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夜は、静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、館の中は落ち着いている。灯された蝋燭の火が、壁に揺れる影を映していた。
エリシア王女は、ひとり椅子に腰掛け、静かに手を見つめていた。
――まだ、わずかに震えている。
「……」
あの光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
腐敗した肉を断ち切る刃、 抑え込まれる身、そして、悲鳴が、なかった。
ぎゅっと指を握る。
「……あれが」
小さく、呟く。
「痛みの、ない処置……」
信じがたい光景だった。切断という行為そのものは、知っている。戦場では珍しくもない。だが、それは常に絶叫と混乱を伴うものと聞いていた。
あれは違った。確かに苦悶はあったが、痛みによる狂乱はなかった。
「……成り立っているのね」
ぽつりと、言葉が落ちる。
技術として。それが、どれほどの意味を持つか。
目を閉じると戦場が浮かぶ。負傷兵、矢傷、裂傷、潰れた四肢。治療より先に、痛みによって命を落とす者たち。
そして、王宮。
慢性的な痛みに苦しむ貴族。夜も眠れず、顔を歪める者たち。
……使える。
思考が、冷たく研ぎ澄まされていく。抜歯、
外科処置、戦場医療、あらゆる場面でこの技術は価値を持つ。
「……欲しい」
思わず、声が零れた。その言葉の重さに、自分でわずかに息を止める。
国のために。それは間違いないが、それだけではなかった。
ゆっくりと、目を開く。
昼間の光景が、別の形で思い浮かぶ。淡々と指示を出す彼の姿、無駄のない判断、揺るがぬ視線。胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
「あなたは……」
そこまで言って言葉を切り、静かに首を振る。今は違う、感情で動く場ではない。これは交渉だ。
「……どうやって、引き出しましょう」
指先で、机を軽く叩く。
正面から求めても、与えられるとは思えない。むしろ、彼は簡単には渡さない。
価値を理解している。
……ならば。
対価、あるいは関係、もしくは……そこまで考えて、ふと手が止まる。
沈黙。そして、小さく息を吐いた。
「……難しいわね」
苦笑がわずかに滲む。王女としての立場、国の利益、そして個人的な感情。
それらが、綺麗に分かれてはくれない。視線が、卓上へと落ちる。
そこには、ペンダントがあった。己の瞳と同じ色の石のそれを、静かに握る。
「……でも」
ほんのわずかに、表情が柔らぐ。
「会いに来た意味は、あったわ」
それは、誰に聞かせるでもない言葉だった。
揺れる灯りの中で、エリシア王女はしばらく動かなかった。
ふと、髪に触れた。
指先に、わずかな香りが残る。
「……」
エリシア王女は、そのまま手を止めた。
――薬草の香り。
強すぎない。だが、確かに残っている。
あの湯殿の澄んだ湯を、思い出す。
整えられた石床、過剰な香で覆い隠すのではなく、清められた空気そのものが満ちていた場所。
……綺麗だった。
硫黄を含む湯の、かすかな匂い。本来であれば重く残るそれが、不思議と不快ではなかった。
湯に入る前、侍女がわずかに顔をしかめた。
「……殿下」
「どうしたの?」
「その……」
言いにくそうに、言葉を選ぶ。
「持参した石鹸ですが……」
エリシア王女は、思い当たるものがあった。香油を用い、丁寧に仕立てられた、王家御用達の品。
「ええ。それが?」
侍女は、恐る恐る言った。
「……温泉の匂いと、重なってしまいまして。正直に申し上げますと……あまり、良いとは……」
言葉を濁すが、意味は十分だった。
エリシア王女は、ゆっくりと息を吐いた。
……確かに、酷い。
香りが、喧嘩している。上質であっても、合わなければ崩れる。ふと、思い出す。
「……レオンハルト殿下が、薬草水を用意したと仰っていたわね」
侍女が顔を上げる。
「はい。湯上がりに使うためのものだと。しかし、庶民も使うものなのでしょう」
特別に高価なものではない。侍女は、ためらいがちに言う。
「あと、レオンハルト殿下ご自身も、お使いになるとか……」
そこまで聞いて、エリシア王女は動きを止めた。
「……え?」
小さく、声が漏れる。
……同じ、香り。
中世の宮廷において、香りはただの嗜みではない。誰と同じ香を纏うか……それは、目に見えぬ関係を示すものとされている。
血縁、主従、あるいは――ごく限られた、特別な結びつき。
意図せず重なることはあっても、自ら選ぶことは、ほとんどない。
エリシア王女の指先が、わずかに止まる。
「……」
沈黙。侍女が、様子を窺う。
「殿下?」
エリシア王女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……いくつ、種類があるのかしら」
侍女が、すぐに答える。
「数種類ご用意されていると伺っております。香りや効能で、お選びいただけるようにと」
「そう」
短く返し、視線を落とす。長くはない沈黙の中で、いくつもの考えが巡る。実用性、合理性、そして同じ、香り。指先が、わずかに強くなる。
「……一つ、試してみましょう」
侍女が、わずかに目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「ええ。研究の一環よ」
迷いは、もうなかった。
侍女は、何も言わずに頭を下げた。
やがて、いくつかの薬草水が運ばれてくる。
ラベンダー、ローズマリー、セージ。
それぞれ、香りが違う。エリシア王女は、一つずつ手に取り確かめ、最後に一つで手が止まった。
「……こちらを」
静かに言う。侍女が頷く。
エリシア王女は、その薬草水を見つめたまま、しばらく動かなかった。
侍女は、静かにその様子を見ていた。
香りを一つひとつ確かめる王女の横顔は、いつになく真剣だった。そして選び取ったその瞬間、ほんのわずかに、表情が緩む。
まるで、花がひらくように。
「……こちらを」
何事もなかったかのように告げる声は、いつも通り落ち着いている。
侍女は、その微かな変化を、何も言わず胸の内に収め、ただ静かに頭を下げた。




