88
石造りの執務室。
静けさを破るように、一通の書簡が運び込まれた。封蝋を見た瞬間、手が止まる。
教会の紋、しかも通常のものではない。
「……直接か」
小さく呟く。開封すると、羊皮紙は簡素でありながら、明らかに格が違っていた。無駄な装飾はないが、文の端々に重みがある。
差出人は記されていないが、分かる。教会の中枢、それも、極めて上位の人物だ。
文面は短かった。
――願いがある。
我が母が、長く病に伏している。
全身に痛みが走り、祈りすらままならぬ。神の御手に委ねるべきことは理解している。だが、せめてその苦しみだけでも、取り除く術があるのなら。
この名は、伏せてほしい。見返りは問わぬ。
ただ、母に安らぎを。――
私は書簡を静かに置いた。
「……そういうことか」
症状は十分だ。
全身の痛み、長期の臥床、回復の兆しなしなら、治す段階は、過ぎている。
終わりを待つ病だ。私の知識で言えば、末期のそれに近い。だが、この時代にそれを言う意味はない。
必要なのは、痛みを取る、それだけだ。
私は人を呼んだ。
「準備しろ。表に出すな」
短く告げる。
使うのは、ケシの実。量を誤れば毒だが、正しく使えば救いになる。
数日後。
私と医官は密やかにその館を訪れていた。重厚な石の建物。だが、奥へ進むほどに、空気は張り詰めていく。
出迎えた男は、老いてなお威厳を保っていた。白髪、深い皺。だがその目は鋭く、祈りと統治の両方を知る者のものだ。
名乗りはない。
互いに、不要だった。
「……頼む」
それだけだった。
私は頷いた。
室内は暗く、寝台に横たわる女性はすでにやせ細り、呼吸も浅い。時折、痛みなのか身体が震える。
私は静かに処置を施すよう医官に指示した。
薬は強い。だからこそ量は慎重に、時間をかけ、少しずつ。
やがて、女性の表情が緩み、呼吸が落ち着く。強張っていた指が、ゆっくりとほどけていく。
「……ああ」
小さな声が漏れた。苦しみではなく、安堵の声だった。その様子を、男は何も言わず見ていた。ただ、その背がわずかに震えていた。
それから数日。
女性は、穏やかに過ごした。痛みに顔を歪めることは、もうなかった。やがて、静かに息を引き取る。
眠るように。
その場に、私はいなかったが、報はすぐに届いた。再び、男と対面する。
しばらく言葉はなかったが、彼は口を開く。
「……救われた」
低い声だった。
「命ではない。だが――あれは、救いだった。祈りでは、届かなかったものだ」
私は何も言わない。いや、言うべきではない。
やがて、彼は顔を上げた。その目には、以前とは違う色があった。
「教会は、全面的に協力しよう」
静かに言う。
「そなたの大学もだ。人も、知も、惜しまず出す」
それは約束ではない、決定だった。
「……よいな」
私は、わずかに頷いた。
それで十分だった。
大学における講義の内容が、わずかに変わり始めていた。
神の御業として語られてきた病。それを否定する者はいないが、こう付け加えられるようになった。
――神は、人に知恵も与え給うた。ならば、その知恵をもって病を知り、和らげることもまた、御心に背くものではない。
教壇に立つ聖職者の口から、そう語られる。
かつてであれば、踏み込みすぎとされた言葉だ。
今は違う。誰もそれを咎めない。
講義の中で、薬草の効能が具体的に語られ、
身体の構造についても、以前より踏み込んだ説明がなされる。
祈りと知識が、並んで語られていた。
それは“否定”ではない。
しかし、確かに一歩、踏み出している。
もう一つ、変化があった。
教会からの視察。かつては定期的に訪れ、講義の内容や研究の方向に目を光らせていた者たちが――来なくなった。
表向きには、けれど。
完全に目が離れたと考える者はいない。
それでも、その“不在”が意味するものは大きかった。
医師たちは、あからさまには何も言わない。
しかし、記録の量が増え、試みの幅が広がった。
学生たちもまた、同じだった。
講義の後、残って議論する時間が長くなる。
新しい考えを口にすることへの躊躇が、薄れていく。
ある夜。
灯りの下で、数人の学生が小声で言い合っていた。
「……ここは、違うな」
「何がだ」
「許されている。考えることが」
短い沈黙。
やがて、誰かが呟いた。
「……この地は」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「学びの――頂だな」
誰も笑わなかった。
否定もしない。
ただ、それぞれが静かに頷いた。
その噂は、大きくは広がらない。
だが、確かに広がっていく。
声を潜めたまま。
――ここは、知る限り学びの最高位だと。




