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第2話『白い手袋と平穏な日常』

第1話ランクインありがとうございます。

感想も大変励みになっております。

残念ながら、連載を続けなければならないようです。


今回は、灰音と白瀬の日常に焦点を当てました。

退屈だとは思いますが、暖かい目で見てやってください。

低危険度の任務というのは、退屈だ。


北区第六処理場。

灰音は使われなくなった攪拌機の縁へ手を伸ばし、薄く積もった埃を拭った。頭の高い位置で束ねた黒髪から短い後れ毛が何本も逃げている。作業のたびに頬へ触れるそれを、灰音は手首で乱雑に払った。


しゃがむと、黒い作業着の下で細い肩が動く。見た目ほど華奢ではない。溶剤の染みた布を絞る手には古い火傷が点在し、その指だけが退屈を知らないように正確に動いていた。腰にはバール。太ももには溶剤スプレーのホルスター。薄い手袋をはめた指先が、汚れを見つけては淡々と処理していく。


黒い瞳は作業中いつも対象の表面だけを滑っていた。人の目を見るときでさえ、そこに何かを探している様子はない。まるで魂が抜け殻になったみたいに。


(こんなの掃除って言わないよ…。)


掃除とはもっと激しくもっと深く、もっと白くするためのものだ。白瀬の白い手袋を汚すような穢れを根こそぎ削り取る。それが私の仕事なのに。なのに今の私は何をしている? 

埃を払って油を拭いて紙を砕いて。これじゃあ普通の清掃員と何も変わらない。報酬は口座へ溜まり続けている。白瀬のためなら使い道も見つかるのに、彼女は灰音へ何も求めない。


濡れ雑巾を絞る。絞った水はわずかに濁っただけで、手袋も服もきれいなままだった。こんな仕事では、自分が何の役に立っているのか分からない。使われない道具は置物だ。せめて捨てられれば、白瀬の手を一度くらい煩わせられるのに。


端末を確認するが、画面は暗いまま。任務完了の報告を送っても返ってくるのは「了解」の2文字だけ。昨日も一昨日も同じだった。

あの2文字を見るたび、灰音は胸の奥がちくちくと疼くのを感じる。便利な道具には「了解」で十分なのだろう。でも、もう少しだけ何か違う言葉が欲しい。欲張りかな…。欲張りだよね…、そんなの分かってる。


処理場を出ると雨上がりの湿った空気が肌にまとわりついた。汚染された空はどんよりと曇っている、それは今にも降り出しそうだった。灰音は空を見上げて、少しだけ期待した。雨が降れば、もしかしたら白瀬が呼んでくれるかもしれない。雨の夜は、私が呼ばれる夜だから。


でも端末はポケットの中で沈黙を守っていた。画面を何度か確認するが、通知はゼロ。当たり前だ。呼ばれるのは雨の夜。今はまだ昼間だ、焦ることはない。焦る理由もない。分かっている。分かっているんだけど、つい画面を見てしまう。


*  *  *


翌日。


灰音は事務所へ呼び出された。正確には、白瀬の執務室の隣にある資料室の整理を命じられた。白瀬が直接言いに来るのではなく、端末に『資料室整理』とだけ送られてきた。ただ、それだけだった。


(直接言ってくれてもいいのに…。)


資料室は埃っぽかった。棚には古い書類が詰まっている。灰音は手袋をはめ、一枚ずつ確認しながら整理していく。シュレッダーにかけるもの、保管するものに、白瀬に確認を取るもの。焦点の定まらない目で文字を追いながらも、指先は迷わない。廃棄保管、要確認。書類は灰音の手元で滞りなく三つに分かれていった。


(こういうのは得意なんだよね、地味だけど。)


午後になると、廊下から白瀬の声が聞こえた。


「はい…、はい……。」

「承知しました、榊原様」


いつもの平坦な声だった。それでも灰音には、白瀬の指が端末の縁を強く押さえているのが見えた。声は聞こえないが、表情が少し硬い。眉間に浅い皺が寄っている。


灰音の胸がきゅっと痛んだ。と同時に、瞳の奥で何かがぎらりと光った。白瀬だ、白瀬がいる。白瀬が近くにいる。灰音の瞳に戻らぬ色彩が蘇るように感じた。


(白瀬、疲れてるのかな…?)


電話が終わると白瀬は資料室のドアを開けた。

「進捗は」

「7割くらい」

「夕方までに終わらせて」

「うん」

「終わったら報告」

「分かった」

白瀬はそれだけ言って出て行こうとした。灰音は思わず声をかけた。

「白瀬」

「何」

「あの……何か疲れてる?」

白瀬の目が灰音を捉える。冷たい視線。灰音はそれだけで胸が熱くなる。

「あなたに関係ない」

「そうだけど」

灰音は俯いた。「関係ない。」そう言われるたびに胸の奥が軋む。でも関係ないと言われること自体が、白瀬が自分を認識している証拠でもある。なにより、無視されるよりはましだ。無視されるくらいなら嫌われたほうがいい。嫌われるということは、少なくとも存在は認められているということだから。

「関係ないけど、私は白瀬の役に立ちたいから」

「だから何」

「だから……その……何かあったら言ってね」

白瀬は何も言わずに資料室を出て行った。灰音はしばらくその場に立ち尽くしていた。心臓がドキドキしている。白瀬と話せた。それだけで今日はいい日だ、そう思うことにした。


夕方。


資料室の整理を終え灰音は白瀬の執務室へ報告に行った。ドアをノックすると、中から「入って」と声がした。


白瀬は書類の山と格闘していた。机の上は散らかっている。灰音はそれを見て、むずむずした。掃除したい…、でも勝手にしたら怒られる。前回の件があるから余計に慎重になっている。

「終わったよ」

「ご苦労さま」

「あの……机、片付けようか?」

「結構」

「でも、その書類の山倒れそうだよ」

「倒れたら拾う」

「私が拾うよ」

白瀬は手を止め灰音を見た。その目に感情はない。でも灰音にはほんの一瞬だけ、白瀬の眉がピクリと動いたように見えた。

「あなたは本当に」

「うん?」

「何でもかんでも手を出そうとするのね」

「だって白瀬が困ってるみたいだから」

「困ってない」

「でも……」

灰音は黙った、白瀬の言葉はいつも冷たい。でも灰音は知っている。白瀬が本当に困っているときは、もっと冷たくなることを。今はまだ、普通の冷たさだ。だから大丈夫。

「報告は終わり?」

「うん」

「じゃあ帰って」

「うん」

灰音は執務室を出た。ドアを閉める前に振り返ると、白瀬はすでに書類へ視線を戻していた。その横顔はやっぱり綺麗だった。


(白瀬は綺麗だなあ…)


灰音は廊下を歩きながら思った。汚れ1つない白い手袋、冷たい視線、感情のない声、全部全部綺麗だ。私が汚れているから、白瀬が余計に綺麗に見えるのかな。それなら私はいくらでも汚れる。白瀬の白さの引き立て役になれるなら、それでいい。


*  *  *


その夜。


灰音は自宅のアパートに戻った。質素な部屋。ベッドと机と小さなキッチン。壁には何も飾っていない。掃除は行き届いている、当たり前だ。掃除屋なのだから。自分の部屋が汚くてどうする。


シャワーを浴びて、冷蔵庫から缶酎ハイを取り出す。プルタブを起こす音がやけに大きく響いた。ベッドに腰掛けて一口飲む。アルコールが喉を焼いて、じわじわと頭の芯が痺れていく。灰音は酒に強いほうではない。すぐに顔が赤くなって、意識がふわふわし始める。でも、それがいい。何も考えなくて済むから。


(白瀬は今何してるかな)


きっとまだ仕事している。書類の山と格闘している。もしくは、誰かと会っている。もしかしたら、また昼間のあの榊原って奴に呼び出されているかもしれない。そう思うと、胸の奥がざわついた。


(榊原……)


灰音は端末を手に取った。昼間に聞いた名前を検索欄へ入れる。

───榊原浄。浄化機構の幹部。白瀬に圧力をかけているらしい。まだ直接何かをされたわけじゃないが、白瀬が頭を下げている姿を見てしまった。あれは許せない。


(…消したいな)


灰音は缶酎ハイをあおった。半分ほど一気に飲む。…頭がくらくらする。灰音の細い指先がバールへ伸びそうになる。いや、まだ早い。白瀬は、まだ何もされていない。彼女は「感情で動くな」と言った。だから動かない…今はまだ。


(でも、もし榊原が白瀬にひどいことをしたら…)


そのときは、掃除する。誰にも気づかれないように。白瀬の白い手袋を汚すものを、すべて残らず、痕跡ごと消す。


灰音は残りを飲み干した。アルミ缶がカランと音を立てて床に転がる。おぼつかない足取りで缶を拾い、ゴミ箱へ入れる。ゴミ箱はいっぱいだった、明日はゴミ出しをしなければ。


酔いが回って、視界がにじむ。灰音はベッドへ倒れ込んだ。天井がぐるぐる回る。蛍光灯のカバーに小さな虫が入っている。掃除しなきゃ…でも、今はいいや。眠い。ひたすらに眠い。

「白瀬……」

声に出して呼んでみるが、返事はない。当たり前だ。ここに白瀬はいないのだから。

「白瀬、白瀬、しらせぇ……」

酔った頭で何度も名前を繰り返す。端末を握りしめて、メッセージアプリを開く。白瀬とのトーク画面。最後のメッセージは『了解』の2文字。灰音はそこに「さみしい」と打ち込んだ。送信ボタンに指をかけて………送れない。送ったら嫌われる、解雇される。それは嫌だ…、嫌すぎる。

「ううう……」

灰音は端末を胸に抱えて丸くなった。虚ろな瞳から、純白の雫が溢れ出す。なぜ…分からない。でも悲しい。

白瀬に会いたい。白瀬に触れたい。白瀬に名前を呼んでほしい。でもそれは叶わない。だったらせめて、夢の中だけでも…。


灰音の意識は端末を胸へ抱いたまま、ゆっくりと闇に沈んでいった。


*  *  *


翌日の夕方。


薄暗い部屋で端末が震えた。灰音は飛び起きた。頭がガンガンする。端末を見て一瞬で醒めた。白瀬からだ。


『南区第四倉庫』

『痕跡処理』

『1時間以内』


灰音は端末を握りしめた。心臓がバクバクしている。呼ばれた、白瀬が、私を呼んだ。


『向かいます』


返信はすぐに既読になった。画面に浮かぶ「既読」の2文字を、灰音はしばらく眺めていた。返事は来ない。いつも通りだ。でも既読がついたということは、白瀬が私の返信を見たということだ。それだけでいい。それだけで、今日も生きていける。


灰音は急いで支度をした。バールを腰に差し、溶剤スプレーをポーチに入れる。手袋をはめる。鏡を見る。顔が少し赤い。2日酔いで目が腫れている。焦点の合わない瞳が鏡の中からこちらを見返していた。…でも構わない。

どうせ誰も見ていない。白瀬は私の顔なんて見ない。


白瀬に会える喜びに胸が高鳴り、全速力で駆け出した。外は雨だった。傘を取る時間が惜しい。灰音は、雨の中を走った。髪が濡れ、服が濡れ、靴が濡れる。でも構わない。どうせすぐに汚れる。白瀬の手袋を汚さないためなら、私なんていくらでも汚れていい。


(待ってて白瀬)


雨の夜は、呼ばれる夜。

私の一番好きな夜だ。


これから、重要人物や機構などが登場します。

頭が混乱すると思いますが、どうか熟読、反芻していただければと思います。

厳しい意見、生暖かい感想をお待ちしております。

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