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温泉地の入口に、長い列が現れた。
先頭には、紋章を掲げた騎馬の一団。陽光を受けて鎧が鈍く光り、その動きは乱れがない。
続くのは旗持ち、伝令、従者たち。整えられた隊列は、ただ進んでいるだけで一つの意思を感じさせる。
その後ろに、馬車が連なる。大きく、重厚な車体。飾りは過度ではないが、使われている木材も金具も、質の違いが遠目にも分かる。
護衛の騎士が左右を固め、さらにその外側を兵が囲む。
荷車もまた続いていた。衣装、食器、寝具、書物、薬品、一国の宮廷が、そのまま移動してきたかのようだった。
「……百は下らんな」
小さく呟く。
威圧ではない。だが、力は示している。これが大国の在り方か。やがて、一台の馬車がゆるやかに前へ出た。他よりもわずかに意匠が整えられているが、過度な装飾はない。
扉が開き従者が静かに一歩退く。エリシア王女が、姿を現した。
裾を引く衣は、落ち着いた色合いでありながら、光の加減で柔らかく揺れる。無駄のない装い。だが、その一つ一つが選び抜かれていることが分かる。
彼女は周囲を一瞥し、こちらへ歩み寄った。
歩幅は一定、視線はぶれず、しかし威圧もない。自然と人の目が集まる。
……なるほど。
私は一歩前に出た。距離を測り、止まる。
エリシア王女の瞳が、僅かに揺れた。王女らしい微笑みが、以前より少し柔らかい。
「この度は、我ら一行をお受け入れいただき、深く感謝します」
声音は静かで、よく通る。言葉の選び方、間の取り方、すべてが洗練されていた。
形式に則っているが、形だけではなく流れるようだった。
私は軽く頷き、応じる。
「遠路、ご足労いただきました。滞りなく迎えられたならば何よりです」
過不足のない言葉を返す。王女は微笑みを崩さず、そのまま続けた。
「この地の評は、すでに我が国にも届いてます。実際に拝見できること、光栄に存じます」
私は短く答えた。
「……見ていただければ、分かるでしょう」
わずかな間、互いに相手を見る。
王女は静かに一礼した。
「では、しばしの滞在、よろしくお願いしま
す」
「こちらこそ、お願いします」
その場にいた誰もが理解していた。これはただの来訪ではなく、互いにとって意味を持つ対面だと。
エリシア王女一行は、そのまま医学大学へと迎えられた。
正門の前には、すでに人が並んでいる。大学長を筆頭に、教授たち、聖職者、そしてこの地の有力者たち。衣はそれぞれ違う。だが、誰もが正装だった。
門が開かれ、ゆっくりと王女が進む。その足取りに合わせるように、列の中央が静かに開かれた。
大学長が一歩前に出る。年嵩の男だった。白髪交じりの髭を整え、深い色の外套を纏っている。その背は曲がっておらず、長く学を積み、積み上げてきた者の姿だった。
「遠路はるばる、この地へお越しいただき、我ら一同、深き光栄に存じます」
ゆっくりとした古典語は、響きは重く場に広がった。
続けて、短い祝辞が述べられる。この地の発展、学問の意義、そして王家の庇護への感謝。形式に則った言葉。だが、軽くはない。
王女はそれを静かに受け止め、わずかに顎を引いた。
「この地の学びが、多くの人を救っていると聞き及んでおります。その働きを、この目で確かめられること、誇りに思います」
言葉は簡潔だが、十分だった。
大学長が、深く一礼する。それに倣い、教授たちもまた、頭を垂れた。
王家と学問、互いの権威がここで交わる。
やがて王女は導かれるままに、礼拝堂へと向かった。
石造りの小さな空間。磨かれた床と整えられた祭壇が、静かな厳粛さを保っている。灯された蝋燭の火が、揺れる。
王女は歩み寄り、跪いた。侍女も、騎士も、誰も言葉を発さない。
ただ、祈りの時間だけが流れる。
……短いものだった。
それでも、神への敬意を示し、この地の営みを認める。それは、言葉以上の意味を持つ。
立ち上がった王女は、静かに十字を切った。
そして再び、外へ。
次に案内されたのは、講義室だった。石の壁に囲まれた広間、段状に並ぶ席、中央には机と、書物が置かれている。
すでに講義は始まっていた。学生たちは、一斉に立ち上がる。ざわめきはない。ただ、張り詰めた空気だけがある。教授が一礼し、言う。
「通常の講義をご覧いただきたく存じます」
王女は頷いた。
「続けてください」
短く、それだけ。
教授は再び向き直り、語り始める。病の記録、症例、処置。言葉は難解でありながら、どこか整理されている。
王女の視線が、わずかに動く。書き取る学生の手、机に置かれた記録。
講義が終わると、王女はゆっくりと一歩進み出た。机の上の書物に、そっと手を置く。
「これは……すべて、記録されているのですか」
大学長が答える。
「はい。失敗も含め、すべてを」
一瞬の沈黙。王女は、その言葉を受け止めた。呼吸が浅くなる。
「……それが、力になるのですね」
小さく、そう言った。誰に向けたわけでもない。だが、その場にいた者すべてが、意味を理解していた。
視察は、まだ続いた。書庫、治療室、そして実際の患者の元へ。
だがこの時点で、ただの形式では終わらないことを、誰もが感じていた。
エリシア視点
整えられた部屋に案内され、エリシア王女はようやく息を吐いた。
レオンハルト殿下との別れから、一年以上。それだけの時間が、流れていた。
「……変わらないのね」
小さく、誰にも聞こえぬ声で呟く。静かで、揺るがず、必要なことだけを見ている目。
今日、再び相対した彼も、何一つ変わっていなかった。
……いいえ。変わっていないのではない。
「……大きく、なっている」
ぽつりと、言葉が零れた。
視線を窓の外へ向けると、人の流れが見えた。巡礼者、病を抱えた者、商人、従者、ざわめきはあるが、混乱はない。
「……これを、一年で……?」
信じ難いが、現実だ。
聞いてはいた。報告も読んでいた。それでも実際に目にするのは、まるで違う。
「……流れを、作っている」
自然と、そんな言葉が浮かんだ。
胸の奥が、わずかに熱を持つ。講義の光景が、脳裏に蘇る。整えられた言葉、記録、積み上げられた知。学生たちの手は止まらず、教授の声には迷いがなかった。
「……素晴らしいわ」
今度は、はっきりと口にした。あれは、ただの知識ではない。形にし、残し、次へ渡している。我が国でも、ここまで徹底されてはいない。
「この短い期間で、よくも……」
呆れにも似た感嘆が、静かに混じる。あの人は、何をどこまで見ているのか。
ふと、思い出す。
視線が合ったあの瞬間、ただ「見ていただければ、分かるでしょう」と言った声。本当に、その通りだった。
私は、ゆっくりと息を吐いた。胸の奥にあるものを、整えるように。
……敵わないわね。
小さく、認める。それでも。
指先が、胸元のペンダントに触れる。淡く光を受ける石は、私の瞳と同じ色をしていた。
「エリシア殿下に、一番お似合いの宝石でございます」
かつての侍女の言葉。
……なぜ、これを選んだのか。
ほんのわずかに、指先に力が入った。




