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そして現在。
青い炎は、音もなく消えた。
残されたのは、わずかな灰と、鼻に残る独特の匂いだけだった。
夜の空気が戻ってくる。だが、先ほどまでそこにあったものは、確かに現実だった。
私は視線を上げ、静かに声をかけた。
「エリシア王女」
王女が、ゆっくりとこちらを向く。瞳の奥に残るのは、驚きではなく思考だ。
「少し、お時間をいただけますか」
「……構いません」
私はわずかに頷いた。
「では、場所を移しましょう」
中庭を離れ、灯りの落ち着いた室内へと移る。扉が閉まると、外の気配が遮断された。
残るのは、静かな空間と、互いの呼吸だけだった。
私は、椅子に腰を下ろし、間を置かずに口を開いた。
「単刀直入に言います。阿片が足りません」
エリシア王女は、わずかに目を細めた。
驚きはない。すでに察していた顔だ。
「需要が増えすぎた、ということですか」
「はい。痛みを抑える手段として、使い道が広がりすぎました」
短く答える。
「こちらでも採取はしています。しかし、質も量も安定していません。南で採れるものが良質だと、修道士たちは言っているのですが」
その言葉に、エリシア王女の指先がわずかに動いた。
……やはり、心当たりがある。
私は続ける。
「貴国は、南に属国を持ってますよね」
沈黙。否定は、ない。
「安定供給が可能だと見てます」
エリシア王女は、静かに息を吐いた。
「……確かに、可能性はあります。しかし、それをなぜ我が国が担う必要があるのでしょう」
当然の問いだ。私は、わずかに口元を緩めた。
「対価は出します」
「金で、ですか?」
「それもありますが、本命は別です」
エリシア王女の視線が、まっすぐにこちらを捉える。
私は、わずかに間を置いてから言った。
「――先ほどお見せしたもの」
王女の瞳が、かすかに揺れる。
「硫黄による炎。あれは、特別な奇跡ではありません。条件を揃えれば、誰でも再現できる現象です」
静かに続ける。
「私はああしたものを、ひとまとめに“技術”と呼んでいます」
空気が、わずかに張り詰める。
「そして私は、貴国の名誉伯として、その一部を提供する用意があります」
王女の呼吸が、ほんのわずかに深くなった。
「技術提供に含むものは、あの火のような手妻に限りません」
そこで、言葉を落とす。
「――麻酔の研究成果を、お渡しします」
空気が、わずかに変わる。王女の呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……」
彼女はすぐに平静を取り戻したが、その目の奥にあるものは隠しきれていない。
「興味をお持ちでしたか」
「ええ。あれは、国を変えうる技術です」
私は頷いた。
「そうですね。しかし、そのまま渡すつもりはありません」
……当然だ。エリシア王女も、動じない。
「条件、ということですね」
「はい」
私は、机の上にもう一枚の書面を置いた。
「使用の管理です」
彼女の視線が落ちる。そこに記されているのは、規定。
「けしの実の使用は、許可制とします」
静かに告げる。
「医師、あるいは認可された者のみが扱います。量、用途、すべて記録させます。……無制限に広げれば、いずれ歪むでしょう」
依存、乱用、そして崩壊。そこまでは言わないが、意味は十分に伝わる。
「貴国に供給する場合も、同様です」
エリシア王女は、書面を見つめたまま言った。
「……厳しいですね」
「必要な制限です」
沈黙が落ち、やがて王女はゆっくりと顔を上げた。
「ですが、そのような規制を敷いたとしても――」
わずかに、言葉を選ぶ。
「教会が異を唱える可能性があります」
私は、即座に答えた。
「問題ありません」
そして、もう一つの書面を差し出す。
封蝋の刻印。教会のものだ。
「……すでに許可は得てます」
エリシア王女の目が、大きく見開かれた。
「これは――」
「使用管理についても、承認済みです」
淡々と続ける。
「医療目的に限ること。記録を残すこと。逸脱しないこと、その範囲であれば、教会は口を出しません」
重みを持った沈黙の後、エリシア王女はゆっくりと息を吐いた。
「……準備が、整っているのですね」
「交渉は、準備してからするものでしょう」
そう言うと、エリシア王女はわずかに苦笑した。
「ええ……その通りです」
そして、視線を落とし、再び書面を見る。少ししてエリシア王女は、顔を上げた。
「条件は、理解いたしました」
静かに言う。
「南の属国との交渉も含め、我が国で責任を持って調整します。ただし、技術の提供は段階的にしていただけますか」
今度は、彼女が踏み込む番だった。
私は、わずかに目を細めた。
「ほう。一度にすべてではなく、確認と交換を重ねながら、と」
理にかなっている。一回の取引じゃなく長期契約に、ということか。
エリシア王女が、ほんのわずかに声を緩めた。
「……一度きりで終わる関係にはしたくありません」
私は答える。
「それはこちらも同じです。末永く、手を取り合える関係を望みます」
――意図は、国家間の話だ。しかし王女の頬に、ほんのわずかな色が差した。
「……ええ」
小さく。
視線が交わる。言葉は、それ以上いらなかった。エリシア王女は、静かに頷いた。
「これは、良い取引になりそうですね。ただし本件は、本国に持ち帰り、審議の上で正式に返答いたします」
わずかに声の調子を整えた。
王女としての、当然の手順だった。個人の判断で決められる範囲ではない。私は頷く。
「構いません。期待してます、エリシア王女」
その言葉に、彼女はほんのわずかに口角を上げた。
「ええ。お応えできるよう、尽力します」
その声は、先ほどよりも柔らかかった。




