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朝の光は、柔らかかった。
温泉の館の一室。窓から差し込む光が、静かに室内を満たしている。侍女は、王女の身支度を整えながら、ふと手を止めた。
昨夜のことを、思い返す。王女が選んだ薬草水。あの時ほんのわずかに表情が緩んだのを、見逃してはいない。
櫛を通す手を静かに動かすと、香りが残っている。
その日の朝。
レオンハルト殿下の前に立った王女は、いつも通りだった。背筋は伸び声も揺るがず、視線も正しく保たれている。けれど、ほんのわずか。本当に、わずかな違い。
言葉の間が半拍ずれ、視線がほんの一瞬だけ遅れる。気づかぬ者も多いだろう。だが侍女には、見えていた。
殿下がわずかに身を寄せた時、エリシア王女の呼吸が止まった。次の瞬間、ほんのりと頬に色が差す。けれどそれはすぐに、何事もなかったように戻った。
侍女は、視線を落とした。理解したからこそ、何も言わない。
川沿いの散策も、そうだった。
穏やかな流れ、整えられた道。護衛は距離を保ち、視線は外さない。エリシア王女とレオンハルト殿下は、並んで歩いていた。
言葉は多くないが、空気は悪くなかった。
むしろ良い、そう思う程度には、自然だった。
エリシア王女も、わずかに柔らいでいた。
しかしあの女性たちを見てから、変わった。
遠くの木陰の年配の婦人と、若い娘。
殿下がそちらに目を向け、指示を出した、その後。
「……」
王女は、何も言わず、静かに前を向いていた。
侍女は見ていた。エリシア王女の呼吸の浅さ、指先のわずかな強ばり。そして何より、
「……リディア」
あの小さな声。聞こえたのは、侍女だけだっただろう。それで、十分だった。
侍女は、内心で小さく息を吐く。
王女は強い。立場を理解し、振る舞いを崩さない。だからこそ、誰にも見せない分だけ、内に溜まる。
侍女は、何も言わない。
言うべきではないと、知っているから。
ただ隣にいる、それが、自分の役目だ。
——だが、それだけでは足りない。
王女は、言うべきではない。尋ねることもできない。ならばその代わりに、問う口となり、聞く耳となるのは誰か。
それもまた、侍女の務めだった。
侍女は、速やかに動いた。
機を見て、静かに距離を詰める。
護衛の配置、視線の流れ、その隙間。やがて、レオンハルト殿下の側近――マルクの近くへと至る。
「……少し、お伺いしてもよろしいでしょうか」
声は低く、周囲に紛れる程度に。マルクが、わずかに視線を向けた。
「何でしょう」
短い返答は、無駄がない。
侍女は一瞬だけ間を置き、言葉を選ぶ。
「先ほどお見かけした……リディアという女性についてです」
マルクの目が、わずかに細まる。
「隣接する領地の次期領主です」
簡潔な説明。それ以上は語らない、という線引き。
「……関係は」
さらに一歩だけ。マルクは、ほんのわずかに間を置いた。
「農産物等の取引がございます」
それで終わりだった。付け足しも含みもなく、ただ事実だけ。
侍女はそこで引かず、しかし踏み込みすぎぬよう言葉を選ぶ。
「……失礼ですが」
ごく小さく、声を落とす。
「ご縁談などの、お話は」
空気が、わずかに止まる。マルクは表情を変えなかった。
「……ございません」
短く、はっきりとした返答。
侍女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
それ以上は問わない。必要な分だけ得た。
その夜。
侍女は、静かに報告した。
エリシア王女は、灯りの下でそれを聞いている。
「……先ほどの女性ですが」
言葉を選びながら、続ける。
「隣の領地の次期領主とのことです。農産物等の取引があるのみ、そのように伺いました」
王女は、すぐには答えなかった。やがて、ゆっくりと口を開く。
「……それだけ?」
「はい。特別な関係ではないと」
短く、正確に。エリシア王女は、わずかに視線を落とした。
「……でも、隣の領地なのでしょう」
侍女は答えない。事実は先ほど伝えた通りだ。王女は、さらに静かに続けた。
「隣の領地なら、さぞかし交流もあることなのでしょうね」
声音は穏やかだったが、どこか乾いている。
侍女は、やはり何も言わない。
王女は、わずかに視線を横へ流した。
「……おそらく、頼り頼られる関係だわ」
淡々とした言葉だが、その最後にほんのわずかな力がこもる。
「次期領主なら、この先も」
小さく付け足された一言。その瞬間、声にごく薄い棘が混じった。
――苛立ち。
それは一瞬で消えたが、確かにそこにあった。やがて王女は、ふっと息を吐く。
「それだけ、ね」
わずかに、苦みを含んだ微笑み。だが、それ以上は何も言わなかった。
侍女は、静かに頭を下げる。
エリシア王女は理解している。それでも割り切れない。そのことも含めて、何も言わず、ただ傍に控えた。
……何か王女ご自身が関わるべききっかけがあれば、きっと、良い方向へ向かわれる。
そう信じるように思いながら、侍女は静かにその場に在り続けた。




