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別れの支度が整い、馬車の前に立った時だった。
私は懐から、手のひらに収まるほどの大きさの布袋を取り出した。
「エリシア王女」
呼びかけると、王女は振り返る。いつも通り、整った表情をしていた。
私はそれを差し出した。
「道中、馬車酔いの軽減に使えます」
王女の視線が、袋へと落ちる。
布越しに、かすかに香りが漂った。
「……匂い袋、ですか」
「ええ。ミントとローズマリーを詰めています」
簡潔に説明する。
「長旅になるでしょう。気休め程度ですが」
一瞬の間の後、王女はそれを受け取った。指先が、ほんのわずかに触れる。
「……ありがとうございます」
静かな声だった。
私は、特に表情を変えずに続ける。
「不要であれば、誰かに譲っていただいて構いません」
その言葉に、王女の指がわずかに止まった。
「……そう、ですか」
短く返す。
それ以上は、何も言わなかった。
馬車の扉が閉じられ、車輪がゆっくりと動き出した。
馬車の中。
揺れは穏やかだが一定の振動が続き、窓の外には見慣れぬ景色が流れていく。
エリシア王女は、手の中のそれを見つめていた。小さな布袋。結び目は丁寧で、余計な装飾はない。
「……」
指先で、そっと撫でる。
清涼なミントと、落ち着いた薬草の匂いがかすかに香りが立つ。
自然と、それを鼻先へと近づけた。
――落ち着く。
思考が、少しだけ静まる。
「……気遣い、よね」
小さく、呟く。長旅を思っての贈り物、それは理解できる。
「……それだけ?」
撫でていた指先が、わずかに止まる。
香りは、離れていても、思い出すためのもの。贈り物としての意味も、知らないわけではない。
「……まさか」
一度、首を振る。
「いえ……そんなはずは……」
しかし、否定しきれない。あの時の言い方。
「不要なら、誰かに上げても構いません」
あまりにも、そっけない。
「……だからこそ?」
ぽつりと、漏れる。
――試されている?
そこまで考えて、はっとする。
「……何を考えているの、私は」
自分で自分に呆れたように、小さく息を吐く。それでも、袋は手放さない。指先で転がし、また香りを確かめる。
「……違う、わよね」
頬に、わずかに熱が差す。
小さく呟くが、その声に自信はない。
次の瞬間表情を引き締め、いつもの王女の顔へと戻す。けれど、視線がまた袋へと落ちる。
ほんのわずかに、口元が緩み、次の瞬間には、困ったように眉が寄る。
――緩む、戸惑う、否定する。
そのすべてが、短い間に繰り返される。
まるで、感情が追いついていないように。
「……」
再び香りを吸い込む。今度は、少し長く。
指は決して袋を、離そうとしなかった。
その様子を、向かいに座る侍女は見ていた。
視線は外に向けたまま。
だが、すべては視界の端に入っている。
――分かりやすい。
内心で、静かに思う。
何も気づいていないふりをしながら、王女の“百面相”を、きちんと見届けていた。
袋を見つめる時の、わずかな柔らかさ、否定する時の、曖昧な揺れ。そして何より――手放さないこと。
「……」
侍女は、ほんのわずかに視線を落とした。
しっかりと、見えているが、それを指摘することはしない。
ただ静かに、何事もない顔で座っている。
それが、自分の役目だからだ。しかし。
口元が緩みかけるのを、かろうじて押さえる。
……本当に、もう。
小さく息を整え、何事もない顔を再び保った。
馬車は、一定の速度で進み続けていた。
車輪の音が、単調に響く。
エリシア王女は、膝の上に置いた匂い袋を、そっと見下ろした。
思考が、ゆっくりと整理されていく。
けしの栽培、阿片の安定供給、そして麻酔技術の導入。どれも軽いものではない、一つでも国を揺るがすほどの価値を持つ。
「……大きいわね」
小さく、呟く。
これは単なる交易ではない、国と国とを結ぶ、長い関係になる。
「……気を引き締めなくては」
静かに言い、視線を上げる。馬車の外の景色が流れていく。そのまま、思考を一段、深く沈める。
……この話は、通る。父である国王は、必ずこの提案を受け入れる。南方の資源を活かし、医療技術という見返りを得る。条件は管理付きとはいえ、拒む理由がない。
むしろ問題は、その先だ。
「……わたくしが、担うことになるわね」
小さく、呟く。
交渉の継続。供給の調整。技術導入の監督。
段階的な交換である以上、一度で終わる話ではない。
――つまり。
「……関わり続ける、ということ」
指先に、またわずかに力がこもる。
責務としては当然。むしろ望むべき形だ。
それでも。
「……どうしましょう」
かすかに、声が揺れる。
そっと、袋を持ち上げる。
香りをもう一度だけ確かめ、そのまま目を閉じた。
馬車は進み、距離は確かに離れていく。
それでも、香りだけは、手の中に残っていた。




