吉野での休息
風魔の助けもあって天根一行は吉野の蔵王堂近くまで来ていた。
千本桜で有名な地であり、旅館もたくさんある。
天根は宗千佳の傷を医者に診てもらうため雷蔵が先導した。
「再生医療に関わらず、ここには病院は一つしかない。」
宗千佳とウサギは二人で病院に行って再生治療を受ける。
半日ほどの治療で治るだろう。
待ってる間はやることもないので、蔵王堂を拝観り、神宮を参拝したり、雷蔵からの稽古の申し出も何回かあったがそれは断った。
雷蔵は風魔王殺陣を止めるため、天根に同行することにしている。
吉野の山にも影響があるし、関西が地元である。
それが壊滅するのであれば何か力になればいいと考えている。
太郎が天根に声をかけた。
「こんなところで時間潰してていいの?殴殺陣完成まで時間がないんだよ。」
「流石に俺も疲れた。それにウサギが言ってたように俺は軍隊じゃないよ、マシーンの大群をなんとかできるものでもない。」
「せめて直接ナハト王を叩いてくれればいいのに。間に合うならいいけど・・」
「小僧お前は風魔から何人連れてきた?戦力に考えて良いのか?」
誰かがついてきている。それは明らかだった、
「今は二人だけだよ、護衛目的だね。殴殺陣の準備がもう少し落ち着けば回せるかもしれないけどね。」
雷蔵も暇だったのか擦り寄ってくる。
「おい、小僧、お前暇なのか?稽古しようぜ。」
太郎はそれを聞くと逃げ出した。
「雷蔵さん、あなたはなんであんなところに居たんですか?西宮にいたのでは?道場はあけていいんですか?」
「知り合いの山伏がいてな、良い滝場を教えてくれると言ってな。」
「その知り合いって?」
「まだ、山にいると思うよ。一応無線で吉野に降りたと連絡しておいた。」
雷蔵の言う良い滝を双門の滝という。
修行するには大きすぎる。
普通の人間が受けたら溺れるような滝である。
旅館に頼んで酒を持ってきてもらう。
寒い季節には熱燗だ。
奈良は清酒発祥の地を自認するほど酒造りは歴史深い。
その中でも安酒を雷蔵は選んで量を多く持ってくるように伝えた。
太郎も飲もうとしたが、天根がダメだと注意する。
「そういえば天根よ、おまえはまだあのよくわからない会社をやってるのか?」
「よくわからないって、雑賀故我に困ってる人は多いから、その需要で経営できている、素晴らしいモデルで良いじゃないですか。」
「そうじゃない、雑賀故我は親友だったんだろう。あのウサギの耳したやつとは仲良さそうだが。」
「今でも親友ですよ。」
天根の会社は雑賀故我を殺すことを社是とした会社である。
実際に上海でも、京都でも暗躍して戦乱が生まれている。
それを防ぐことで困っている人からお金をもらうビジネス。
特化した傭兵ビジネスとでも言って良いかもしれない。
「久我幻魔は超えられそうか?」
雷蔵が言う久我幻魔とは先代である。
この物語が始まるしばらく前に小さな事件で亡くなった。
大連で戦っていたのはその後継者である。
「いい線まではいってるとは思いますけど、もうそれを確かめることはできませんね。」
「雑賀故我がたくさんいて、今も増え続けて、どれもお前と同じくらい強い。それを倒し続けて自分を研鑽する。あまり良いモデルとは思わんな。お前も後継者をそろそろ育てないとな。キョウジはどうした?」
「あの子はそういう久我天根の名前には興味がないみたいで、ちゃんと仕事はしているけど。一応後継者には適任がいますから。」
雷蔵は後継者が誰か事態には興味はなさそうだ。
天根は逆に聞いた。
「雷蔵さんは先代久我幻魔が存命中でも互角とされていました。それなのに、今でも稽古しているのですか。」
雷蔵は熱燗のおかわりを注文した。
「誰かを目標とする考えはやめた方が良いぞ、どこかでつまづく。」
「というと?」
「幻魔のように人は死ぬからな、その人が死んだらなくなる目標なんてな。」
「じゃあ、雷蔵さんは何をモチベーションにしてるんですか?」
少し雷蔵は悩む。
「稽古して、酒飲んで、屁をこいで寝る、それだけでいいだろう。」
「それはそれで逆に説教臭いですね。」
天根も熱燗が回ってきた。
二人とも酒には強い。
宗千佳とウサギが戻ってきた頃には二人とも政治であるとか、どの酒がうまいとか、宗教観とかで言い合っていた。まだ日は高い。
酔っ払いの争いに巻き込まれるのも苦痛なので、蔵王堂に行くことにした。
太郎も、酔っ払いの扱いには疲れたみたいで、案内するよと、言ってくれた。
【蔵王堂】
蔵王権化が巨像が、三体並んでいる。
奈良であれば奈良公園の大仏が有名であろう。
青く大きな巨体は、山々を想像させるには十分である。
太郎はこの寺のあらましとかを事細かに教えてくれる。
しばらく、その迫力に飲み込まれて手を合わした。
それなりの距離を歩いて別のお寺に着いた。
有名な短歌が刻んである。
「かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
楠木正行が死を決した言葉である。
宗千佳はやはり今の世界に不足を感じる。
ラタトクス工業に支配された倫理観の輪の中で、ほとんど死なない戦場で武家は価値があるのだろうか。
スポーツ選手のように生き死にではなく競技としての戦争をしているだけではないか。
葉隠にはこうある。
「武士道とは死ぬことと見つけたり。」
文面上は死を推奨するように見えるが、それは誤りで、命をかけることこそが武士道ということである。
当然である、命をかけることは普通できない、それができるから武家は重用されるのだ。
命をかけることもないのに、かける気がないのに武家を名乗り続けて良いのだろうか。
久我流の戦いを見ると、ほとんど傭兵である。
柳生家は久我流を否定する価値があるのだろうか。
「もしかして、だから、父は武家を取り戻そうとしたのかもしれない。」
宗千佳の考えは高潔である。
それが故に人間を見誤っている。




