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視察が続いていた。
大学、講義室、過去の成果、必要な確認とはいえ動きは途切れない。私は一度、足を止めた。
「……少し外へ出るか」
マルクがわずかに視線を上げる。
「護衛を手配いたします」
「任せる」
短く答え、私は振り返った。
「エリシア王女」
呼びかけると、エリシア王女は静かに顔を上げた。その表情はいつも通り落ち着いているが、わずかに疲労の影が見える。
「この先に川があります。整備はまだ途中ですが、歩ける程度にはなってます。散策でもどうでしょう」
エリシア王女は、ほんのわずかに目を瞬かせた。予想していなかった、という表情。
「……それは、必要なことなのですか?」
慎重な声音だった。私は肩の力を抜いたまま答えた。
「単なる気分転換ですよ。身体も固まるでしょう?」
視線を軽く流す。
エリシア王女は、すぐには答えなかった。その間に、いくつもの思考が巡っているのが分かる。やがて、ほんのわずかに息を吐いた。
「……そうですね。では、お言葉に甘えましょう」
声音は、ほんの少しだけ柔らかかった。
外へ出ると、すでに護衛が配置されていた。
前後に数名。間隔を取り、視線を周囲へ配る。王族の外出だ。目立たず、しかし隙はない。
川沿いの道は、新しく踏み固められた土に、ところどころ石が敷かれていた。水の音が、静かに流れている。
エリシア王女は、歩きながら周囲を見ていた。視察の時とは違う、少し緩んだ視線。
「……静かな場所ね」
「今だけです。整備中ですから」
エリシアは、わずかに微笑んだ。
「贅沢な時間、ということ?」
「そうですね」
しばらく言葉は続かなかった。水の音と、足音だけが重なる。エリシア王女は、何かを言いかけて、やめた。
やがて、彼女は小さく口を開く。
「……こういう時間は、慣れてません」
視線は前に向けたまま。
私は答えた。
「悪くないでしょう?」
エリシアは、一瞬だけこちらを見た。
それから、ふっと視線を外す。
「……そうですね」
その声には、わずかな笑みが混じっていた。
川面が光を反射する。風が、ほんの少しだけ強くなった。
川沿いの道を進む中、ふと視線の先に人影が見えた。少し離れた場所で木陰に寄るようにして、二人の貴族女性と供がいた。
「……」
足を止める。年配の女性が腰を下ろし、休んでいるようだった。その傍らに立つ、若い娘。しかし動きがおかしい。
「……リディア嬢か」
小さく呟く。
気づいた瞬間、私はマルクに視線を送った。マルクは即座に一歩前へ出る。
「様子を伺ってまいります」
「頼む」
短く返すと、彼は迷いなく駆けた。その背を見送っていると隣から声が落ちた。
「……知り合いですか?」
エリシア王女だった。私は視線を戻さずに答える。
「ええ。若い女性は隣の領地の次期領主です。農産物など、いくつかこちらで購入しています」
エリシアは、わずかに頷いた。
「……そうですか」
その声は静かだったが、どこか硬い。やがて、マルクが戻ってくる。
「クロウフォード伯爵夫人とリディア様でした」
息も乱れていない。
「少し遠くまで歩き過ぎたようで、夫人が休まれております」
私は短く考えた。
「誰か、援助に回せ」
「は」
マルクが頷き、護衛の一人へと合図を送る。
すぐに数名が動き、静かに距離を詰めていった。視線を外し、私は歩みを再開する。
エリシア王女は、遠くの女性を見つめていた。
「……リディア」
かすかな声は小さくて風に紛れ、私は気づかなかった。エリシア王女はそれ以上何も言わずに、再び静かに前を向いた。
リディア視点
木陰に腰を下ろした母親は、ようやく落ち着いてきていた。リディアはその様子を見守りながら、静かに唇を結ぶ。
父親は一足先に領地へと戻っていた。
……お母様が「今日は歩けそう」て明るく言うから。今朝は顔色も良く、足取りも軽かったから。だから、少しくらい距離を伸ばしても大丈夫だと、そう思ってしまった。
「……無理を、させすぎたわ」
小さく吐き出す。どうして今日に限って年配の者ばかり、供にしてしまったのか。
いざという時に支えるには、心許ない布陣。
判断を誤った、その事実が胸を締めつける。
視線を落としたその時、ふと気配に気づいた。
遠い川沿いの道を、整った歩調で近づいてくる一団。
……あれは。
思わず、顔を上げる。中央にいる人影を認めた瞬間、呼吸が止まった。
「……レオンハルト殿下……」
無意識に、その名がこぼれる。そして、その隣に並ぶ人物。
「……エリシア王女……?」
胸の奥が、静かに揺れた。指先がわずかに震え、二人の距離と王女の姿が目に焼き付く。
王女が非常に美しい人と、はっきり理解した。やがて、こちらへ人が向かってくるのが見えた。
「……援助」
小さく息を吐く。何も言わずとも、状況を見て察したのだろう。胸の奥に、別の熱が灯る。
「……変わらない」
かすかに笑みが滲む。安堵と嬉しさ。視線をほんの一瞬だけ彼の方へ向け、すぐに逸らした。長く見てはいけないと、分かっているから。
「……心より、感謝します」
誰にともなく、しかし確かにその方向へ向けて言う。
揺れは、まだ消えていない。
けれどその揺れの中にあるものが、何であるかだけは、もう分かっていた。
――レオンハルト殿下。
その名が静かに重く沈む。そしてその隣に立つ存在、エリシア王女。
リディアは、わずかに目を伏せた。
先ほど一瞬だけ見た姿。整った所作、揺らがぬ気配、そして並び立つことに違和感のない距離。
「……お似合い、ですわね」
誰に聞かせるでもなく、かすかに呟く。
領主として、理解している。あの方には、あの王女が相応しい。立場も、力も、背負うものも、すべてが釣り合っている。
それが正しいと、分かっている。
「……でも」
言葉が、続かない。
喉の奥で、何かが引っかかる。
指先が、わずかに強く握られた。
「……それでも……」
ほんの小さく、首を振る。認めたくない、という感情が、確かにそこにあった。
理屈ではなく、ただ、感情として。
「……嫌、ですわね」
かすかな苦笑が、唇に浮かぶ。自分でも幼いと思う、けれど、それでも。
視線を上げる。
遠ざかっていく二人の背。その距離は、もう交わらないもののように見えた。
胸の奥が、静かに痛む。
けれど、リディアはゆっくりと息を整えた。
「……今は」
小さく、言い聞かせるように。
「母を、優先しなければ」
それが、自分の立場であり自分の役目。
揺れは消えないまま、それでもリディアは背筋を伸ばした。
その目は、もう前だけを見ていた。




