69
王太子承認の儀を翌日に控えた夜。
王宮の小食堂には、久しぶりに王家の者が揃っていた。
辺境の守りを任されている第二王子。
各地の修道院や孤児院を訪れて慰問を続けている第一王女。
第一王子は、本来であればもっと早く王太子として承認されていてもおかしくはなかった。
だが、かつて結ばれていた婚約が、婚約者の死で失われて以来、その儀を自ら先延ばしにしていたのだ。
国王と王妃、そして四人の子が一つの卓を囲む。第二王子は言った。
「……ようやく、受ける気になったのか」
第一王女は第一王子を見た。
「長かったわね」
第一王子は、静かに言った。
「……そう、だな」
食事も半ばを過ぎたころ、第二王子が私を見た。
「レオンハルト。温泉地を賜るという話は本当なのか?」
「はい」
私は静かに答えた。
第一王子が苦笑する。
「本当だ。私は宰相補佐を勧めたのだがな」
その言葉に、第一王女が杯を傾けながら言った。
「エリシア王女の件、周りはレオンハルトだと見ているけれど……温泉地では、その見方も変わるのではなくて?」
「噂は噂だろう」
第二王子がゆっくり口を開いた。
「折角、大国から爵位を授かったというのにな」
私は黙っていた。
すると国王は、食卓を囲む子供たちを見回した。
「だがまあ……レオンハルトにも思惑があってのことだ」
そして静かに言った。
「とはいえ、そろそろお前たちの婚姻を決めたいところだがな」
一瞬、卓の空気が凍った。
最初に口を開いたのは第一王子だった。
「私は国に仕えます」
続いて第一王女が微笑んだ。
「必要でしたら、相手をお決め下さいませ」
第二王子は肩をすくめた。
「レオンハルトが温泉地を取るなら、俺は辺境で十分だ。あとはその辺で」
国王は深く息を吐いた。
「……まったく。そろそろ、誰かは落ち着いてもらうからな」
その時、今まで静かにしていた王妃が口を開いた。
「レオンハルト」
私は顔を上げた。
「場所は王家の別荘がある、王家所管の温泉地と、聞いていますね」
「はい」
王妃は穏やかに微笑んだ。
「温泉は、人を癒す場所です」
そして、少しだけ言葉を区切って言った。
「けれど時に——国も癒すのよ」
……私は黙った。
王妃はそれ以上何も言わなかった。だが、その言葉だけで十分だった。
王妃は柔らかく微笑んだ。
「とても、楽しみにしているわ」
……何故だろう。
今夜の言葉の中で、それが一番重く聞こえた。
翌日。王都大聖堂には、朝から重い鐘の音が響いていた。
高い天井にかかる燭台には無数の蝋燭が灯され、色ガラスの窓から差し込む光が床の石を赤や青に染めている。王国の貴族、司教、騎士、そして各地の使節たちが、静かに列を成して並んでいた。
やがて扉が開き、国王が姿を現す。
その後ろに、王妃、そして王子達と王女が続いた。
司教の祈りが終わると、国王が玉座の前に立つ。
「我が長子を、王太子として承認する」
厳かな声が堂内に響いた。
第一王子は膝をつき、王の前に進み出る。
国王は王家の剣を取り、その肩に静かに触れた。
「この国を継ぐ者として、民を守り、法を守り、王国を守ることを誓うか」
「誓います」
短い言葉だったが、その声ははっきりと響いた。
司教が祝福の祈りを捧げ、貴族たちは一斉に頭を垂れた。こうして、王太子承認の儀は終わった。
続いて、いくつかの叙任が行われた。私の名も呼ばれる。
「第三王子レオンハルト」
私は前へ進み出て膝をついた。
「王家所管の温泉地を、領地として与える」
国王の言葉が響く。
「これを治め、民を守り、王国の益となすがよい」
「謹んで拝命いたします」
私は頭を垂れた。堂内には拍手も歓声もない。ただ静かな承認のざわめきが広がった。
重い空気のまま、儀式は終わった。
――だが。
大聖堂を出た後、王宮の廊下や広間では、すでに様々な声が囁かれていた。
「あの第三王子が温泉地だと」
「王太子殿下は宰相に据えるつもりだったのでは」
「いや、あれは医療の都を作るつもりらしい」
「大国の王女との話はどうなった」
貴族、商人、司祭――。
それぞれの思惑が、密やかに交わされていた。王太子が生まれ、新しい領地が与えられた日。
王国は、静かに動き始めていた。
廊下で少し立ち止まっていると、宰相が向かって来るのが見えた。
「失礼いたします、レオンハルト殿下」
宰相は静かに一礼した。
「少しだけ、お耳を拝借してもよろしいでしょうか」
私は、頷いた。
「温泉地をお選びになりましたか」
「選んだわけではありません。賜っただけです」
宰相は小さく笑った。
「そういうことに、しておきましょう」
そして少し声を落として言った。
「あの土地は、人を集めます」
私は黙っていた。
宰相は続ける。
「人が集まれば、金が動く」
さらに一拍置いて。
「金が動けば、国が動きます」
そして軽く頭を下げた。
「殿下がそこまでお考えなら、……実に頼もしい」
そう言って宰相は去っていった。
宰相の足音が、回廊の向こうへ消えていった。しかし、私はまだその場に立っていた。
大聖堂の長い廊下には、人の行き交う気配が残っている。高い窓から差し込む光が、石の床に長い影を落としていた。
後ろから静かな声がした。
「殿下」
振り向くと、マルクが一礼していた。
「私の準備は、いつでも整っております」
私は小さく笑った。
「もうか?」
「はい」
マルクは変わらぬ真面目な顔で言った。
「温泉地へ向かうのでしょう?」
私はもう一度、廊下の先を見た。
――この先に、どんな道が待っているのか。
まだ分からない。
だが確かに、そこには私の歩くべき未来が続いているように見えた。




