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私は朝の散歩中、半年ぶりにクロウフォード伯爵の姿を遠くで見かけた。
伯爵夫人がこの地で静養しているのは知っている。ゆえに伯爵自身も、折を見て領地を離れ、ここへ足を運んでいるのだろう。だからこそ、最近まで姿を見なかった。
クロウフォード伯領。あの地は、耕作地が広く、手を入れた分だけ応える土地だ。
……ならば。
私は執務室へ戻ると、すぐに指示を出した。
「資料を集めろ。クロウフォード伯領の生産状況だ」
ほどなくして、書類が積まれる。開墾の進行、収穫量、備蓄、流通に目を通す。
「……出ているな」
小さく呟く。余剰生産。規模はまだ大きくはないが、確かに“余り始めている”。
耕地は応え、人も動いている。そして何より、時期がいい。こちらは人が増えすぎた。流れはあるが、供給はまだ不安定だ。
私は書類を閉じた。
「クロウフォード伯に伝えろ。話がある、と」
数日後、石造りの応接室にてクロウフォード伯爵を迎えた。
「……久しいな」
声をかける。
クロウフォード伯爵は、深く一礼した。
「ご無沙汰しております、殿下」
私は軽く頷き、続ける。
「夫人はどうだ」
伯爵の表情が、わずかに和らいだ。
「はい。あれから大分良くなりました。もうしばらくすれば……共に散歩も出来るかと」
「そうか」
短く返す。骨の病であれば、その頃合いだろう。無理をさせなければ、回復は続く。
一拍置いて、私は視線を上げた。
「そちらの領地はどうだ。農産物に余裕はあるか」
伯爵は、わずかに意外そうな顔をしたが、すぐに答えた。
「開墾も進み、備蓄も確保しております。余剰が出始めており、売却を検討しているところです」
……やはり、な。
「ほう。では、ここに売らないか」
伯爵の眉が、わずかに動く。私は続けた。
「人が増えすぎた。物資の流れはあるが、まだ安定しきっていない」
視線を遠くへ向ける。
「足りなくなってからでは遅い」
伯爵は、静かに聞いていた。やがて、口を開く。
「……商人を介さず、ですか」
聡い。領主同士の直接取引の話だとすぐ理解してくれた。
「ああ」
迷いなく答える。
「商人は必要だ。だが、それだけに頼るべきではない。手段は、多い方がいい」
伯爵はしばらく考え込んだ。やがて、ゆっくりと頷く。
「承知いたしました。領内に持ち帰り、検討の上でご返答いたします」
「それでいい」
私は伯爵を見て、答えた。
半月後。
私は、石造りの応接室で二人を迎えた。
長机の向こう。クロウフォード伯爵と、その隣に座る若い娘、次期後継者リディア。
農産物の取引一つに、後継者を同席させる。
それだけ、この話を軽く見ていないということだ。悪くない。
「急な話だったが、進めてよいのか」
私は切り出した。伯爵は頷き、隣のリディアを見た。
「はい。私が細かく数字を見ております。十分可能かと存じます」
私は軽く頷いた。
「それは頼もしい」
リディアは背筋を正したまま、わずかに頭を下げる。
「……まだまだ、未熟にございます」
声は小さい。だが、逃げてはいない。
「これから頼むことが増えるかもしれん。よろしく頼む」
私はそう言った。リディアは一瞬、間を置き、
「……はい。末長く」
その言葉に、室内の空気がわずかに緩んだ。
伯爵が、苦笑する。
「リディア。言葉が違う」
低く、しかし咎めるでもなく続ける。
「“今後とも、よろしくお願い申し上げます”だ」
リディアの顔が、一気に赤くなる。
「……し、失礼いたしました。今後とも、よろしくお願い申し上げます」
言い直し、深く頭を下げた。
私は小さく頷いた。
一拍置き、話を戻す。
「さて――一つ提案がある」
二人の視線が上がる。
「作物の種類を増やしてみないか」
伯爵が、わずかに眉を動かした。
「増やす、とは」
「地に実るものだけではない。土の中に出来るものも含めてだ。この地には、人が集まる。巡礼者、療養者……遠方から来る者は、見慣れぬものに金を出す」
間を置く。
「逆に――故郷の味にもな」
リディアの目が、わずかに動いた。
「……懐かしいもの、珍しいもの、ですか」
「そうだ。売れると思わないか」
伯爵は腕を組み、考え込む。
「理は、ありますな。しかし……何を作ればよいのか」
「それはこちらで用意する。種も、植え方も」
沈黙。やがて、伯爵が頷く。
「……ならば、出来ましょう」
決断は早い。隣で、リディアも小さく頷いていた。私は椅子に深く腰を預ける。
話は、まとまった。
農産物の入手先を、一つ、確かに手に入れた。
私は、しばらく二人の様子を見てから、静かに口を開いた。
「もう一つある。道を引く」
伯爵の視線が上がる。リディアも顔を向けた。一瞬、意味を測るような間が落ちる。
「……道、ですか」
伯爵が低く繰り返す。
「ああ。そなたの領と、ここを繋ぐ道だ」
私は淡々と続けた。
「隣でありながら、大きく迂回している。山を避け、森を抜け、谷を回る。距離にして倍近い。今回も、そうして来たのだろう」
伯爵が、わずかに目を細めた。
「……ご存じでしたか」
「見れば分かる」
短く返す。
「靴も、馬も、疲れ方が違う」
リディアが、はっとしたように視線を落とした。確かに、ここへ至る道は楽ではなかった。
「非効率だ。量が増えれば、いずれ詰まる」
リディアの指が、わずかに動く。
「……確かに、このままでは運びきれません」
「今はまだいい。だが、流れを作るなら話は別だ」
視線をまっすぐ向ける。
「物は増える。人も増える。ならば、最短で通せる道が要る」
沈黙。
「……新たに、街道を通すと」
伯爵の声は静かだったが、その内に測る色があった。
私はわずかに身を起こす。
「そうだ。ここへ運ぶため、来るための道。他へ流れぬようにするための道だ」
リディアが、息を呑む気配がした。
「……流れそのものを、形にする」
小さく、呟くように言う。
「理解が早いな」
私は短く返した。
伯爵は、しばらく目を伏せていたが、やがてゆっくりと頷く。
「……費用も手間もかかりますな」
「かかる」
即答する。
「だが、それ以上に回収できる。続く限りな。作る価値はある」
沈黙の後、伯爵は小さく笑った。
「……なるほど。ここまで見ておられるか」
顔を上げる。
「承知いたしました。道を引きましょう」
隣で、リディアも強く頷いた。
「――必ず、通してみせます」
私はわずかに頷いた。
それでいい。
石造りの一室。
再び、クロウフォード伯爵との会合の場が設けられた。
すでに種苗は伯爵領へと送り込まれ、畑では新たな作物の生育が始まっている。
だが、それだけでは足りない。私は静かに口を開いた。
「順調に育っていると聞いている」
「はい。まだ手探りではありますが、芽は確かに出ております」
伯爵は落ち着いた声で答えた。その傍らで、リディアが書板に視線を落としている。
私は頷いた。
「ならば次だ。食物は、収穫して終わりではない」
二人の視線が上がる。
「保存と加工――ここからが本番だ」
わずかな沈黙。伯爵がゆっくりと口を開いた。
「……干す、塩漬けにする、その類でしょうか」
「それもある。だが、それだけでは弱い。粉にする、油を搾る、酒にする、形を変える。そうすれば、腐らず、運べ、値も上がる」
リディアの指が、わずかに止まる。
「……価値を、上げるのですね」
「そうだ。そして、売り方を変える」
空気が、わずかに張る。伯爵が視線を細めた。
「……売り方、ですか」
「加工品は、一度すべてこちらへ送れ。温泉地に市場を置く。人はすでに集まり始めている。巡礼も、療養もな」
理解が追いつくまでの、わずかな間。
「……つまり、売る場を一つに絞る、と」
伯爵が言葉を選ぶ。
「そうだ。ここを通さねば、売れぬ形にする」
リディアが、はっと顔を上げる。
「……では、価格は」
「こちらで決める」
迷いなく言い切る。
沈黙が落ちた。
それは圧ではない。構造を理解した時の、静かな重みだった。伯爵が、低く息を吐く。
「……我らは、作る側に回るということですか」
「利は分ける。だが、流れはまとめる。その方が、全体が強くなる」
リディアが、小さく頷く。
「……確かに。売り先が散れば、値は崩れます」
「その通りだ。さらに、備蓄もこちらに置く。一部は必ずな」
伯爵の眉がわずかに動く。
「……不作や災いに備えるため、ですか」
「それもある。そして、必要なら止めるためだ」
その言葉に、空気が変わった。伯爵は、じっとこちらを見た。だが、やがて小さく笑う。
「……なるほど。完全に任せる気はない、ということですな」
「当然だ。一つに頼らない。流れは複数持つ」
私は淡々と返した。
「直接の取引、市場、巡礼の流れどれかが止まっても、他が動く」
リディアが、静かに書き留めている。
伯爵は、ゆっくりと頷いた。
「……理解しました」
そして、わずかに口元を緩める。
「これは――ただの取引ではない」
私は答えなかった。
代わりに、短く言う。
「食わせるためだ。……この地に来る者も、ここで生きる者もな」
伯爵は深く頭を下げた。
「ならば、お預けいたしましょう。我らの収穫も、その先も」
リディアもまた、静かに続く。
「……末長く、支えられる形を」
今度は、言葉を違えなかった。
私はわずかに頷いた。
これでいい。作る者、運ぶ者、買う者。
すべての流れが、少しずつ、この地に一つに寄っていく。
リディア視点
石造りの応接室を出た後。
廊下は静かで、外の光が細く差し込んでいた。リディアは、しばらく言葉を発せずに歩いていた。
……まだ、胸の内が落ち着かない。第三王子殿下を、あれほど近くで見ることになるとは思っていなかった。
あの日から、ずっと備えてきた。いつか再びお会いできたとき、胸を張れるように。
そして、あの時いただいたものへの感謝を、きちんと伝えられるように。帳簿を読み、土を見て、人に教えを乞い、失敗を重ねた。
備え、増やし、守る。
それが、この地に生きる者としての務めであり、殿下へのささやかな恩返しだと信じて。
たとえ会えなくとも構わなかった。
自分が積み上げたものは、そのまま領民の安寧に繋がる。そう思っていたのに。
いざ目の前に立つと、言葉が出なかった。
思い描いていたよりも、ずっと大きい。静かで、揺るがず、ただそこに在るだけで場の流れを変えてしまう。
戦を越え、領地を興し、人を動かす者の在り方。まるで、別の世界の人のようだった。
……敵わない。
胸の奥で、素直にそう思った。
「……まさか、こんな形で」
小さく、息のように漏れる。隣を歩くクロウフォード伯爵が、わずかに視線を向けた。 だが、何も言わない。分かっているのだろう。
今回の同席が、どれほど重い意味を持つか。
「次期後継者ならば、同席しても失礼にはならん。むしろ、本気であると示せる」
出立前、父はそう言った。理屈は、理解している。理解は、しているのだが。
「……心の準備が、間に合いませんでした」
ぽつりと、零した。伯爵が、わずかに苦笑する。
「顔には出ておらん。安心しろ」
「……そう、ですか」
だが、問題はそこではない。リディアは、ゆっくりと息を吐いた。会話は成立していた。
……でも、違う。
思い出すのは、あの視線だ。静かで、揺らがない。すべてを見ているようでいて、必要なものしか見ていない目。
言葉は多くないが、一つ一つが、重い。
……あれが、“流れを決める側”。
指先が、わずかに強く握られる。自分たちが今、何に足を踏み入れたのか。遅れて、実感が追いついてくる。
「……父上」
「なんだ」
「……本当に、すごいお方ですね」
伯爵が、わずかに目を細めた。
「ようやく、顔になったな」
短く言う。リディアは、前を向いた。
頬の熱は、もう残っていない。
「――はい。次は、もう少しまともに話せるようにいたします」
小さく、しかしはっきりとリディアは言った。その言葉に、伯爵は何も返さなかった。
ただ、満足げに一度だけ頷いた。
廊下の先に、光が広がっていた。
……もう一度、同じ席に座るのなら。あの人の前で、胸を張れるように。




