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王宮の謁見の間は、重く静まり返っていた。
高い天井、長く伸びる影。玉座に座す王は、ゆっくりと視線を落とした。
その前に、エリシア王女が立っている。旅の疲れは見せず、背筋は伸び声も揺らがない。
「……以上が、現地での視察と交渉の報告でございます」
静かな声が、広間に落ちた。しばしの沈黙の後、王が口を開く。
「……麻酔、と言ったか。痛みを、消す術……」
低く、押し殺したような声の言葉の端に、明確な不快が滲む。
「痛みは、神が人に与えた試練である」
玉座の肘掛けを、指がわずかに叩く。
「それを薬で消すなど……神への冒涜に等しい」
視線が、鋭くなる。広間の空気が、張り詰めたが、エリシア王女は目を逸らさない。
「……さらに、けしの実、いや、阿片と言ったな」
吐き捨てるように。
「それを、我が国が?」
その視線は、もはや娘を見るものではない。
“判断する王”の目だった。
「父上」
エリシア王女が、一歩だけ踏み出す。
「これは、毒ではありません」
はっきりと言い切る。
「用い方を誤れば害になります。しかし、正しく使えば――戦場で苦しむ兵を救い、病床で呻く者の痛みを和らげることができます」
王の眉が、わずかに動く。エリシア王女は続けた。
「実際に、私は見ました。切断の術において、叫びもなく、暴れもせず、ただ静かに処置が行われる光景を」
声に、わずかな熱が宿る。
家臣たちが、わずかにざわめいた。
「……そんなことが」
誰かの、かすかな呟き。王は、沈黙したまま娘を見つめている。エリシア王女は、さらに一歩踏み込んだ。
「父上、この術があれば、多くの命を救えます」
その声は、今度はわずかに揺れた。
「どうか――お認めください」
言葉が、詰まる。それでも、絞り出すように続けた。
長い、長い間の沈黙。やがて、王はゆっくりと口を開いた。
「……教会は」
短い問いにエリシア王女はすぐに答えた。
「承認を得ております」
用意していた書面を、差し出す。
王の目がそれを捉え、手に取り確かめる。大きく目を見開き、そして――止まった。
「……」
沈黙の質が、変わる。先ほどまでの拒絶ではなく、計算と判断。
「神の代理人が……認めた、か」
低く、呟く。
視線が、ゆっくりと上がる。そこにあったのは、先ほどとは別の光だった。
「……ならば、話は違う」
わずかに、口元が歪む。
「これを見逃せば、他国に先を越される。痛みを制する者は、人を制する」
重く、確かな声。王は立ち上がった。
「エリシア」
名を呼ぶ。その声音は、先ほどとはまるで違う。
「よくぞ、持ち帰った」
一歩、歩み寄り、娘を力強く抱き寄せた。
「我が誇りよ」
エリシア王女の目が、わずかに見開かれる。王はすぐに離れ、振り返った。
「書面を見せよ」
手を差し出す。エリシア王女は、静かに条約案を渡した。王はそれに一行、また一行と目を通す。やがて、口を開いた。
「……良い。だが、条件がある」
視線が鋭くなる。
「阿片の輸入は、王家の管理とする。分配権も、すべて我が手に置く」
重く、断定する。家臣たちが息を呑むが、誰も異を唱えない。王は、書面を閉じた。
再び、エリシア王女を見る。その目には、もはや疑いはない。
「……この交渉をまとめ上げたのだな」
エリシア王女は、静かに頷いた。
「はい」
短い返答。
王は、ゆっくりと息を吐いた。
「……見事だ」
その言葉は、重かった。
「これは――、この国の未来を動かす話だ」
広間に、静かなざわめきが広がる。
エリシア王女は、頭を下げた。だが、その指先は、わずかに震えていた。
それが――安堵か、重責か、あるいはその両方かは、まだ分からなかった。
その様子を、王は黙って見ていた。
広間のざわめきが、遠くなる。
……本来は。ただの視察のはずだった。
レオンハルト殿下の医学大学。その実情を見てこいと、そう命じただけのこと。
「……取引、か」
ごく小さく、誰にも聞こえぬ声で呟く。ここまでのものを、持ち帰るとは思っていなかった。阿片の供給、麻酔の技術、どちらも一国の力を左右する。
「……娘一人の力ではあるまい」
静かに思う。背後にいるレオンハルト殿下、あれが、動かしたのだろう。しかし、それをまとめ上げて持ち帰ったのは。
「……エリシア、か」
視線が、わずかに細まる。評価を引き上げざるを得ない。
「この娘は……」
言葉を、内で探す。
政治的才覚、交渉力、そして胆力、どれも王族としては十分すぎる。
「……もはや一王女では収まらぬな」
いずれ、否応なく。それだけでは足りない。
教会が認めた術を持ち帰り、国を利するというその在り方。
「神の使い、とでも映るか」
皮肉ではない。現実として、民も貴族もそう扱うだろう。
「……厄介だな」
小さく、息を吐く。
力を持ちすぎる娘は、時に危うい。しかし、同時にこれほど有用な駒もない。
「……婚姻相手は」
思考が、自然とそこへ向かう。
この娘に並ぶ者、あるいは抑えられる者。
「並の相手では、務まらぬな」
むしろ、飲み込まれる。それほどの器になりつつある。
レオンハルト殿下の名が、静かに浮かぶ。
この交渉、構想、条件、教会の承認、いずれも一領主の手に余る。だが、不可能ではない。
「……成したか」
評価は、冷静だった。才覚がある、それもただ優れているだけではない。
先を読み、準備を整え、相手に“選ばせる形”で縛る。
「厄介な男だが……やはり欲しいな」
その言葉は、あまりにも自然に零れた。
あれが自国にあれば。医療、軍、交易、すべてにおいて優位に立てる。
「取り込めるか」
わずかに、指が肘掛けを叩く。
方法は、いくつもある。恩、契約、あるいは……視線が、エリシアへと戻る。
「……婚姻」
静かな思考。娘と結ぶことで縛るのは、最も確実で、最も強い形なのだが。王は、わずかに目を細めた。
「……従う男か?」
否。あの手の人間は、容易には膝を折らない。縛れば、逃げ、押さえれば、牙を剥く。
「ならば」
思考が、さらに深く沈む。
縛るのではなく、“選ばせる”。この国を選ぶように、利益も、価値も、環境も整える。
「……引き寄せるか」
王は、ゆっくりと息を吐いた。
視線の先で、エリシアが顔を上げる。
「……面白い」
ごくわずかに、口元が歪む。
娘も、男も、どちらも予想を越えてきた。
「退屈はせぬな」
王の目には、すでに次の盤面が映っていた。




