第1話『白い手袋と雨夜の掃除』
自分の思うがままに癖を詰め込んだ作品になってます。
主人公の子は、相手に異常な執着心を持っています。
モチベが無くなったらしばらく連載止まります。
※暴力表現があるため、苦手な方はご遠慮ください。
雨の夜だけ、灰音は呼ばれる。
正確に言えば、雨が降るたびに呼ばれることを期待してしまうと自分でも分かっていた。
窓ガラスを細かな雨粒が叩き始めると灰音は手元に端末を置く。画面が暗いままでいる時間が長くなるほど胸の奥がキリキリと冷えていくような気がしたのだ。呼ぶ気配のない夜は息をするのさえ億劫になる。
やがて机の上で端末が震えた。
灰音は弾かれたように顔を上げた。
『南区第七倉庫』
『痕跡処理』
『三十分以内』
差出人の名前は白瀬。
たった二文字を見ただけで張り詰めていた肩から力が抜けていく。
白瀬が自分を必要としている。白瀬が灰音の働きを覚えている。今夜もまだ白瀬の世界に灰音の居場所が残っている
——そう信じられるのはほんの一瞬だけだった。
実際の理由はもっと乾いている。
灰音は痕跡を消すのが早い。要るものと要らないものを選り分ける目が正確で汚れた場所にも躊躇なく踏み込んでいける。誰かが隠した悪意も取り落とした失敗も忘れようとした証拠も淡々と袋へ詰め込まれるのだ。
灰音は、掃除屋だった。
人目につかない場所で終わった出来事を片付ける。表の人間が触れたがらないものを拾い分け洗い消す。血や薬品が混じった匂いにも古い建物に染みついた湿気にも慣れていた。
口より先に手を動かし依頼人から渡された秘密を現場の汚れと一緒に持ち帰る。
そうした掃除屋の中でも灰音は特に扱いやすかった。
頼めば動く。問い詰めない。断らない。
だから白瀬は呼ぶ。灰音が一番便利だから。
その事実を灰音はとうに知っていた。
知っていても端末に白瀬の名前が浮かぶ夜を待たずにはいられなかったのだ。
本当に自分でもどうかと思うよ。
でも、これが私の生きる理由だから仕方ない。
と、感傷に浸りながら灰音は短く返信した。
『向かいます』
送信した文字へすぐに既読がつく。返事は来なかった。灰音は画面を胸元へ引き寄せそれから慌てて立ち上がった。体は正直だ。白瀬の文字が浮かぶだけで指先まで血が巡り始める。
* * *
第七倉庫に着くと白瀬はすでに軒下に立っていた。
白い手袋。黒い外套。雨の湿気にも形を崩さない髪。足元では吹き込んだ雨水が細い流れを作っているが白瀬だけはそこから切り離されているように見えた。
何度見ても綺麗な人だと思う。整っているからというだけではない。誰にも触れさせず何にも染まらず冷たい輪郭を保ち続けている。その在り方ごと灰音には眩しかったのだ。
白瀬が腕時計へ目を落とす。
「遅い」
指定時間より五分も早いのに白瀬の基準では遅いらしい。
…まあ白瀬様の基準は世界基準とはずれているのだから今さら驚くことでもないが。
「ごめんなさい」
「言い訳は」
「しない」
「ならいい」
白瀬は踵を返し倉庫の奥を顎で示した。
「右の部屋。床と壁棚の下北側の排水溝」
「うん」
「細かいものが残っている。回収対象は私へ。処分対象は現場で消して」
「分かった」
「五分ごとに進捗を報告」
またスパルタだなあ、と思いつつも灰音は従順に頷く。
白瀬の命令は絶対だ。絶対というよりむしろそれが喜びなのだ。
「分かったよ」
白瀬はもう灰音を見ていなかった。いたわりもねぎらいもない。必要な命令を必要な順番で告げそれで終わりだ。
いつも通りだった。その変わらなさが灰音を安心させた。
道具袋を開き薄い手袋をはめる。右手の指先まで収めたところで灰音は白瀬の手元へ視線を滑らせた。白い手袋には染み一つついていない。灰音は自分の手袋に残った皺を親指で伸ばし倉庫の奥へ入った。
室内には雨と金属古い木材の匂いが滞留していた。その底に誰かがここでしくじった気配が沈んでいる。
灰音は灯りを絞り床へ膝をついた。
割れた留め具。靴底から落ちた泥。細い銀色の欠片。黒ずんだ封蝋。燃え残った紙の角。指先で拾い光に透かし袋へ分ける。残すもの消すもの白瀬へ渡すもの。動きに迷いはなかった。
しつこい汚れは根こそぎ削り取るのが一番。
それが灰音のモットーだった。
白瀬が綺麗な手袋をはめていられるのは灰音がこうして汚れを消しているからだ。その事実が灰音には小さな優越感を与えてくれる。白瀬の白さを守れるのは私だけなのだから。
「灰音」
名前を呼ばれた。手にしていたピンセットが袋の縁へ小さく触れる。
「はい」
振り返ると白瀬が入口に立っていた。
「棚の裏は見た?」
「今から」
「先に見て」
「うん」
灰音はすぐに立ち上がった。
命令されるのが好きだった。正確には白瀬に命令されている間だけ自分が何者なのか分かった。
拾えと言われれば拾う。
消せと言われれば消す。
待てと言われれば待つ。
白瀬の言葉に従っている間は自分で生きる理由を探さずに済む。時間も体力も指先もすべて白瀬のために使える。命令が途切れる瞬間を灰音はひどく恐れていた。
棚の側面へ肩を入れわずかな隙間から奥を覗く。灯りの先で小さな紋章片が光った。
「あった」
身を屈め指を伸ばす。紋章片を拾い上げると手袋についた埃を気にも留めず白瀬のもとへ戻った。
「見せて」
差し出した手の上から白瀬が紋章片だけを摘み取った。白い指先が灰音の手袋へ触れそうになる。触れる前に離れた。白瀬は紋章片を一瞥し小袋へ収める。
「使える」
「よかった」
灰音の声がわずかに弾んだ。
白瀬は袋の口を閉じながら目だけを向ける。
「あなたが嬉しそうにする必要はない」
いやいや白瀬のためになることしたら嬉しいに決まってるでしょ。…そう心の中で反論しつつも口には出さない。いや、出せない。
「白瀬の役に立ったから」
「仕事でしょ」
「そうだね」
「なら感情を混ぜないで」
「ごめんなさい」
灰音は俯いた。謝りながらも口元にはまだ笑みが残っていた。白瀬がそれを嫌うと分かっていてもうまく消せない。役に立てたときだけ胸の内側へ熱が戻ってくるのだ。
報酬よりも褒め言葉よりも確かなものに感じられた。
白瀬が灰音の顔を見つめる。感情を読み取ろうとしているというよりは故障した道具の状態を確かめるような目だった。
「あなたはいつもそうね」
「何が?」
「頼めば動く」
「うん」
「断るという選択肢を持たない」
「白瀬の用なら」
白瀬は手袋の指先を一度引いた。馴染ませるようなごく小さな仕草だった。
「危険でも?」
「白瀬が行けと言うなら」
「損をしても?」
「白瀬の得になるなら」
「私があなたを利用しているだけでも?」
灰音は顔を上げた。白瀬の眼差しは冷たく澄んでいた。あちらに試すような響きはない。白瀬はただ事実を口にしている。
「知ってるよ」
白瀬の眉がわずかに寄った。
「知っているの」
「うん」
「ならなぜ来るの」
「呼ばれたから」
「それだけ?」
「それだけで十分」
灰音はゆっくり立ち上がった。近づけば白瀬の体温さえ感じられそうな距離だった。それでも手は伸ばさない。踏み込めば拒まれる。離れすぎれば呼ばれなくなる。だから灰音はいつも白瀬の役に立つ距離に立つ。
「白瀬が私を使うなら私には使われる理由がある」
「理由ではなく用途よ」
「同じだよ」
「違う」
「白瀬が私を呼んでくれるなら私はまだ要るってことでしょ」
白瀬の唇が閉じた。灰音は返事を待ちながら胸元で両手を重ねた。手袋越しに爪を押しつけ続きをせがみそうになる気持ちを抑える。
やがて白瀬が息を吐く。
「あなたは壊れている」
そりゃああなたのせいでね。そう言って笑えたらどんなに楽だろう。
白瀬の冷たい指先が灰音の形を狂わせた。それなのに壊れていない頃の自分を思い出せない。白瀬に与えられた歪みこそが今の自分だ。
「白瀬がそう言うならそうかも」
「その返答も嫌い」
「でも呼んでくれる」
「便利だから」
「うん」
「替えはきく」
「そう」
「あなたでなくてもいい」
「でも今日は私を呼んだ」
白瀬の目が冷たさを増した。
灰音はその変化さえ嬉しかった。
自己の言葉が白瀬の内側へ届いた。苛立ちでも不快感でも構わない。何も残せないよりずっとよかった。
「勘違いしないで」
勘違い? それって愛だと?
いや白瀬様にとって私はただの掃除道具。
勘違いしてるのは白瀬の方で私はちゃんと自分が何かを分かってる。
……分かってるけど期待するくらいは許してほしい。
「しないよ」
嘘だった。
灰音は勘違いするために白瀬のそばへ来ていた。名前を呼ばれるたびに仕事を渡されるたびにほかの誰かではなく自分へ汚れた場所を任せられるたびに
——特別だと、思いたかった。
愛されていなくても必要とされている。
必要とされている限り白瀬の世界に存在できる。
いつか用途以外の名前で呼んでもらえるかもしれない。
そんな期待を抱くたび白瀬は正確に踏み潰した。
けれど灰音にはその冷たささえ白瀬から与えられたものだった。だから手放せなかった。
「掃除は終わった?」
白瀬が腕時計を見る。
「あと十分」
「五分で」
また無茶言うなあと思いつつも灰音は素直に頷いた。白瀬の前では無茶も無理も飲み込むのが癖になっている。
「分かった」
灰音は床へ膝をついた。残った染みを拭き排水溝の蓋を開ける。指先で奥を探り引っかかった金属片を回収する。濡れた床に白瀬の影が細長く伸びていた。灰音はその影を踏まないように身をずらした。
* * *
五分後。
灰音は道具を袋へ戻し立ち上がった。
「終わったよ」
「確認する」
白瀬は部屋へ入った。
床、壁、棚の裏、排水溝、窓枠。最後に灰音の手元。その視線を灰音は息をひそめて追った。
白瀬の口から指摘が出なければ合格——それが分かっていても結果を待つ時間には胸が強く脈打った。
「報酬はいつもの口座へ」
灰音の肩から力が抜ける。
「いらない」
「受け取りなさい」
「白瀬の役に立てたからそれで——」
「仕事に感情を持ち込まないで」
「分かった」
「分かっていない」
「うん」
白瀬の眉間に浅い皺が寄った。
灰音はそれを見てまた笑いそうになった。白瀬の感情が自分へ向いている。嫌われているときの顔も面倒だと思われているときの顔も灰音にとっては白瀬との繋がりだった。
「次の仕事がある」
白瀬の声に胸がまた、熱を持つ。
「私に?」
「あなたに」
「うん」
「北区の廃教会。明日の夜」
「何をすればいい?」
「残骸回収と内部清掃。危険度は高い」
危険度が高い仕事をわざわざ私に振るあたり白瀬は本当に私のことを惜しいと思っていないらしい。まあいい。壊れても惜しくない私だから白瀬の代わりに汚れられる。
「他の人では?」
「行かせない」
「どうして?」
白瀬は灰音をまっすぐ見た。
「あなたが一番壊れても惜しくないから」
雨音が遠ざかった。胸の奥へ冷たいものが深く刺さる。灰音はゆっくり瞬きをした。
一番。
どんな意味でもよかった。白瀬の中で自分は一番に分類されている。最も軽く扱えるもの。最も危険な場所へ送れるもの。壊れたところで損失の少ないもの。それでも白瀬は大勢の中から灰音を選んだ。
……そっか。私が一番なんだ。
灰音の唇がかすかに持ち上がる。
「そっか。じゃあ私が行くね」
「そうして」
傷ついた心臓がまだ熱を持って動いていた。ナイフを刺されたくらいじゃ死ねない。それが灰音の仕事であり愛の形だった。
「白瀬」
「何」
「明日も呼んでね」
白瀬は目を細める。
「必要なら」
灰音は道具袋の紐をしっかり握った。
「うん。それでいい」
倉庫を出ると夜の雨が髪と頬を濡らした。傘は持っていなかった。背後を振り返る。白瀬は軒下に立ち紋章片の入った袋を確認している。その両手は最後まで白いままだった。
それだけで今夜の灰音には十分だった。
* * *
翌夜。
北区の廃教会には灰音しかいなかった。
崩れかけた祭壇。割れたステンドグラス。雨水の薄く広がった床。誰にも拾われず泥に沈んだ祈りの欠片。
任務は残骸回収と内部清掃。危険度は高い。
端末には昨夜の白瀬の声が残っている。
『あなたが一番壊れても惜しくないから』
灰音はそれを再生した。
一度。
もう一度。
胸の奥へ同じ言葉が沈むたび指先へ力が戻ってくる。
「白瀬」
返事の代わりに屋根を打つ雨音が響いた。
「ちゃんと掃除するね」
灰音は手袋をはめた。白瀬のものとは違う薄くて安い手袋。それでも祭壇から差す青白い光の中ではよく似た白に見えた。
邪魔なものは全部消せばいい。
白瀬の邪魔をするものも私の視界から白瀬を遠ざけるものも全部消えてなくなればいい。この手で消せないものはない。今までもこれからも。
膝をつき床を拭く。散らばった欠片を拾う。焦げた布を剥がす。残すべきものを分け痕跡を袋へ収める。手を動かしている間だけ白瀬が近くにいるような気がした。
ここを拭け。
それを拾え。
報告しろ。
頭の中で白瀬の声を作れば灰音の指は迷わず動いた。
端末が震える。灰音は濡れた布を取り落としそうになりながらすぐに画面を開いた。
白瀬からだった。
『完了報告だけ送って』
胸の奥で固く縮んでいたものがほどける。
「うん」
声がわずかにかすれた。
「ちゃんと送るね」
白瀬は灰音がどこへ膝をつき何を拾っているのか知らない。知る必要がないと思っている。それでも完了報告を待っている。
たったそれだけのことが嬉しかった。白瀬の指示の中に自分の居場所がある。白瀬が望む形でさえあれば死んでいるよりは生かされている方がましだ。
灰音は立ち上がった。床の汚れを拭き壁の焦げを削る。割れた硝子を一つずつ拾い上げていくと祭壇の下に小さな箱が見えた。
金属製で手のひらに載るほどの大きさ。角には黒い封蝋がこびりつき雨に濡れた床の上でそこだけ妙に乾いている。灰音は息を整え箱を持ち上げた。
軽い。中身の有無さえ分からないほど軽いのに腕の中では不思議な存在感を持っていた。
これが目的のものだ。白瀬が欲しがっているもの。
灰音は箱を胸へ抱えた。
その瞬間だった。
「——見つけた」
低い声が祭壇の奥から響いた。
灰音の背筋が凍る。振り返る暇もなく空気が裂ける音。灰音は反射的に身を屈めた。頭のすぐ上を黒い影が唸りを上げて通過する。
───…敵!?
カランと金属が床を転がる音。灰音は箱を抱えたまま後退し灯りの届かない闇へ目を凝らす。
祭壇の影から男が一人静かに歩み出てきた。黒ずくめの装束。顔の下半分を布で覆い目だけを覗かせている。手には短刀。刃先が青白く光った。
「その箱、渡してもらおうか」
「嫌だよ」
灰音は低く答えた。声が震えないのが自分でも不思議だった。胸の奥で白瀬の言葉がリフレインする。
『あなたが一番壊れても惜しくないから』
…そうだ。私は壊れても惜しくない。だからここで死ぬわけにはいかない。白瀬に「使えない」と思われたら終わりだから…。
男が踏み込み、短刀が雨の光を弾く。灰音は箱を左手で抱え直し右手を腰の道具袋へ滑らせた。
「掃除屋を甘く見るなよ」
灰音の右手が閃く。握られていたのは細長い金属の棒——掃除用具ではなく先端に特殊な溶剤を仕込んだ撹拌棒だった。
振り抜くと同時に棒の先から透明な液体が飛沫となって男の顔面へ降りかかる。
「ぐあッ!?」
男が顔を押さえてたたらを踏む。溶剤が目に入ったのだ。灰音はその隙を見逃さない。床を蹴り低い体勢で男の懐へ飛び込む。左手の箱を盾のように構え右手の棒で男の手首を打つ。
ごきりと鈍い音がして短刀が床に落ちた。
「掃除屋の仕事はな、汚れを消すことだけじゃない」
灰音は男の足を払い仰向けに倒す。そして落ちた短刀を拾い上げ男の喉元へ突きつけた。
「邪魔なものは、この世から消すことだ」
男の目が見開かれる。布の下で何かを叫ぼうとしたが灰音の膝が男の脇腹を圧迫し声にならない。
「誰の依頼?」
「……くそ」
「答えないなら、消すよ」
灰音の声は驚くほど平坦だった。感情がないわけではない。ただ白瀬のためという一点において灰音の迷いは存在しなかった。
男が観念したように息を吐く。
「……白瀬を、狙っている」
灰音の指先がぴくりと反応した。
「誰が」
「それは言えない。だが——」
男の視線が灰音の背後へ向く。灰音は振り返らない。罠だ。
だがその一瞬の隙を男は逃さなかった。男の袖から小さな筒が滑り出す。灰音は即座に短刀を引き後方へ跳んだ。
筒から白煙が噴き出す。催涙ガスだ。
灰音は口元を袖で覆い低い姿勢のまま出口へ向かう。視界が滲む。涙で前が見えない。
くそ……箱は守らなきゃ。白瀬のものだから。
煙の中灰音は祭壇の下へ手を伸ばす。箱はまだそこにあった。抱え直し出口へ走る。背後で男が立ち上がる気配。足音が追いかけてくる。
教会の扉を蹴り開け外へ転がり出る。雨が顔を打つ。煙が晴れ夜の闇が広がる。男は追ってこなかった。教会の中に留まっている。
灰音は荒い息をつきながら箱を抱えて雨の中を走った。足がもつれる。膝が笑う。それでも止まらない。
報告しなきゃ。白瀬に……白瀬にこの箱を。
端末を取り出す。指が震えて画面がうまく押せない。雨で画面が濡れる。それでも何とか文字を打つ。
『回収完了』
『敵と遭遇』
『追跡なし』
送信。
すぐに既読がつく。返信が来る。
『どこ』
灰音は教会から離れた路地の影で立ち止まった。壁に背を預けずるずると座り込む。膝が震えて立っていられなかった。
『北区廃教会から南へ二本目の路地』
『動くな』
『そのまま待て』
灰音は端末を握りしめた。白瀬が来る。迎えに来る。それが任務だからかそれとも——
違う。任務だからだ。でも……来てくれる。それだけでいい。
雨が髪を濡らし頬を伝い箱の表面を叩く。灰音は箱を胸に抱え白瀬の到着を待った。痛みも寒さも恐怖も白瀬が来るという事実の前では小さなものだった。
* * *
数分後。
黒い車が静かに路地へ入ってきた。ヘッドライトが灰音を照らす。ドアが開き白瀬が降り立つ。傘も差さず雨の中を歩いてくる。白い手袋が闇の中でひときわ浮かんで見えた。
「無事?」
「うん」
灰音は箱を差し出した。白瀬は受け取り封蝋を確認する。それから灰音の顔を見た。灰音の頬には涙の跡と雨が混ざり手袋は裂け掌から血が滲んでいた。
「やられたの」
「ちょっとね」
「敵の特徴は」
「黒ずくめ。短刀使い。白瀬を狙ってるって言ってた」
白瀬の目が細くなる。ほんの一瞬、感情のようなものが走った。灰音はそれを見逃さなかった。
今、何か思った。私の言葉で白瀬が何か感じた。
「車に乗って」
「うん」
灰音は立ち上がろうとして膝から崩れた。白瀬が手を伸ばす——が灰音の腕には触れずその手は空中で止まる。白瀬は運転手へ目配せした。運転手が灰音を抱え車の後部座席へ運ぶ。
「手当ては車内で」
白瀬は前席に座り振り返らない。灰音は後部座席で救急箱を開け自分で掌を消毒する。消毒液が沁みて顔が歪むが声は出さない。
白瀬は私に触らない。いつもそう。でも……来てくれた。それだけでいい。
車が静かに走り出す。灰音は窓の外を見た。雨が街を濡らし灯りを滲ませていく。
「白瀬」
「何」
「箱、無事でよかったね」
「そうね」
「私、役に立てた?」
白瀬は答えない。灰音はそれでも構わなかった。沈黙の中に白瀬の「はい」を探す。見つからなくても探すこと自体が灰音の生きる意味だった。
* * *
その日の昼。
白瀬は報告書を読んでいた。
北区廃教会。残骸回収完了。内部清掃八割完了。目標物回収済み。担当掃除屋灰音。現在治療中。敵性存在一名との交戦撃退。
最後まで目を通すと白瀬は紙面の端を指で揃えた。
「次からは別の掃除屋を使って」
向かいに立つ補佐官が端末を操作する。
「灰音は任務から外しますか」
「現状では使えないでしょう」
「本人は復帰を希望しています」
「でしょうね」
「回復後はどうしますか」
白瀬の指が報告書の上で止まった。ほんの数秒。
「低危険度の清掃へ」
「高危険度には?」
「使わない」
「配慮ですか」
白瀬は顔を上げた。
「資源管理よ」
声色は変わらなかった。白い手袋が報告書を伏せる。
その言葉を灰音が聞くことはなかった。
聞いていたらきっと喜んだだろう。資源。白瀬の中で自分はまだ分類されている。廃棄物ではなく使う場所を変えられた資源として。その違いだけで灰音はまた歩けてしまう。
* * *
数日後。
灰音は病室で目を覚ました。
窓の外は晴れている。白いカーテンが風を含みゆっくり膨らんでは戻っていた。枕元には水差しと乾いたタオル、きれいに畳まれた着替えが置かれている。
灰音は瞬きを繰り返した。最初に見たのは部屋の入口だった。そこには白い壁と閉じかけた扉があるだけだった。
灰音はしばらく見つめたあと枕へ頬を戻す。分かっていたはずなのに胸の奥に小さな痛みが残った。
机の上に端末が置かれている。通知が一件。差出人を見た瞬間灰音は身体を起こした。膝の痛みに息が詰まりシーツを握る。それでも端末へ手を伸ばした。
白瀬からだった。
指先で画面を開く。
『次回から低危険度に変更』
灰音は何度も読み返した。文字の位置。句読点のない短さ。必要なことしか伝えない冷たさ。白瀬の文章だった。
低危険度。
つまり壊れても惜しくない私を白瀬はまだ使う気でいる。それってつまり壊れてほしくないってことなんじゃないの?
灰音は端末を胸へ引き寄せた。硬い角が鎖骨へ触れ傷んだ身体へ鈍い感触を残す。涙が一筋こめかみへ流れた。嬉しさも悲しさもとうに混ざっている。
こんな短い業務連絡を抱き締めてしまう自分がどうしようもなく嫌だった。
その嫌悪さえ白瀬から離れる理由にはならなかった。
もし呼ばれればまた行く。何度でも。どこへでも。白瀬が指し示す汚れの中へ。
灰音が目を閉じると端末がもう一度震えた。
瞼を開き急いで画面を見る。
白瀬からだった。
『退院後、北区第六処理場へ』
『低危険度』
『単独で可』
『詳細は前日送付』
灰音は一行ずつ時間をかけて読んだ。
低危険度。単独で可。詳細は前日送付。
甘さも謝罪もない。白瀬は白瀬のままだった。そしてまた灰音を呼んだ。
震える指で返信を打つ。
『行きます』
送信するとすぐに既読がついた。返事は届かない。
灰音は画面をそっと撫で端末を胸元へ抱えた。今度は角が当たらないよう両手で包み込む。
白瀬の仕事がある。その事実に縋る自分を嫌いながら灰音は目を閉じた。
白瀬に使われている間だけ何のために生きればよいのか分かる。次の命令がある。次の夜も白瀬の世界にいられる。だから灰音はまだ生きていられる。
窓辺では白いカーテンが静かに揺れていた。風を受けて翻るその白さが白瀬の手袋に少しだけ似ていた。
拝読いただきありがとうございました。
感想、評価、厳しいご意見も受け付けております。
皆さまの心に一瞬でも残ったのであれば、それは僕にとって至高の喜びです。




