第2話:模範的な父親の面皮
玄関の引き戸を開けると、ふわりと我が家特有の温かな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
手料理の出汁の匂いと、妻・恵美が愛用している白檀の練り香水、そしてどこか熟した果実を思わせる艶やかな体臭。一歩足を踏み入れれば、そこは世間の喧騒から切り離された、穏やかで幸福な家庭そのものだった。
「おかえりなさい、あなた」
廊下の奥から、妻の恵美が小走りで迎えてくれた。
30代半ばを迎えた恵美の体躯は、今が最も女としての熟成を極めている。ゆったりとしたニットの首元からは、しなやかな白いうなじが覗き、歩くたびにエプロンの下で豊満な胸と柔らかそうなヒップがしなやかに揺れた。家庭的でありながら、ふとした仕草に男を狂わせる濃密な色香が漂っている。
亮平にとって、恵美は理想の妻であり、同時に狂おしいほどの性的対象でもあった。
「お疲れ様。顔色が少し悪いみたい……後でお風呂で、しっかりほぐしてあげるわね」
恵美は亮平の上着を受け取ると、そっと身を寄せ、その豊かな胸の柔らかさを亮平の腕に押し当てるようにして覗き込んできた。潤んだ瞳、薄く開いた桃色の唇。耳元で囁かれる甘い声に、亮平の股間がじわりと熱を帯びる。
「……ありがとう、恵美。助かるよ」
亮平は妻の腰を抱き寄せ、その柔らかい肉感を確かめた。右耳の奥で疼く狂気の異物感――会社のトイレで触れた「歯」の硬い感触や、耳裏の気味の悪い蠢き――それらがもたらす底なしの不安を、妻の持つ圧倒的な「女」の温もりで塗り潰そうとしていたが・・・
右耳の奥が、熱くうごめいている。
会社の個室トイレで触れた、あの「歯」の硬質で冷たい感触。そして耳裏の孔から漏れ出ていた、腐敗した果実のような息吐き。洗面所で手を洗うフリをしながら、亮平は手鏡を耳元にかざした。
鏡の中の右耳は、一見すると何も変わっていないように見えた。しかし、耳穴の暗がりの中に指を滑らせると、指先にカチリと硬い爪のようなものが触れる。乳歯だ。確かにそこにある。そして耳裏の皮膚は、汗とは明らかに異なる粘着質の体液でじっとりと湿っていた。
狂気が、自分の肉体の内側でじわじわと根を広げている。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背筋を伝い落ちる。喉が異様に乾き、胃の底から酸っぱい吐き気がこみ上げてくる。病院へ行くべきか。いや、こんなものを医師に見せてどうなる。「耳の中に小さな子供の歯が生えてきました」などと説明して、精神科に隔離されるのがオチではないか。
(俺は狂っている。あるいは、恐ろしい病気に侵されている……)
恐怖と混乱に脳を掻き乱されながら、洗面所で手を洗い、リビングへと向かう。
そこに、彼女・・がいた。
明るい暖色系の照明に照らされた部屋の中央で、7歳の義理の娘・七海がソファーの上で膝を抱えて絵本を読んでいた。
亮平の高校時代のひとつ上の先輩――あの7年前に謎の変死を遂げた男と、恵美との間に生まれた娘。
「あ、おとうさん!」
七海がパッと顔を輝かせ、ソファーから滑り降りるようにして駆け寄ってくる。
(――ああ、ダメだ……)
七海の声は、鈴を転がすように可憐だった。小さな唇、ふっくらとした頬、透き通るような白い肌。薄桃色のワンピースから伸びる、折れてしまいそうなほど華奢な手足。駆け寄ってきた弾みに揺れる小ぶりな肩と、幼い首筋のうなじ。
七海は可憐で、無垢で、亮平の胸の奥で、どろりとした歪んだ感情が鎌首を持ち上げた。
病的なまでの執着。背徳という名の蜜。
亮平は自分が異常であることを自覚している。いや、自覚せざるを得ないほど、その欲情は生々しく、同時に彼の自尊心を容赦なく苛んでいた。
自分は「お父さん」だ。この子の保護者であり、命を奪われた先輩の代わりにこの家庭を支える模範的な一家の主でなければならない。だが、目の前で無垢な笑顔を浮かべるこの7歳の幼女を見つめる時、亮平の瞳に宿るのは父親の慈愛などではない。
この幼く脆い肉体を、自分の手で汚したいという暗い欲望。
無垢な肌に自分の痕跡を刻みつけ、その幼い悲鳴や吐息を独占したいという、下劣で反社会的な飢餓感。
(ダメだ……考えたらダメだ。俺は父親だ。俺は、正気でなければならない……)
亮平は固く拳を握り締め、爪が掌に食い込むほどの強い痛みで自らの淫心いんしんを抑え込もうとした。
背徳感の苛烈さが、脳を焼き切るように熱い。
自分はなんて醜悪で、下等な人間なのだろうか。亡くなった先輩の妻を抱き、その先輩の血を引く幼い娘に対して、このような暗い情欲を燃やしている。右耳の奥で疼く「異物」は、この腐敗した己の精神に対する神の罰なのかもしれない。
亮平は膝をつき、「模範的な父親」の笑みを貼り付けて七海を受け止めた。
「ただいま、七海。良い子にしてたかい?」
「うん! あのね、おとうさん」
七海は亮平の首に小さな腕を回すと、体重をあずけるようにして身体を寄せてきた。幼い体温、ミルクのような甘い匂い。七海が亮平の膝の上にちょこんと跨がるように座り直した瞬間、彼女の小さな太ももが亮平の股間に微かに触れた。
亮平の脳内で、理性の糸がぶちりと音を立てて千切れそうになる。
七海の無自覚な(あるいはそう見える)愛らしい仕草――顔を覗き込むように首を傾げ、上目遣いに亮平の瞳を見つめ返す、その一挙一動。亮平の歪んだ脳内では、それがすべて自分の男根を誘惑する卑猥な手招きへと変換されていく。この幼い肌に自分の性器を押し付けたら、どんな声で鳴くだろうか。どのような悲鳴を上げるだろうか。
激しい背徳感と罪悪感が襲いかかるのと同時に、下腹部は抑えきれないほど硬く疼き始めた。
(俺は変態だ……実の娘のように育てるべき子に、こんな下劣な妄想を膨らませて……!)
自責の念に狂いそうになりながらも、亮平の視線は七海の可憐な唇から離れない。七海は亮平の葛藤など露知らず、無邪気な手つきで亮平の右耳にそっと小さな指先を這わせた。
「おとうさん……ここ、なんか赤くなってる」
冷ややかな、幼い指の感触。それが亮平の耳裏――あの粘つき始めた孔の周囲に触れた瞬間、亮平は背筋にゾクリとした快楽と恐怖の混ざり合った悪寒を覚えた。
「ちょっと痛むんだ。……仕事の疲れかな」
「ふーん……」
七海は亮平の右耳に顔を近づけ、甘い吐息を吹きかけるようにして耳元で囁いた。
「もっと大きくなるといいね」
「え……?」
「おとうさんの耳。大きくなったら、あたしの声、もっとよく聞こえるでしょ?」
七海はクスクスと可愛らしく笑うと、亮平の膝からぴょんと飛び降りた。
そのセリフが、単に自分の体調を気遣う幼子の無邪気な言葉なのか、それとも耳の異変に気づいた不吉な暗示なのか、亮平には判断がつかなかった。ただ、膝の上から去った七海の幼い余韻と、収まることのない自身の猛烈な性的興奮だけが残された。
七海という禁断の存在からは、決して欲望を満たすことはできない。手を伸ばせば、人間としてのすべてが崩壊してしまう。
(恵美……恵美だ……)
亮平は荒い息を吐きながら、キッチンで夕食の準備をする妻の背中に視線を向けた。
エプロンの紐で固く結ばれた細い腰、その下に広がる妖艶なヒップのライン。恵美は亮平の視線に気づいたように振り返り、すべてを察したかのような、濡れた淫らな微笑みを浮かべた。小指で唇をそっと撫でながら、亮平を誘うように視線を送ってくる。
七海によって極限まで高められた背徳的な欲望と、耳の変異への狂気的な恐怖。それらすべてを解放し、吐き出すための温かな受け皿として、亮平は今夜、妻の肉体を激しく貪ることを心の中で激しく誓っていた。




