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私は、領主としての仕事の傍ら、もう一つの仕事にも手をつけていた。
――葡萄だ。
温泉も、大学も、人を集める。しかし、他にも土地そのものに価値を持たせる事が出来る。耕作可能な土地は、すでに出来る限り使わせている。だが、それでも手を付けきれぬ土地は残る。
「使えぬ」のではない。「まだ使い方が決まっていない」だけだ。
私は丘の斜面を見下ろした。
まだ手入れもされていない、荒れた畑だ。
「ここを使う」
傍らの農夫が、困惑したように顔を上げる。
「……殿下、ここは土が軽すぎます。水も抜けやすい。作物には向きません」
「だからいい。水が溜まらない、根が腐らない。葡萄には向く」
農夫は言葉を失った。私は続ける。
「それに、地の下から熱が上がり、この地は温かい」
温泉のある土地特有の、わずかな温もり。それは冬でも土を完全には冷やさない。
「霜に強く、育ちが安定する。やる価値はある」
私は別の、丘の斜面を見下ろした。すでに使われている葡萄畑も、点在している。
「……あれは」
私は既存の畑を指した。農夫が答える。
「昔からのものです。毎年、実は取れておりますが……」
言葉を濁す。私は近づき、枝を一つ手に取った。若い実は小さい。他の木も見る。房がまばらだ。熟し方も揃っていない。
「混ぜて、植えているな」
「……はい。いくつかの品種を」
私は枝を戻した。
「悪くはないやり方だ」
農夫が、わずかに顔を上げる。
「だが――狙った味は作れない」
……混ぜるのは、気候、病害虫のリスク分散の為だろう。理が、ある。
農夫たちは黙った。私は畑を見渡す。
「まず、ここから手を入れる。全部は変えない。だが、選べ」
視線を向ける。
「出来の良い木だけを残せ。他は切れ」
ざわめきが走る。
「……切る、のですか」
「ああ。残す価値のないものを抱えるな。ただし、残した木は、そのままにはしない」
農夫たちが顔を上げる。
「区画ごとに揃え直す。同じものは同じ場所へ集めろ」
静かに言う。
「……植え直す、のですか」
私は頷いた。
「良いものを選び、それを増やす。畑は、作るものだ」
私はさらに続ける。
「収穫も揃えろ。一度に取るな。熟したものだけを選べ」
農夫の一人が、低く呟いた。
「……今までとは、やり方が違います」
「違うな。しかし、変えて貰う」
私は頷いた。
私は枝を手にしたまま、ふと呟いた。
「足りんな」
マルクが顔を上げる。
「……何が、ですか」
「種類だ。この土地だけでは、試せる幅が狭い。教会と修道院に書状を出し、各地で育てている葡萄の枝を分けてもらう」
さらに続ける。
「商人にもだ。流通に乗る苗木があれば、買い集めろ」
農夫たちは、顔を見合わせた。
「……そこまで、なさるのですか」
「やる」
迷いはなかった。
「選ぶには、数がいる」
風が畑を抜けた。誰も、すぐには動かなかった。
数日後。私は植えた苗木を前にしていた
「接げ」
そう言うと、農夫たちが顔を見合わせた。
「……接ぎ木、でございますか」
「そうだ。ただし、やり方を変える」
農夫の一人が、わずかに眉をひそめる。
「……やり方を?」
私は枝を合わせた。
「根は強いが味の悪い木がある。逆に、実は良いが弱い木もある。それを――意図して組み合わせる」
沈黙。
「……今までは、そこまで考えてはおりませんでした」
「だろうな。だから、試す」
「……そんなことが」
「出来る」
短く言い切った。
「時間はかかるが、結果は出る」
農夫たちは半信半疑のまま、手元を見つめている。
さらに、私は樽について伝えた。まだ、用意するには早いが。
「洗え」
「……洗う、ですか」
「徹底的にだ。残り滓も、匂いも、すべて落とせ。そして、煙で燻せ」
「煙……」
「腐りを防ぐ」
農夫たちは、顔を見合わせた。今までのやり方とは、あまりに違う。
私は、静かに畑を見渡した。
まだ何もない。成果も、証明も。しかし。
「……いずれ分かる」
小さく呟く。
医も、同じだ。記録し、試し、積み上げる。祈りではなく、積み重ねで届く場所がある。葡萄もまた、同じだった。
「作れるものは、作る」
静かに言う。
「この地でな」
風が、まだ若い枝を揺らした。
……書物でしか知らなかったものが、現実になる。
「まさか、こんな形で役に立つとはな」
私は、小さく笑った。
葡萄酒は、奥が深い。淡いものから、深く沈むものまで。同じ実とは思えぬほどに。
「……悪くない。浪漫のある話だ」
……この地で得られるものは、まだ増える。
富だけではない。
至福と呼べるものすら、だ。
農民視点
殿下が去った後、しばらくの間、畑には風の音だけが残った。
やがて、一人の農夫が小さく息を吐いた。
「……切れ、だとよ」
誰にともなく呟く。その声に、別の男が応じる。
「出来の悪い木を、全部、か」
「何年もかけて育てたもんだぞ」
低い声が、ぽつぽつと続く。
「失敗したら、どうする」
「今年の収穫が減れば、冬を越せねえ」
誰も声を荒げはしない。だが、不安ははっきりとそこにあった。
「植え替えだの、揃えろだの……」
「そんなこと、やったことがねえ」
一人が土を靴で軽く蹴る。
「上は、簡単に言う」
その言葉に、誰も否定しなかった。
沈黙が落ちる。やがて、年嵩の農夫がゆっくりと口を開いた。
「……だが、あの殿下だ」
視線が集まる。
「医の方も、当てた。門の騒ぎも、収めた」
短く言う。
「外したら、それはそれで、ただじゃ済まんだろうがな」
苦い笑いが、わずかに漏れた。
不安と、諦めと、そしてわずかな期待が混ざる。
「……やるしかねえか」
誰かが言った。それで、話は終わった。少し離れた場所で、そのやり取りをマルクは聞いていた。
マルク視点
……当然だな。
胸中で、静かに呟く。木を切らせる。収穫を減らす可能性を呑ませる。しかも、理由は「良くなるはずだ」という先の話だ。
今を生きる者にとっては、賭けに等しい。
視線を畑に向ける。葡萄の若い枝が風に揺れている。
……殿下は、分かっている。
反発が出ることも、不安が広がることも。その上で、止めない。むしろ選ばせている。従うか、離れるか。その代わり、結果は必ず出す。
マルクはゆっくりと息を吐いた。
「……逃げ場は、用意してある」
小さく呟く。
門の外に仕事を作ったように、ここでも同じだ。もし畑で食えなくなれば、おそらく、別の場で拾う。視線を上げた。
「……囲っている」
兵も、商人も、農夫も。すべてを、同じやり方で。
マルクは静かに踵を返した。
やるべきことは、分かっていた。
風が、畑を抜けた。若い枝は、まだ細い。
この地の葡萄酒は、いずれ特産となり、貴族たちが競って買い求める。
――だが、その時は、まだ来ていない。




