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大国の王は、小国の第三王子を常に監視していた。温泉地の領主を賜ったという報告に、わずかに眉をひそめる。
……我が国の後ろ盾を得て、なぜ地方領主だ。宰相なら分かる。外交官でも分かる。
ならば――左遷か。あるいは、継承争いから身を引いたのか。
だが、ただの領主に収まるのであれば。エリシアとの話は、消える。王は、静かに視線を横へ向けた。同席していたエリシア王女。
――案の定。その頬はわずかに固く、瞳には鋭さが宿っている。
「……失礼します」
短く告げ、エリシア王女は席を立った。足早に退室する背を、王は黙って見送る。
小さく息を吐いた。
……あの男が、ただ領主をしているとは思えん。何かがある。そう判断するのに時間は要らなかった。
「監視を続けよ」
短く命じる。
やがて次の報告が届いた。
税の整備、医学大学の設立、商人の優遇、そして、大国の宮廷伯の名を後ろ盾としている、という一文。
王は、わずかに口元を歪めた。
……ここで、“大国”という名を使うか。
笑いそうになるのを、抑える。
「面白い」
その一言には、確かな興味が滲んでいた。
ふと視線を戻すと、エリシア王女が報告書を見ていた。
ほんの一瞬――その目が、わずかに見開かれるのを、王は見ていた。
そして、次の報告。
――医療の成果。それは、この国ですらまだ成し得ていないものだった。王の指が、頁の上で止まる。
……これは、人を集める。必ずな。
静かな確信だった。エリシア王女へと視線を向ける。何気ない顔をしている。けれどその瞳は隠しきれず、わずかに輝いていた。
王は、見て見ぬふりをした。そして、書簡の用意を指示した。
やがて、一年近くが過ぎた。
彼の領地は、もはや名を持っていた。温泉地、巡礼地、療養の地、医学大学。誰もが知る場所へと、変わっていた。
王は、密かにエリシア王女を呼び出した。
「小国との、学院設立の協定は進んでいるな」
「はい。順調です」
簡潔な返答。
王は一拍置き、続ける。
「ならば、新設された医学大学への使節を立てる必要があると思うか」
わずかな沈黙。
「……協定に基づく確認として、必要と存じます」
淀みのない答えだった。
王は、頷く。
「ならば、お前が行け。学院の実態、集まる人材、そして――あの地そのものを見てこい。報告は、余さずだ」
「畏まりました」
それだけで、話は終わった。
エリシア王女が一礼し、踵を返す。その頬が、ほんのわずかに紅潮しているのを、王は見逃さなかった。
口元が、わずかに緩む。
……探り、確かめる。そしてこの先有望な領地として成立しているのであれば、結ぶのも一手。
王は静かに目を細めた。
……情で動くかは分からんが、あの男が、それを利用出来ぬとも思えん。
「……もう少し、自由を与えるか」
誰にともなく、そう呟いた。
娘であり、同時に駒でもある。だが、使い潰すつもりはない。
見極める機会を与えるだけだ。
それで十分だった。
一方、その頃。
自室へ戻ったエリシアは、扉が閉まるのを待って、ようやく息を吐いた。
胸の奥が、わずかに高鳴っている。
……やっぱり。
「レオンハルト殿下は、ただ領主になっただけでは無かった……」
小さく、呟く。一年、それだけの時間でこの成果。信じられない。
「……この任務、すべてを見てきなさい、ということね」
静かに言葉にする。
国のために判断をする、重要な役目だ。
「……とても、大切な」
そこで、ほんの一瞬言葉が途切れた。すぐに首を振る。
「準備をしなくてはね」
いつもの調子に戻り、机へ向かう。視察の計画、随行者の選定、持参する書簡。やるべきことは、多い。
そのはずだったのだが、翌日。
「……こちらの生地は、もう少し落ち着いた色を」
エリシア王女は続ける。
「刺繍は控えめに。でも、質は落とさないで」
服飾の話に、妙に力が入っていた。衣装係がわずかに首を傾げる。
「……王女様?」
「ただの気まぐれよ」
エリシアは、涼しい顔で返す。
しかし、その理由に、本人はまだ気づいていなかった。
そのやり取りを、少し離れた場所から見ていた者がいた。エリシア王女付きの侍女である。
「……」
布地を整える手は止めず、視線だけをそっと向ける。エリシア王女の細かな指示が続く。色合い、質感、刺繍の位置。どれも的確で、無駄がない。
「……まあ」
小さく、息を漏らす。これまでの王女であれば。衣装のことなど、ほとんど任せきりだった。
「似合うものを」
そう一言告げるだけ。それが今は。
「もう少し落ち着いた色を。こちらの方が……いえ、やはり先ほどのものを」
言葉が、揺れている。
侍女は知っていた。あの報告が届いた日。王女が、どんな顔でそれを聞いていたのか。
王の言葉が出たとき、わずかに瞳が開かれたことも。
「……分かりやすいこと」
咎めるでもなく、ただ優しく小さく呟く。エリシアは一瞬だけ手を止めた。
「……何か?」
振り向かずに問う声は、いつも通り冷静だ。侍女は何も言わず、軽く頭を下げる。
「いいえ。何でもございません」
それ以上は踏み込まない。その代わり、布地を選びながら、ほんの少しだけ声を和らげた。
「長旅となります。道中の支度は、こちらで整えて参りますので、……どうかご無理なさらぬよう」
「ええ、分かっているわ」
短い返答。けれどその頬は、やはりわずかに赤い。侍女は視線を落とした。見ないふりをするのも、役目のうちだ。
……今回の使節。名目は、学院の確認、巡礼地の様子見、それだけで済む話ではないはず。実際、あちらの殿下からの書簡を受け、こちらからも幾人か医師が送られている。
人を送り、人を受け入れる。それは――関係を結ぶということ。
布地を整える手元を見つめたまま、胸の内で呟く。
王家の娘が動く時、理由は一つではない。表に出るものと、出ぬものがある。
……あちらの殿下を真剣にご覧になる、という話も出ている。誰が言い出したのか、しかし軽々しく口にするものではない。
侍女は、何も言わない。ただ、静かに整えていく。
王女が選ぼうとしている、その一枚を、彼女にいちばん似合う形に。




