表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もし、社畜が異世界の第三王子に転生したら【連載版】  作者: りな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

94/98

94

夜は、静かだった。

昼間の喧騒が嘘のように、館の中は落ち着いている。灯された蝋燭の火が、壁に揺れる影を映していた。

エリシア王女は、ひとり椅子に腰掛け、静かに手を見つめていた。

――まだ、わずかに震えている。

「……」

あの光景が、脳裏に焼き付いて離れない。

腐敗した肉を断ち切る刃、 抑え込まれる身、そして、悲鳴が、なかった。

ぎゅっと指を握る。

「……あれが」

小さく、呟く。

「痛みの、ない処置……」

信じがたい光景だった。切断という行為そのものは、知っている。戦場では珍しくもない。だが、それは常に絶叫と混乱を伴うものと聞いていた。

あれは違った。確かに苦悶はあったが、痛みによる狂乱はなかった。

「……成り立っているのね」

ぽつりと、言葉が落ちる。

技術として。それが、どれほどの意味を持つか。

目を閉じると戦場が浮かぶ。負傷兵、矢傷、裂傷、潰れた四肢。治療より先に、痛みによって命を落とす者たち。

そして、王宮。

慢性的な痛みに苦しむ貴族。夜も眠れず、顔を歪める者たち。

……使える。

思考が、冷たく研ぎ澄まされていく。抜歯、

外科処置、戦場医療、あらゆる場面でこの技術は価値を持つ。

「……欲しい」

思わず、声が零れた。その言葉の重さに、自分でわずかに息を止める。


国のために。それは間違いないが、それだけではなかった。

ゆっくりと、目を開く。

昼間の光景が、別の形で思い浮かぶ。淡々と指示を出す彼の姿、無駄のない判断、揺るがぬ視線。胸の奥が、わずかに熱を帯びる。

「あなたは……」

そこまで言って言葉を切り、静かに首を振る。今は違う、感情で動く場ではない。これは交渉だ。

「……どうやって、引き出しましょう」

指先で、机を軽く叩く。

正面から求めても、与えられるとは思えない。むしろ、彼は簡単には渡さない。

価値を理解している。

……ならば。

対価、あるいは関係、もしくは……そこまで考えて、ふと手が止まる。

沈黙。そして、小さく息を吐いた。

「……難しいわね」

苦笑がわずかに滲む。王女としての立場、国の利益、そして個人的な感情。

それらが、綺麗に分かれてはくれない。視線が、卓上へと落ちる。

そこには、ペンダントがあった。己の瞳と同じ色の石のそれを、静かに握る。

「……でも」

ほんのわずかに、表情が柔らぐ。

「会いに来た意味は、あったわ」

それは、誰に聞かせるでもない言葉だった。

揺れる灯りの中で、エリシア王女はしばらく動かなかった。



ふと、髪に触れた。

指先に、わずかな香りが残る。

「……」

エリシア王女は、そのまま手を止めた。

――薬草の香り。

強すぎない。だが、確かに残っている。

あの湯殿の澄んだ湯を、思い出す。

整えられた石床、過剰な香で覆い隠すのではなく、清められた空気そのものが満ちていた場所。

……綺麗だった。

硫黄を含む湯の、かすかな匂い。本来であれば重く残るそれが、不思議と不快ではなかった。


湯に入る前、侍女がわずかに顔をしかめた。

「……殿下」

「どうしたの?」

「その……」

言いにくそうに、言葉を選ぶ。

「持参した石鹸ですが……」

エリシア王女は、思い当たるものがあった。香油を用い、丁寧に仕立てられた、王家御用達の品。

「ええ。それが?」

侍女は、恐る恐る言った。

「……温泉の匂いと、重なってしまいまして。正直に申し上げますと……あまり、良いとは……」

言葉を濁すが、意味は十分だった。

エリシア王女は、ゆっくりと息を吐いた。

……確かに、酷い。

香りが、喧嘩している。上質であっても、合わなければ崩れる。ふと、思い出す。

「……レオンハルト殿下が、薬草水を用意したと仰っていたわね」

侍女が顔を上げる。

「はい。湯上がりに使うためのものだと。しかし、庶民も使うものなのでしょう」

特別に高価なものではない。侍女は、ためらいがちに言う。

「あと、レオンハルト殿下ご自身も、お使いになるとか……」

そこまで聞いて、エリシア王女は動きを止めた。

「……え?」

小さく、声が漏れる。

……同じ、香り。

中世の宮廷において、香りはただの嗜みではない。誰と同じ香を纏うか……それは、目に見えぬ関係を示すものとされている。

血縁、主従、あるいは――ごく限られた、特別な結びつき。

意図せず重なることはあっても、自ら選ぶことは、ほとんどない。

エリシア王女の指先が、わずかに止まる。

「……」

沈黙。侍女が、様子を窺う。

「殿下?」

エリシア王女は、ゆっくりと顔を上げた。

「……いくつ、種類があるのかしら」

侍女が、すぐに答える。

「数種類ご用意されていると伺っております。香りや効能で、お選びいただけるようにと」

「そう」

短く返し、視線を落とす。長くはない沈黙の中で、いくつもの考えが巡る。実用性、合理性、そして同じ、香り。指先が、わずかに強くなる。

「……一つ、試してみましょう」

侍女が、わずかに目を見開いた。

「よろしいのですか?」

「ええ。研究の一環よ」

迷いは、もうなかった。

侍女は、何も言わずに頭を下げた。

やがて、いくつかの薬草水が運ばれてくる。

ラベンダー、ローズマリー、セージ。

それぞれ、香りが違う。エリシア王女は、一つずつ手に取り確かめ、最後に一つで手が止まった。

「……こちらを」

静かに言う。侍女が頷く。

エリシア王女は、その薬草水を見つめたまま、しばらく動かなかった。




侍女は、静かにその様子を見ていた。

香りを一つひとつ確かめる王女の横顔は、いつになく真剣だった。そして選び取ったその瞬間、ほんのわずかに、表情が緩む。

まるで、花がひらくように。

「……こちらを」

何事もなかったかのように告げる声は、いつも通り落ち着いている。

侍女は、その微かな変化を、何も言わず胸の内に収め、ただ静かに頭を下げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
…医官を目指す訳でも無いのに、【手術室】で見学……並大抵の精神力ではありませんね、エリシア王女様。 さて…君の言う【色恋沙汰】にはならないと思うが。byマルク 吟遊詩人「……だからってまた牢屋です…
なんかマクロス始まったな…w
次の次あたりでご令嬢が出てきて、ライバル?を見て、二人の女性の仄かな恋心がそれぞれの胸のうちに明確なものとなって…とか期待しちゃう
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ