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もし、社畜が異世界の第三王子に転生したら【連載版】  作者: りな


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私は、大国から届いた書簡に目を通した。

半年前、大国の王より医学大学の視察のため使節団を送りたい――その準備を整えるように、という書簡を受け取っている。

それを受け、すでに手は打ってあった。

温泉地に隣接する館を改修し、外来の客を迎えられるよう整えた。石壁の補修、屋根の張り替え、客室には新しい寝台と清潔な麻布を用意する。

食事についても同様だ。

領内で安定して手に入る穀物と肉に加え、保存の利く塩漬けや干し肉も用意させた。

ただしそれだけでは単調になる。

薬草で肉の臭みを抑え、低温でゆっくりと火を通す。硬くなりがちな干し肉も、酒と水で戻し、香草とともに煮れば食べやすくなる。焼いた肉は外を香ばしく、中は水分を残すように。塩は控えすぎず、だが強すぎぬよう調整させた。

遠方から来る者の舌にも合うよう、脂の重さは香草で軽くする。穀物は粥にも焼きにも回せるようにし、体調に応じて選べるようにした。水は必ず煮沸し、雑味を飛ばす。

酒も十分に備蓄させた。軽いものから、体を温める強いものまで揃える。

食事で体調を崩させるわけにはいかない。

治安も強化した。門の見張りは増やし、巡回の間隔を詰める。外から流れてくる者も多い土地だ。盗みや揉め事が起きぬよう、罰則も含めて改めて通達させた。夜間の灯りも増やし、主要な通りは暗がりを減らしている。

……迎える準備としては、最低限は整っている。

そう判断していた。しかし、私は書簡の最後の一文で指を止めた。

「……エリシア王女、か」

小さく呟く。

今回の使節団はすでに出発しており、その代表として王女の名が記されていた。ただの使節ではない。王家の人間が動くとなれば、話は変わる。私は書簡を机に置いた。

「足りない」

静かに言う。

まず、宿の格を引き上げる必要がある。王族を迎えるに相応しい部屋を一つ、専用に整えさせる。調度は過度に飾らず、だが粗末にも見せない。布は更に質の良いものに替える。護衛の配置も見直す。

外からの脅威だけではない。内に入る者の選別も厳しくする。王女の動線は事前に定め、余計な接触は避ける。

食事は専任を置くことにした。

毒見役も含め、調理の過程を固定し、使用する食材の出所をすべて管理させる。水も確認させ、混入の余地を潰す。

道もだ。主要な通りの補修を急がせる。馬車が揺れぬように、雨が降ってもぬかるまぬように。

視線を上げる。

「……見られるな」

誰にともなく呟く。

学院の実態。領地の力。そして私自身も。私はすぐに人を呼んだ。

「伝えろ。迎えの準備を改めて行う。対象は王族だ、手は抜くな」

使節ではない。これは、選ばれるかどうかの場だ。私は、次の指示書に手を伸ばした。


「湯殿を整えろ」

すでに整備は済んでいる。だが、それでは不十分だ。石床の滑りを抑え、手すりを追加し、湯温の管理を徹底する。長湯になっても負担が出ぬよう、ぬるめの湯も用意させた。

そして、私は一つ付け加えた。

「薬草水を置け」

マルクがわずかに眉を動かす。

「……薬草水、でございますか」

「ああ。湯上がりに使う」

温泉の湯は良い。だが、成分が強い。身体に残すと、髪や肌に負担が出ることもある。特に髪は、顕著だ。

「最後に髪をすすぐためのものだ。香りも整う」

私は指で順に示した。

「ローズマリー、血の巡りを促す。ラベンダーは鎮静、セージは清め、選べるようにしておけ」

マルクは、わずかに息を吐いた。

「……そこまで、なさいますか」

私は答えなかった。自分自身、試したのだ。カモミールとミントの匂いは壊滅的に温泉に合わない。

代わりに続ける。

「湯殿には布を多めに置け。濡れたまま移動させるな。足元は常に乾かせ。香は強くするな、湯の匂いを殺す」

更に、指示を重ねる。

「休む場所も用意しろ。湯上がりに座れる椅子、水、軽い果物。……長く滞在する者ほど、こういうものを求める」

元の世界で嫌というほど見てきた。細部で評価は決まる。マルクが、ぼそりと呟く。

「……細かい」

私は、聞かなかったことにした。

どんな事でも、やるなら全力だ。中途半端が一番価値を下げる。



……とはいえ。

ふと、視線を外に向ける。この領地では、日が沈む前に仕事が終わることが定着しつつあった。私も皆も、そう動いている。

その代わり、昼の間の動きは誰もが速い。無駄がなく、迷いがない。

「……悪くない」

小さく呟く。

私は再び視線を戻した。

「時間は限られている。だが、やることは変わらない。来るなら、最高の状態で迎える。しかし、皆、定時で終わるように」

一瞬の沈黙。

やがて、控えていた役人たちの間に、わずかな空気の揺らぎが生まれた。顔を見合わせる者はいない。だが、張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。

無理を強いられるわけではない。だが、求められる水準は高い。その両方を、誰もが理解していた。

短く「はっ」と応じる声が、どこか落ち着いていた。



……高価な薬草や、珍しい食事だけが、人の心を打つわけではない。

私が、この世界でまず気になったのは、匂いだった。人の体臭、湿った衣服、乾ききらぬ寝具。

獣脂を使った灯りの重たい油の匂い。香で誤魔化そうとしても、下に残る澱のような臭気は消えない。

積み重なれば、それだけで疲れる。

気づかぬ者は気づかぬままだが、分かる者にははっきり分かる。だからこそ、だ。

身近で手に入る薬草でも、十分に意味がある。ローズマリーやミントのような強い香りでなくとも、カモミールやラベンダーの柔らかな匂いでもいい。清めること、整えること、その積み重ねが違いになる。

それに石鹸がなくとも、湯だけで落ちる汚れは多い。皮脂の大半は、温めて流せば落ちる。もちろん、石鹸があればなお良い。けれど精製された石鹸は、この世界では決して安くはない。

灰と獣脂で作る粗いものなら、どこにでもある。だが、それは強く、荒い。汚れは落ちるが、同時に肌も削る。匂いもまた、決して良いものではない。

一方で、油を選び、何度も不純物を取り除き、丁寧に仕上げたものは別だ。滑らかで、泡は細かく、肌に残る感触も柔らかい。洗い流した後に、余計な匂いを残さない。あるいは、ほんのりと香る。

特に、バラの香りを移したものなどは、もはや別格だ。花弁を集め、油に移し、時間をかけて香りを引き出す。

その手間と量を考えれば、値が張るのも当然だった。

「……あれは、貴族の嗜みだな」

私は小さく呟く。だが、だからといって、それがすべてではない。

本当に必要なのは、清潔であること。余計な匂いがなく、心地よく過ごせることだ。

そこまでであればもっと安く、もっと広く行き渡らせることが出来る。


……おそらく、エリシア王女は自らの石鹸を持参するだろう。

王族だ。香油を使い丁寧に仕立てられたものを、日常的に使っているはずだ。わざわざ他所のものに頼る必要はない。

「……なら、用意は無駄か」

そう考え、すぐに打ち消す。

違うな。持ってくるのは当然だ。だが、それで全てが済むわけではない。湯の質、湯殿の整え方、布の清潔さ。湯上がりに使う水、空気の匂い、休む場所の心地。

石鹸一つで覆せるものではない。

むしろ違いは、そういうところで出る。自前の石鹸を使った上で、なお快適だと感じるか。何も気にせず過ごせるか。無意識に「良い」と思わせられるか。

私は小さく息を吐いた。

「無駄にはならん」



私は、この世界で薬草に詳しくなった自分に、小さく笑った。仕事の合間に医学大学に関わるから、と読んでいた。

……仕方ない。気になったのだから。元いた世界で染みついた性分は、そう簡単には消えない。


ただ、それだけのことだ。

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― 新着の感想 ―
さすが社畜。自分で仕事を作ることに余念が無い 定時がなかったら過労死だった(一敗
こんなに歓待されたら王女さんどころか、付き添い侍女とか部下も皆ハート射貫かれちゃうんじゃないかなあ。(笑) マルクの'細かい'笑いました!(o^ O^)シ彡☆
全体的にとてもいい回だなと思いました。 安らかで、読みごたえもあり、気持ちのいい、来客にも身内にも気配りの話で、読んだ後ほっとした気持ちになりました。 最後の部分が私達読者に対する配慮のようで、笑い…
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