第3話『白い手袋と夜の掃除 前編』
前編と後編、投稿します。
最近は風邪や体調が優れない日があって、仕事も被ってしまって執筆のモチベがありませんでした。
がんばります。
雨音が窓ガラスを叩く夜は決まって胸の奥がざわつく。
灰音は自宅のアパートで、薄暗い部屋の中で端末を睨んでいた。画面に映し出されているのは、浄化機構の内部データベース。もちろん正規ルートでのアクセスではない。掃除屋として裏の情報に通じていなければ務まらないし、この程度のハッキングでバレるようじゃ、一流の掃除屋とは呼べない。
「榊原浄……」
名前を呟く。画面に表示された初老の男の顔。浄化機構の幹部で、敵対組織とのパイプを持つ男。そして何より、白瀬に圧力をかけている男だ。
数日前の廊下での光景が脳裏に蘇る。
『承知しました、榊原様』
あの時の白瀬の平坦な声。でも、灰音には分かった。白瀬の指が端末の縁を強く押さえていたこと。眉間に浅い皺が寄っていたこと。あれは白瀬が嫌だと感じている証拠だ。
(許せない)
灰音の黒い瞳が画面の文字を滑る。普段はどこにも留まらない視線が今は情報を吸い上げるように釘付けになっていた。
榊原の行動パターン。週に3回、違法カジノに出向く。火曜、木曜、土曜の深夜。移動は黒い高級車。護衛は常に4人。カジノのVIPルームが彼の執務室代わり。
「火曜か……今日は月曜」
灰音は端末を置き、壁に貼ったカジノの間取り図を見た。これは組織のデータベースからコピーして持ち出したものだ。赤いペンで警備の位置、監視カメラの死角、逃走経路が書き込まれている。
(ここから入ってここを通ってここで待つ)
指でなぞりながら、ぶつぶつと呟く。
「警備は4人……多いね。でも掃除の邪魔なだけ。邪魔なゴミは片付けるのが筋だよね」
灰音は冷蔵庫から缶酎ハイを取り出した。プルタブを起こすプシュッという音が静かな部屋に響く。一口飲むと、アルコールが喉を焼いてじわじわと頭の芯を痺れさせていく。灰音は酒に強いほうではない。すぐに顔が赤くなって、意識がふわふわし始める。でもそれがいい。余計な感情を麻痺させて、冷徹な計算だけができるようになるから。
「武器は……バールは重い。金属探知機に引っかかる。使えない」
灰音は愛用のバールを手に取った。冷たい鉄の感触。これまで数え切れないほどの汚れを削ぎ落としてきた相棒だ。でも今回は見送りだ。
「清掃用具……清掃用具……」
灰音は部屋の中を見回す。高圧洗浄機のノズル。工業用アルカリ洗剤。スチールウール。粘着テープ。折りたたみモップ。
「これなら『清掃』として通用する」
灰音はニヤリと笑った。笑顔はぎこちない。まるで壊れた人形が笑ったみたいに。
「まずは下見だね」
* * *
翌日の月曜夜。
灰音はカジノの近くの路地裏に立っていた。黒いパーカーにジーンズ。目立たない格好だ。カバンには清掃用具一式が入っている。
カジノの裏口から距離を置いて観察する。警備員の交代時間。監視カメラの向き。従業員の出入り。
「ここなら……入れそう」
灰音はメモを取る。文字は走り書きで自分にしか読めない。
「変装は給仕かな。トレイを持てば怪しまれない」
雨がポツポツと頬を打つ。冷たい。でも灰音の胸の内は熱かった。白瀬を汚す男を消すための熱。
(待ってて白瀬。綺麗にしてあげるから)
* * *
火曜の夜。
灰音はカジノの給仕に変装して潛入した。黒いベストに白いシャツ。トレイには高級な酒が乗っている。顔には薄い化粧をして雰囲気を変えている。
(静かに)
灰音はVIPルームへ向かう廊下を歩く。心臓の音だけがうるさい。給仕としての仮面を被る。
VIPルームの前。護衛の男が立っている。
「お酒のお持てなしです」
灰音は微笑む。ぎこちない笑みだが薄暗い廊下では目立たない。
男が頷く。灰音はドアを開ける。
部屋の中は豪華だった。赤い絨毯。革のソファ。そして初老の男——榊原浄。
榊原はソファに深く腰掛け酒を飲んでいた。指には派手な指輪。顔には権力者の傲慢さが張り付いている。
灰音はトレイをテーブルに置く。その時、榊原が電話に出た。
「ああ私だ。……白瀬の件か?」
灰音の手が止まる。
「あの女は使えなくなった。……代わりはいくらでもいる。掃除屋などいくらでも」
榊原は笑っていた。
灰音の胸の奥で何かが凍る音がした。
(使えなくなった? 白瀬を?)
白瀬は道具じゃない。白瀬は━━━
(私の)
灰音はトレイを握る指に力を入れた。銀色の縁が指の形に歪む。ギリッという金属音がかすかに鳴った。
(今すぐこの男の口を塞いでやりたい)
でもここで暴れたら白瀬に迷惑がかかる。灰音は微笑みを保ったまま静かに一礼し、部屋を出た。
廊下の角で壁に手をつく。呼吸が荒い。指が震えている。
「白瀬を汚すな……」
呟きが漏れる。
灰音は目を閉じた。開けた時、瞳の奥に暗い炎が灯っていた。
(掃除しなきゃ)
* * *
アパートに戻った灰音は壁の間取り図を見つめた。
赤いペンで書き込んだ線が、まるで血の跡のように見える。
「明日……掃除する」
ぶつぶつと呟きながら、灰音は清掃用具をテーブルに並べた。
「警備4人は……アルカリ洗剤で滑らせて……スチールウールで目潰しして……モップで殴って……」
手が止まる。
「そして……最後は……」
灰音はカバンの底を見た。そこにはバールが入っている。
「やっぱり……最後はこれじゃないと」
灰音はバールを取り出し頬に押し当てた。冷たい鉄の感触が熱を持った肌を冷ます。
「綺麗にしてあげるよ……榊原さん」
灰音の唇が歪んだ。雨の音だけが響く部屋で、それは酷く不気味な笑みだった。
次の犠牲者は榊原さんです、ご愁傷さまですね。




