼はそのまま部屋の中に入り、おっ、と声を上げた。
「チャンスじゃん。隊長、寝てるよ」
ヒューロットに促されるままにリヴィアも部屋に入り、そこでソファに転がって眠っているウォルターを見つけた。
彼は騎士の制服である黒い上着を脱いで、白いシャツと黒のズボンを身につけている。
リヴィアにとってはどこか懐かしい恰好ではあるが、記憶と大きく違ったのは捲られた袖の下に包帯が垣間見えるところ。
医療班から逃げ回っていると聞いたが、応急処置はちゃんと受けているのかもしれない。
ドクン、とリヴィアの心臓が揺れる。
ウォルターがレイだと知った時、リヴィアは嫌な想像をした。
あの時、自分に優しくしてくれた人が、いつかの誰かと同じように失望の目でリヴィアを見るのかもしれない、と。
もう、あの優しい目でリヴィアを見てくれることはないのではないか、と。
それがきっと今、現実になる。
「じゃあ、オレ、席外すし。話するとき邪魔すんなって、隊長から言われてんだよね。部屋の外にいるから、なんかあったら声かけて」
「え、あ、……はい」
そう言ってヒューロットはまるで猫のような身のこなしでササッと部屋の外に出て行ってしまった。
ウォルターと二人っきりだと気まずい、ということはない。むしろヒューロットがいたら、話は進まないだろう。きっと今のウォルターと話していれば、昔の話が出てくるだろうから。
初めてここに呼ばれた時とは真逆の感想を抱きながら、リヴィアはヒューロットの背中を見送った。
リヴィアはヒューロットが出て行った部屋の扉から、ソファで眠るウォルターに目線を向ける。それから意を決したようにウォルターに近づいた。
リヴィアが近づいても、ウォルターが起きる気配はない。それほどひどい怪我を負っているのか、それとも、役立たずの巫女姫のせいで絶えない気苦労による疲れが出たのか。
どちらともつかない不安を抱えたまま、リヴィアは眠るウォルターのすぐ近くにしゃがみ込んだ。
こうして眠る人を間近で眺めるのは初めてだ。リヴィアはいつも一人で寝ているし、マーサはリヴィアの前では決して眠らない。
人は常にベッドの上で眠るのだと思っていた。眠るときはいつも一人なのだと思っていた。こうしてソファの上で、寝室でもない、誰でも来れるようなところで眠るなんて考えたこともない。
だが、ヒューロットの反応からすれば、ウォルターがソファで眠るのはいつものことなのだろう。リヴィアには想像もしなかったことが、彼らにとっては普通。
そのことに、自分と彼らは別の世界を生きているのだな、と感じる。五年前にほんの少しだけ交わったあの時みたいに。
リヴィアはじっとウォルターの寝顔を見つめた。
あの時と何も変わらない、白のシャツと黒いズボン。少し乱れた黒髪はほんの少しだけ今の彼を幼く見えさせる。
あの頃と何も変わらない。変わらなければよかったのに。
ただのレイとヴィーでいられればよかったのに。
彼の目の上についた傷跡が、彼のシャツの下に巻かれた包帯が、そんなことはありえないと主張する。
もう、レイとヴィーじゃない。
ウォルターとリヴィアなのだ。
ロブストフェルスの館の主と、役立たずの巫女姫なのだ。
だったら、どう別れるか、なんてわかりきっていることだろう。
リヴィアはウォルターに触れようと手を伸ばした。
その瞬間、強い力でリヴィアの手首が掴まれる。
「だから! 治療は一番最後でいいと……!」
苛立ちを含んだような声が、リヴィアを認識するなり止まった。
ポカンと呆気にとられたような顔にはいつもの厳格な雰囲気はなく、どこか懐かしささえ感じる。
黒曜石の瞳、すこし乱れた黒髪。精悍な顔つきに、右目の上の大きな傷跡。
リヴィアがウォルターの顔をこうもはっきりと見たのは、今日が初めてかもしれない。あのころよりもずっと長い時間共にいたのに、こうしてちゃんと目を合わせたのも今が初めてだ。
「……悪い。他の誰かかと思って……」
歯切れの悪い言い訳をしながら、ウォルターは手を離した。スイ、とウォルターがリヴィアから視線を逸らしたのは、二人でいることへの気まずさからか、それとも手首を強く掴んだゆえの罪悪感からか。
いつもとまるで逆だ、と僅かな痛みを訴える手を胸に抱いてリヴィアは思う。
リヴィアがウォルターを見つめていて、ウォルターがリヴィアから目を逸らしている。
いつもなら強くウォルターの視線を感じるのに、そこからいつもリヴィアは目を逸らしているのに、まるでいつもと違う。
けれど、今日くらいはこれでいいのかもしれない。
だって、これが最後だから。
「レイ。私ね、お別れを言いに来たの」
あえて昔の名で呼べば、彼はぱっとリヴィアの方を向く。その彼の視線をリヴィアは彼の傷跡ごと受け入れた。
彼と目が合いそうになると、リヴィアはずっと顔を背けてきた。誰かの背に隠れて、彼がどんな表情をしているか、どんな目でリヴィアを見ているかを、ずっと知らないようにしてきた。
だって、怖かったから。彼の目がリヴィアへの失望に染まっていくのを見るのが、怖かったから。
嫌だったから。彼の優しい声が、冷たく変わってしまうのが嫌だったから。
だから、できることを頑張ったつもりだった。ただひたすらに失望されないように、役目を果たそうとしたつもりだった。
でも、できなかった。ただそれだけのこと。
だから。
「レイが私のこと、持て余してるのを知ってる。私がここにいるから、困ってるのを知ってる。私の存在が迷惑だってことを知ってるの」
「そんなこと……!」
彼がリヴィアを庇おうとするのを、リヴィアは緩やかに首を振って否定する。
「知ってるの、全部。私ができることのない役立たずだってことも。やりたいって言いながら口先だけで終わることも。何かをしようとするたびに迷惑がられてることも、全部」
そう。全部知っているのだ。わかっていたのだ。
だって、昔からそうだったから。王城にいた時からずっと、リヴィアはそうだったから。
ここに来たから何かが変わる、なんてことはあり得ない。役立たずの名を返上できる、なんてあり得ない。
わかっていたのに。もしかしたら、に縋って、ロブストフェルスのみんなに迷惑をかけた。
リヴィアのせいで多くの人が怪我をした。リヴィアがいたから、あの魔物の発見が遅れた。
全部、リヴィアのせいだ。
「ごめんなさい」
彼に対して、何度この言葉を発しただろう。そんなのもうわからないくらいに意味のない謝罪を繰り返してきた。何の価値もない謝罪を。
リヴィアは両手を伸ばして、ウォルターの手を取った。彼は何も言わず、リヴィアにされるがままだ。
リヴィアはウォルターに気づかれないようにそっと魔力を込める。回復魔法が相手の眠りを誘うなら、きっとこの魔法をかけ終わったとき彼はまたすぐに眠ってしまうのだろう。
だから、言いたいことは今、ちゃんと言うべきだ。
リヴィアはギュッと彼の手を握る。彼と手を繋ぐのは五年ぶり。
はぐれるから。ヴィーはすぐにどこかへ駆け出してしまうから。
そんな理由で手を繋いでいたことを思い出して、リヴィアはごめんなさいと心の中で呟いた。
「私は何にもできない『役立たずの巫女姫』だけど、ここにいるロブストフェルスの人たちが、また幸せに暮らせることを祈ってる」
「それは……!」
ウォルターが何かを言う前に、パチン、と魔力が使われた音がした。ぐらりとウォルターの体が傾いてソファに倒れ込む。
持って行かれた魔力は狼に襲われた騎士を助けたときと同じくらい。それほどの怪我を彼はしていたのだ。
平気そうな顔をしていながら、ひどく辛い思いをしていたのだろう。きっとリヴィアから見えないところにも多くの傷を負っていたのだろう。
彼にそれだけの怪我を負わせたのは、リヴィアだ。
「ごめんなさい」
部屋に入ってきた時と同じように眠る彼を見て、リヴィアはそう呟いた。
自分はどこまでも自分勝手だ。どれだけやっても結局は自分のことしか考えられない。
もう繋ぐ必要のない手に最後にギュッと力を込めて、リヴィアは聞く人もいない願いを呟いた。
「どうかお願いだから、私のことなんて忘れて」
そう言って、リヴィアはウォルターから手を離す。
もうきっとこうして触れ合うことなんてないだろう。
初めて、乳母のマーサ以外と繋いだ手。はぐれないように、なんて初めて言われた。
けど、もう。そんなこと言われる機会なんてないだろう。
「バイバイ、レイ」
また会いたいと強く願っていた人の顔から目を逸らし、リヴィアは部屋の外に向かう。
静かに音を立てないように扉を開ければ、すぐそこにいたヒューロットと目が合った。
「隊長は? なんか話せた?」
「うん。レ、……ウォルター、さんは回復魔法をかけたから、しばらく寝てると思う」
「そ。なんかヤバい怒号とか悲鳴とか聞こえてきたらどうしようとか思ってたけど、そんなことなくてよかったよ」
「……えっと、あの人は、そんなことをする人じゃないと思います」
「冗談だよ、冗談。じゃ、アンタはこのまま部屋に戻る?」
「はい」
ヒューロットの問いにリヴィアがこくりと頷けば、じゃあこっち、と彼は元来た道を指し示した。
ゆっくりと歩き出すヒューロットの背中を追いながら、リヴィアは彼に声をかける。
「あの……」
「ん? どうかした?」
「ありがとうございました。ウォルターさんと話す機会をくれて」
リヴィアの言葉にヒューロットは目を瞬かせた。ヒューロットはひどく不思議そうな顔をして首をかしげる。
「……別に? 隊長がアンタと話したいって言ってただけだし、オレは隊長にサッサと怪我を治して欲しかっただけ。だから、アンタが何にお礼言ってるのかわかんないけど、オレからもありがとね。隊長の怪我治してくれて」
ヒューロットにお礼を言ったつもりが、逆に言い返されてリヴィアは少々面食らう。
だが、何というか、ヒューロットは元々こういう人間なのだと、リヴィアは思い至った。
ここ数日間、ヒューロットと関わってきたからなんとなくわかる。彼は特に何も考えず物を言うが、それゆえにその言葉が本心なのだとわかる。良いことも、悪いことも、彼は全部隠すつもりがない。
それがある意味で心地いい。何を考えているか、わからないということがないから。
ほんの一瞬、いつまでも本心の読めない兄のことを思い出して、リヴィアはギュッと制服の裾を握りしめる。
けれども、今日で全部終わりだ。
慣れてきたヒューロットの性格とも、通じ合えたと思えたエレナとも、ようやく目を合わせて話せたウォルターとも、今日でみんなさよならだ。
リヴィアの行く先はもう決まっている。
「あの、ヒューロットさん」
「うん?」
「ありがとうございました」
リヴィアが足を止めてヒューロットにそう言えば、彼は何を言ってるんだと言わんばかりにますます困惑した目を向けた。
意味がわからない、理解ができない。そんな目を向けられるのは恐怖でしかなかったけれども、ヒューロットの目は怖くない。
その理由を、考える意味もない、とリヴィアは切り捨てる。
「ウォルターさんとエレナさんにも、そう伝えてください」
「そんなの、自分で言えばいいじゃん」
「いえ。やらなければいけないことがあるので」
はっきりと答えるリヴィアに、ヒューロットは何かしらの違和感を覚えただろう。けれども、それが何か、何をもたらすかまでは彼も言葉にできなかったようで、異物を飲み込むかのような顔をしながらもヒューロットはリヴィアを部屋まで送ってくれた。
♦♢♦♢♦♢
まだ仕事があるからとヒューロットが言うので、彼とは部屋の前で別れ、リヴィアは自室の扉を開ける。そこで出迎えてくれたのは乳母のマーサ。
ホッと安心したような顔をするマーサに、リヴィアはこう提案した。
「マーサ、お城に帰る準備をしてくれる?」
「……まあ、お嬢様! わかりました。では、すぐに兄王様にお手紙をお送りします! そうすればすぐにでも安全な場所に移動できましょう! もうお嬢様がこんなに恐ろしい思いをする必要はございませんよ!」
久々に見たマーサの晴れやかな笑顔を見て、リヴィアはどこか複雑な笑みを浮かべた。
結局、マーサのロブストフェルスに対する評価は変わらなかった。彼女にとってここはどこまでも危険な土地なのだ。一刻も早く、離れなければならない場所なのだ。
いそいそと準備をするマーサを見つめて、リヴィアは少し休んでると言ってベッドに向かった。




