86
その翌日、石造りの応接室。
机の上には、簡素な地図が広げられていた。
クロウフォード伯爵は、それを前にして静かに口を開いた。
「……地図をご覧になりたいとのことですが、何か」
私は軽く頷き、指先で一角を示した。
「開墾は順調だと聞いている」
「はい。無理のない範囲で進めております」
「そうか」
短く返し、そのまま指を滑らせる。
「では――ここはどうしている」
伯爵の視線が、同じ場所へ落ちた。
「……遊水地、でございますな」
「ああ」
そこは、かつて耕作地だった場所だ。しかし度重なる水害のため、私が水を逃がす地として整えさせた。伯爵は続ける。
「水を逃がす地として維持しております。平時は……ほとんど手を入れておりません」
「だろうな。水が来る時はそれでいい。だが、来ない時はどうだ」
伯爵はわずかに考えた。
「……草が生えるのみです。放置に近い状態かと」
「そうなる」
私は小さく息を吐いた。
「……あれから、自分なりに調べた」
伯爵が顔を上げる。
私は、地図を軽く叩いた。
「ガチョウを飼ってみないか」
一瞬、空気が止まった。
リディアの手が、わずかに止まる。
「……ガチョウ、でございますか」
「ああ」
私は淡々と続けた。
「水辺と草地があれば育つ。遊水地に放しておけば、勝手に草を食う」
伯爵が腕を組む。
「……それだけであれば、ただの家禽では」
「それだけではない」
言葉を切る。
「虫も食う。畑に入れれば、害を減らす。踏み荒らしも少ない」
リディアの視線が、わずかに動く。
「……除草と、害虫対策を兼ねるのですね」
「そうだ」
短く肯定する。
「それに、よく鳴く。外敵や人の気配にも敏い。見張り代わりにもなる」
伯爵の表情が、少しだけ変わる。
私は続けた。
「羽毛は防寒具になる。羽根は筆記具。脂は食料にも油にもなる」
リディアが小さく呟いた。
「……無駄がない」
「そういうことだ」
私は頷いた。
「しかも、穀物をほとんど食わん。人と競わない。既にこの領地でも多く飼育している」
沈黙。
伯爵はゆっくりと地図を見下ろした。
「……遊水地を、捨てぬということですか」
「捨てる必要がない」
私は静かに言う。
「水が来れば役に立つ。来なければ、食わせる。どちらに転んでも、損はせん」
その言葉に、伯爵は小さく息を吐いた。
「……治水の地が、収穫の地にもなる、か」
リディアが顔を上げる。
「増えれば、加工も出来ます。羽も、肉も、油も……市場に流せます」
私は視線を向けた。
「その通りだ。あと、加工した物についてだが――」
伯爵とリディアの視線が上がる。
「貨幣を求めるなら、我が領地に回してもよい」
わずかな間。
「……では、そちらで買い上げていただけると」
伯爵が言う。私は首を振った。
「無理にとは言わん。自領で消費しても構わない」
その言葉に、伯爵の眉がわずかに寄った。
「……それでは、殿下には利が残らぬのでは」
当然の疑問だった。私は、わずかに口元を緩める。
「構わん。今は、形を整える方が先だ。ただし売る時が来たなら、こちらを思い出せ」
静かな声。
「それで十分だ」
室内に、わずかな沈黙が落ちる。
リディアが、ゆっくりと息を吐いた。
「……優先的に、ということですね」
「そういうことだ」
私は頷いた。
伯爵はしばし考えていたが、深く頭を下げる。
「……恩を、売られましたな」
私は否定しなかった。ただ、一言。
「やるか」
伯爵は、深く頷いた。
「……やりましょう」
リディアもまた、静かに続いた。
「準備を進めます」
遊水地は、もはや“捨て地”ではない。
使う場所へと、変わろうとしていた。
クロウフォード伯爵は、地図の一点を見つめていた。
遊水地。かつては捨てるしかなかった土地。
……あそこに、ガチョウを。
思いもよらぬ発想だった。
ふと、数日前のやり取りが脳裏をよぎる。
「顔は合わせている。今回は来ずともよかったのだがな」
そう告げたとき、リディアは即座に首を振った。
「きっと勉強になります。それに……お母様にも、お会い出来ますし」
言葉は整っていた。だが、その頬はわずかに赤かった。伯爵は小さく息を吐く。
……まったく。
咎めるつもりはない。むしろ、来る理由としては十分すぎる。後継として場を知るのも、家の者に顔を見せるのも、どちらも必要なことだ。それでも、ほんの少しだけ、分かりやすい。
視線を地図へ戻す。
草を食い、虫を減らし、羽も肉も油も残る。水が来れば守りとなり、来なければ利を生む。
……無駄がない。
小さく、息を吐く。あの方は捨てない。土地も、人も。
ふと、妻の顔が浮かぶ。かつて衰えた身体が、今は確かに持ち直している。あの助言がなければ。
……この方は、ただの領主ではない。
静かに、確信する。
「……やりましょう」
口にした言葉は、もう迷いではなかった。




