71
温泉地に近づいた。白い煙のように、ゆっくりと空へ昇っている湯気が見える。
私は馬上から、それを見つめた。
列はゆっくりと進む。
やがて、木柵と簡素な門が見えてきた。その前に、数人の男たちが並んでいる。
中央に立つのは、年配の男だった。衣服は質素だが、手入れは行き届いている。
私が近づくと、一歩前へ出て深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、殿下」
声は落ち着いている。
「王家よりこの地を預かっております、管理役にございます」
私は馬を止め、軽く頷いた。
「ご苦労」
短く返す。男は顔を上げた。
「館の整備、浴場の維持、滞りなく進めております」
「後ほど見る」
それだけ言うと、男は再び頭を下げた。その脇から、もう一人が進み出る。日に焼けた顔の男だった。
「村をまとめております、長にございます」
声は少し硬い。緊張しているのだろう。
「この地にお越しくださり、恐悦に存じます。これよりは殿下の御領として、力の限りお仕えいたします」
私はしばらくその男を見た。
「無理はするな」
短く言う。
「これまで通りでいい。……ただし、乱れは許さん」
村長は深く頭を下げた。
「畏まりました」
列はそのまま中へ入る。温泉地は、すでに一つの形を持っていた。だが、統一はされていない。
やることは、多い。
王家の別館に入ると、さらに人が並んでいた。侍従、料理人、掃除係。皆、一様に頭を下げている。私は歩みを止めた。
「顔を上げろ」
ゆっくりと視線を巡らせる。
「今日より、この地は私の領となる」
誰も声を出さない。ただ静かに聞いている。
「これまでの働きは、そのまま続けてよい。だが、これからは変わる」
短く言い切る。
「命じたことは守れ。働いた分は払う。怠れば切る」
それだけ言って、歩き出す。
……余計な言葉はいらない。
その後は、休む暇もなかった。役人を呼び、帳簿を確認する。財政は、領地の根幹だ。
「……何も急がなくとも」
控えめな声が上がる。私は視線を上げた。
「今日見るべきものを、明日に回す理由はない」
私は帳簿に目を落とした。収入、支出、入湯客の数。数字そのものは揃っている。だが。頁をめくる。同じ日の記録でも、宿ごとに徴収額が違う。湯銭の名目も統一されていない。
ある宿は「入浴料」、別の宿は「滞在料」、さらに「寄進」として記されているものまである。
……曖昧だ。
私は指先で帳簿を軽く叩いた。
「この“寄進”は、どこへ流れている」
役人が一瞬、言葉に詰まる。
「……近くの教会にございます」
「ではこれは」
別の行を示す。
「その……村の維持費として」
さらにめくる。
「では、これは誰だ」
「それは……以前より、この地を取り仕切っていた家の者で……」
私は頁を閉じた。
……なるほど。
口には出さない。だが構図は見えた。湯は一つ。だが金の流れは三つ、四つに裂けている。教会。村。旧来の有力者。そして王家の取り分は、その隙間に置かれている。
……抜かれているな。
私は静かに息を吐いた。
……前任は、見ていなかったのか。あるいは、見ていて放置したか。どちらでもいい。今は、私の領だ。顔を上げた。
「すべて書き出すように」
低い声で言う。
「湯に関わる金の流れを、一つ残らずだ。名目も、人も、量も」
役人たちが緊張したように姿勢を正す。
私は続けた。
「誰が取っているかではない。どこを通っているかを見る」
役人達を見た。
「湯は一つだ。ならば、流れも一つでいい」
私は帳簿を閉じた。
だが、今度ははっきりと声が上がった。
「……殿下」
村の長だった。
「それでは、これまで教会に納めていた分は……」
「止める」
短く言う。長は一瞬、言葉を失った。だが、すぐに続ける。
「しかし、それでは教会との関係が――」
別の役人も口を挟んだ。
「村の維持費もございます。道や水路の修繕は、その金で……」
さらに低い声が混じる。
「……急に変えれば、反発が出ます」
私は彼らを順に見た。誰も、間違ったことは言っていない。だからこそ、面倒だ。
私はゆっくりと言った。
「なくすとは言っていない」
一同がわずかに顔を上げる。
「流れを変えるだけだ」
帳簿を指で叩く。
「すべて一度、王家に集める」
静かに区切る。
「そこから配分する」
空気が張り詰めた。
「……殿下、それでは」
長が言いかける。私は遮った。
「誰が、いくら必要か」
視線を合わせる。
「説明できるか?」
言葉が止まる。
「できないなら、今までが曖昧だったということだ」
沈黙。私は続けた。
「教会には払う。村にも払う。だが、額は私が決める」
それだけだった。長く、重い沈黙が落ちる。
やがて、村の長がゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました」
他の者も、続いて頭を下げる。完全に納得した顔ではない。だが、従う顔だ。
それでいい。
次に、住居の割り振り。
兵は門と外周へ。書記官は別館の一角へ。
医官と薬草担当には、風通しの良い建物を優先的に与える。
商人には、宿の一部を仮に使わせる。空いている建物は限られている。足りない分は、天幕だ。
「三日で整えろ」
誰も反論しない。できるかどうかではない。やるのだ。
気が付けば、日が傾いていた。私はようやく息を吐いた。
……疲れた。
定時で終わらせてはいる。無理はしていないはずだ。だが、疲労が抜けない。頭が重い。
私は湯殿の方角を見た。
……温泉で、癒されよう。
ふと、思い出す。以前、この地に来た時、命じたことがあった。
――それが守られているか。
私は足を向けた。湯殿の戸を開ける。
白い湯気が、静かに流れ出た。中へ入る。
石の湯溜まり。
そこに満ちた湯は、濁りが少ない。
縁からは、細く新しい湯が流れ込んでいる。
……綺麗だ。
私は小さく息を吐いた。
「……続けて、いるのか」
小さく呟くと、控えていた管理人が一歩進み出た。
「は。殿下が以前にお定めになられた通りに」
私はわずかに目を細めた。
あの時の命令など、形だけ守られて終わることも多い。
だがここでは、違った。理解し、守り、続けていた。
「……なぜだ」
ふと、口にしていた。管理人は一瞬だけ言葉を選び、やがて静かに答えた。
「湯が、変わりました」
「変わった?」
「以前は……食べ物が持ち込まれ、湯が濁ることもございました」
私は黙って聞いた。
「ですが、殿下のご命令の後は、それが無くなりました。湯は澄み、匂いも軽くなり……」
わずかに間を置く。
「落ち着いた、綺麗な湯だと評判になりまして」
管理人は小さく笑った。
「掃除も、手を抜けなくなりました」
私は小さく頷いた。
「……よくやっている」
管理人は深く頭を下げた。
湯に入った。湯は静かに身体を包み、重さを溶かしていく。
……これならば、いい。特別報酬を出しても良い位だ。
私は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
文句は、なかった。




