第1話:個室の孵化
38歳の亮平は、個室トイレのプラスチック製ペーパーホルダーをぼんやりと見つめていた。
狭隘な空間を埋め尽くすのは、蛍光灯の微かなチチチというインバーター音と、階下から上がってくる配管の微かな水鳴りだけだ。便座の生温かい暖房機能が、亮平の太ももの裏側に不快な汗をかかせている。
会社のデスクを離れてから、すでに二十分が経過していた。
(また、眩暈か……)
亮平はネクタイを緩め、額を冷たい個室の壁に押し当てた。営業三課のデスクでパソコンのモニターを睨みつけていたとき、突如として耳の奥で弾けたあの音。
――ピチャリ。
粘着質の水滴が、暗い洞窟の天井から落ちたような小さな音だった。それ以来、右耳の奥が激しく不快に脈打っている。まるで見えない虫が鼓膜の表面にへばりつき、脚を擦り合わせているかのような、カサついた蠢動。
「くそっ……」
指先で右の耳穴をほじくろうとして、亮平は指を止めた。
感触がおかしい。
指の腹が触れたのは、通常あるべき柔らかい耳孔の皮膚や、乾燥した耳垢のざらつきではなかった。
ぬらりとした、温かい粘液。そして――硬い何か。
指先をさらに奥へ押し込もうとした瞬間、ガチリ、と小さな金属的な硬い音が脳髄に響いた。
「なんだ、これ……」
亮平はポケットからスマートフォンを取り出し、画面の灯りを頼りに指先を改めた。人差し指の腹には、糸を引く唾液に酷似した透明な粘液がべったりと付着している。それだけではない。粘液の中に、ごく微細な白い粉末状のものが混ざっていた。爪で拾い上げると、それはエナメル質の光沢を帯びた、小さな、あまりにも小さな――人の歯の破片のように見えた。
心臓が跳ね上がった。
日常の隙間から解けていく底なしの恐怖。世界の整合性が「ミチリ」と音を立てて歪んでいく不吉な感覚が、いま亮平の脳の芯を冷たく刺した。
亮平は慌ててズボンを上げ、個室の鍵を解錠した。
ガチャンと無機質な音が手洗場に響く。平日の午後三時、会社の洗面所には誰もいない。蛍光灯の白い光が、ステンレスのシンクと鏡を無機質に照らしている。
鏡の前に立ち、亮平は右の耳たぶを強く引っ張り上げた。頭を右に傾け、スマートフォンのライトを耳孔に照射する。
鏡越しに覗き込んだその闇の奥。
通常であれば鼓膜へと続く暗い産道のような穴の奥深くに、それ(・・)はあった。
赤く充血した肉の壁を押し広げるようにして、白い何かが顔を出している。
乳歯だ。
それも、大人のものではない。生まれたばかりの赤ん坊の、あるいは幼い子供の、小さく丸みを帯びた下顎の前歯――それが、鼓膜の手前、耳孔の軟骨を突き破るようにして、ちょこんと生えていた。
「ひっ……!」
亮平は喉の奥で短い悲鳴を上げ、後ずさりした。背中が小便器の仕切り板に激突する。
あり得ない。人体の構造として、耳の中に歯が生えるなどということがあってたまるか。畸形腫か? いや、テラトーマだとしても、こんな急激に、自分の耳の中で硬組織が皮膚を突き破って露出するはずがない。
亮平は狂ったように右手で右耳を覆った。
その時だ。
手のひらで耳を密着させたことで、骨伝導の音が脳内にクリアに響き渡った。
――すぅ……はぁ……。
息遣いだ。
耳の穴からではない。耳の「裏側」――耳根部の皮膚から、微かな空気が漏れ出る音が聞こえる。
亮平は震える指先で、右耳の裏側、後頭部と耳たぶが接するくぼみのあたりをなぞった。
粘つき。小さな穴。
一つではない。指の腹で探ると、ぽつぽつと、小さな円形のくぼみが無数に穿たれているのが分かった。まるで蓮のの実のように、あるいは皮膚に病的に開いた胞子嚢のように、無数の小さな「孔」が耳の裏の皮膚に集中している。
その一つ一つの孔から、生温かい息が漏れていた。
――すぅ……はぁ……。
甘い、腐敗した果実のような、同時に生まれたての赤ん坊の口臭のような不快な甘臭が、指先から立ち上る。
「亮平……?」
耳孔の奥から、音が聞こえた。
歯が生えたその深淵から、空気の振動となって響いてきたのは、掠れた、しかし聞き覚えのある男の声だった。
高校時代、バレーボール部でひとつ上の先輩だった――そして七年前に謎の発狂死を遂げた、あの男の声。
『――お前の耳、いい音がするよ。恵美も……七海も……お前を待ってる……』
「うわあああああっ!」
亮平は洗面所で狂ったように頭を振り乱した。
鏡に映る自分の顔は、恐怖で土気色に変わっていた。右耳の裏からは、無数の小さな孔から透明な粘液がじわりと滲み出し、首筋へと垂れ落ちている。
耳の奥の歯が、カチリと音を立てて、小さく噛み合わさった。
日常という名の薄皮が破れ、その裏側に隠されていたドロドロとした怪異と狂気の淵が、いま、亮平の右耳を開かしめて彼を覗き込んでいた。




