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翌日エリシア王女は、静かに口を開いた。
「痛みのない手術を、拝見したく存じます」
私はわずかに視線を向けた。
「……あまり、気持ちの良いものではありません」
率直に告げる。見世物ではない、現実だ。
だが、王女は退かなかった。
「いいえ。実際に確かめることも、務めです」
迷いのない声だった。
一拍置き、私は頷く。
「……分かりました」
記録を確認させる。抜歯はしばらく予定がないが、代わりがあった。
「明日、下肢の切断が一件あります」
腐敗が進んだ足、放置すれば命に関わる。
王女は一瞬だけ沈黙したが、すぐに顔を上げる。
「……それで、構いません」
その言葉に、私は短く答えた。
「では、立ち会いを許可します」
翌日。
治療室はいつもよりも静かだった。石の床は洗い流され、余計な物はすべて退けられている。
窓は開け放たれ、空気を通す。机の上には、布で覆われた器具が整然と並んでいた。
患者はすでに横たえられている。
顔色は悪く、呼吸も浅い。足は膝下から黒ずみ、腐敗の臭いがわずかに漂っていた。
王女の足がわずかに止まるが、彼女は何も言わなかった。
医師は短く指示を出す。
「薬を」
用意されたものが差し出される。けしの実から得た抽出物を慎重に量を測り、飲ませる。
やがて患者の緊張がゆるみ、瞼が重く落ちていく。
「……反応は」
「鈍くなっています」
医師は頷いた。
「始める」
布が外され、瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。刃が入る。
それを、エリシアは“見た”。
人々の動きに迷いはない。すぐに助手が応じ、押さえ、次の器具が渡される。無駄な声もない。ただ、規則的なやり取りだけが続く。
やがて、低く乾いた音が室内に響いた。一定の間隔で、繰り返される音。やがて、その音も止んだ。
「洗浄」
医師の声が落ちる。
温められた湯が使われ、整えられていく。さらに、強い酒の香りが立ち上り、空気が変わる。
「縫合」
淡々とした声がし、過不足なくただ必要なだけ、閉じた。
「……以上です」
医師は短く告げた。
患者は、まだ浅い眠りの中にあった。痛みによる暴れも、叫びもなく静かだった。
沈黙が落ちる。
その中で、エリシア王女は立っていた。
顔色は青く指先がわずかに震えているが、最後まで視線を外さなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……これが、痛みを抑えた手術……」
私は答えなかった。ただ、現実を見せただけだ。王女は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて静かに言った。
「……見せていただき、感謝します」
手術が終わった後も、エリシア王女はその場から動かなかった。私は一歩だけ近づき、静かに声をかけた。
「エリシア王女、少しお休みになられた方が」
王女はすぐには答えなかった。そして、わずかに息を整え頷く。
「……そうさせていただきます」
その声は、かすかに掠れていた。私はマルクに視線を向ける。
「部屋を」
短く指示する。王女は侍女に付き添われ、その場を後にした。
用意された部屋の扉が閉まる。その瞬間、エリシア王女の足から力が抜けた。
「……っ」
声にならない息が漏れる。侍女が慌てて支えるが、それでも完全には立っていられない。
近くの椅子に、半ば崩れるように腰を落とす。
指先が強く握られていてほどけない。
「殿下……」
侍女が眉を寄せる。
「……あれが、救い……」
言葉が、続かない。
エリシア王女は呼吸が乱れたまま、俯いた。
その頃。
私は廊下を歩きながら、マルクに告げた。
「温かいものを用意しろ」
「……酒で?」
「いや」
短く否定する。
「胃に負担をかける。刺激の弱いもの……、鎮静の薬草を煮出し蜂蜜を落としたものを」
マルクが頷く。
「承知しました」
神経が疲れているはずだ。あの場を最後まで見たのだから。
やがて、部屋の扉が静かに叩かれた。侍女が受け取り、盆を運ぶ。湯気の立つ器から、淡い香りがほのかに広がる。
エリシア王女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう」
かすかに言い、器に手を伸ばす。
まだ、わずかに震えていて、両手で包むように持った。温かさが指先に伝わり、少しだけ呼吸が整い唇を寄せる。
ほんの一口。
柔らかな甘みが舌に広がり、蜂蜜の香りとほのかな薬草の苦みが静かに沁みていった。
「……」
そのままもう一口、その時ぽつりと一滴が落ちた。器の縁に、小さく波紋が広がる。
「……あ……」
エリシア王女の、僅かに驚いたような声。拭おうとした指先が止まる。
しばらくして、エリシア王女は深く息を吐いた。
扉が、静かに開いた。
先に侍女が一歩外へ出る。周囲を確かめ、わずかに身を引いた。続いてエリシア王女が姿を現す。先ほどまでの蒼白さはすでに薄れ、呼吸は整い背筋も伸びている。
――戻してきたな。
そう思わせるだけの落ち着きがあった。
それでも、完全ではない。視線の奥に残る、消えきらぬ影。けれど、それを表に出すことはない。
王女は歩み寄り、適切な距離で足を止めた。
わずかに顎を引く。
「先ほどはお心遣いをいただき、ありがとうございました」
声音は、いつも通り整っているが、ほんのわずかに、柔らかい。
私は短く応じた。
「当然のことをしたまでです」
視線を外さずに、続ける。
「……押し付けでは、ありませんでしたか」
必要以上に踏み込まぬよう、言葉を選ぶ。王女は一瞬だけ、目を伏せた。
そして、再び顔を上げる。
「いいえ。むしろ、救われました」
その言葉は、小さかった。だが、曖昧ではない。侍女がわずかに視線を落とした。
王女は続けた。
「拝見したものは、決して容易に受け止められるものではありません。それでも……目を逸らすべきではないと、理解いたしました」
一瞬だけ、間が落ちる。
「そのための助けをいただいたこと、深く感謝します」
丁寧に、一礼する。形式に則った動きだが、そこに込められたものは、形式だけではない。
私はそれを受け、わずかに頷いた。
「十分です」
それだけ告げる。
王女は、わずかに微笑んだ。
私は、その表情を見て、何も言わなかった。
……崩れてはいない。
あの場を見てなお、立ち直り、言葉を整え、礼を尽くす。
王女としての矜持が、確かに備わっている。
……楽なものでは、ないな。
あれほどのものを目にしてなお、崩れぬことを求められる立場。守るものでもあり、縛るものでもある。
私は視線を外した。それ以上は、踏み込まない。
「……次に進みますか」
ただ、それだけを告げた。




