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私は、これまで抱えていた職務を、順に各部署へ引き渡していった。
過去、締結された条約。だが、それを実際に動かすのは私ではない。実務はそれぞれの役所だ。王都は、私がいなくとも回るように出来ている。私は、それらの最終確認をしていた。それも、引き継いだ。
ただ一つ、最後まで手を離し難かったのは学院の件だった。
だが結局、私はそれを手放した。医学学院を、私の領地で育てると決めたからだ。引き継いだ者が迷わぬよう、特に入念な引継ぎをした。
そうして、出立の準備が整う頃には、私に従う者たちも決まっていた。
王命によって付けられる者がいた。
書記官、会計官、そして最小限の騎士。兵士。医者。従卒。料理人。専門家。
計画は、すでに王都の一部に広がっていた。
その中から、同行を願い出る者も現れる。
医術を学ぶため、院の許しを得た若い修道士。新たな市場を見越し、供給契約を取り付けた商人。
思いつきではない。利と義務の上に成り立った参加だった。
……調整に苦労した形跡は、書状の山と、疲れ切った官吏たちの顔に、はっきりと残っていた。
私はそれを一瞥し、静かに息をつく。
王都を離れるというのは、思っていた以上に、多くを動かすのだと、ようやく実感していた。
私は、列を見た。
王都の石畳を、ゆっくりと進んでいく一団。
先頭には旗がある。王家の双獅子を戴きながらも、その上に細い三垂れの銀標を添えている。王の紋章とは異なる、私を示す印。
騎馬の兵が、その前後を固めている。動きに無駄がない。儀礼ではなく、実務のための護衛だった。
その後ろに、荷車が続く。軋む音を立てながら進む車には、樽と箱が積まれていた。
干し肉、硬いパン、乾燥豆、塩。
書類箱、計測器具、そして図面の入った筒。
都市を築くための資材。同時に、都市を「呼び寄せる」ための道具だ。
荷車を引くのは馬と、数人の従卒。
さらに後ろには、人の列。書記官たちは、すでに何かを書き留めている。この行程も、いずれ記録となるのだろう。
外交官は周囲に目を配り、誰とでも言葉を交わせる距離を保っている。
建築家たちは、道沿いの宿場や橋を見ては足を止め、何かを測るような視線を向けている。まだ存在しない建物の位置を、すでに思い描いているのかもしれない。
そして、白衣をまとった数人。筆頭医官と、その補佐。
彼らは多くを語らない。だが、その目は人を選ぶ。これから集まるであろう医師たちを、選別するための。
……人数は多くない。およそ100。
だが、これで足りる。ここにいるのは、土地を耕す者ではない。人を呼び、仕組みを作り、都市を立ち上げるための――最初の歯車だ。
私はゆっくりと息を吐いた。
やがて人は、膨れ上がるだろう。
だが今は、まだその前だ。
私は小さく呟く。
「始まるな」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
ここから数日は、街道沿いの宿場を使う。
だが百に近い人数すべてが屋根の下に入れるわけではない。
荷車の周りに簡易の天幕を張り、交代で火を焚き、夜を越すことになる。
食料は持参した分で足りる計算だが、途中の村で買い足す手配もしてある。
塩と銀貨があれば、道は開ける。
王都を出発し、三日目に雨が降った。
街道はぬかるみ、荷車が一台、動かなくなる。
「車輪が割れています」
報告に、列が止まる。迂回はできない。修理には時間がかかる。私はしばらくそれを見てから言った。
「荷を分けろ。進める」
誰も文句は言わない。
だが、進みは確実に遅くなった。
移動中、商人たちの声は、表向き穏やかだった。
「薬草の扱いはどうされるおつもりで?」
「さて、まだ決まってはおりませんな」
笑顔で言葉を交わしながら、視線は鋭い。
どの宿に泊まるか。誰と同じ卓につくか。
誰に先に話を通すか。それだけで、この先が変わる。
まだ何もない土地。
だが彼らの中では、すでに場所の取り合いが始まっていた。
「しかし――」
一人が、わずかに声を落とした。
「先に供給契約を結んだ者が優先されるべきでは?」
空気が、変わる。別の商人が笑みを崩さずに返す。
「契約は王都での話。現地での扱いは、また別でしょう」
「……それは、解釈の違いですな」
言葉は丁寧だが、引かない。
「こちらはすでに薬草の搬入路も確保しております」
「それも、まだ確定ではないはずだ」
視線がぶつかる。一歩、距離が詰まった。周囲の者が、わずかに息を止める。
――ここで崩れれば、早い。私は口を開いた。
「そこまでだ」
低い声だった。二人の動きが止まる。私は馬上から視線を落とした。
「ここは、まだ市ではない」
静かに言う。
「決まっていないことを、勝手に決めるな」
沈黙。私は続けた。
「契約は見た」
二人の顔がわずかに強張る。
「だが、それをどう使うかは――」
一拍。
「私が決める」
完全に、空気が止まった。私は視線を巡らせる。
「場所も、順も、権利もだ」
短く言い切る。
「争うな」
それだけだった。しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは最初の商人だった。
「……失礼いたしました」
深く頭を下げる。もう一人も、遅れて頭を下げた。
「軽率でした」
私は小さく頷いた。
「分かればいい」
それ以上は言わない。列は、再び動き出した。だが先ほどまでとは違う。
――誰が、この場の秩序を握っているのか。
それだけは、はっきりと伝わっていた。
夕刻、野営の支度が始まった。
荷車を円に寄せ、兵たちが手際よく配置を決めていく。
焚き火の場所が定められ、薪が積まれた。やがて火が入る。乾いた枝がはぜ、煙がゆっくりと立ち上った。
風が、それを押した。
煙は流れ、列へと入り込む。修道士たちのいる方角だった。一人が袖で口元を覆い、顔をしかめる。
「……煙が強いな」
小さく漏らした言葉に、近くの者が頷いた。
「祈りの最中に、これは少々つらい」
その声を聞きつけた兵が振り返る。
「火の位置は変えられん。配置が崩れる」
短く言う。
修道士が静かに返す。
「我らを風上に移せばよい」
「風は変わる」
兵は一歩も引かない。
「どの場所でも同じだ」
その言葉に、わずかな緊張が走る。
火はただの焚き火ではない。
荷車の配置、見張りの位置、夜の視界――すべてがそれを基準に決まっている。
動かせば、陣が崩れる。
私は火の位置と風向きを見比べ、口を開いた。
「場所を替えろ」
兵がわずかに眉を動かす。
「火はそのままでいい」
続ける。
「人を動かせ」
短く言う。
兵は一瞬考え、やがて頷いた。
「……修道士を此方へ」
修道士たちは静かに位置を変える。
火はそのまま、煙だけが風に流れていく。
大きな衝突にはならなかった。
だが――こうした小さな諍いが、確かにそこにある。
私はそれを見ながら、静かに息を吐いた。
人が集まれば、必ず揉める。
それを裁くのも、上に立つ者の役目か。
…………それは、変わることのない課題なのだろう。




