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森の黒が、まだ煙を含んでいる。
私は地図を広げた。境界線は森の中を走る。
だが、森を出た先に小さな平地がある。
交易地。奪えば争いは続く。焼けば、双方が損をする。
ならば――どちらのものでもない場所にすればいい。それが鍵だと、私は気づいた。
私は幕舎へ戻り、筆を取った。
王への書状
国境戦線の現況につき、改めて奏上申し上げます。
捕縛中の若者は、敵国の伯爵嫡男である可能性極めて高く、現在も丁重に拘束中にございます。
伯爵は確認のための猶予を求め、三日の戦線固定は滞りなく維持されております。
局地的ながら、和平の可能性が生じております。
当方としては、
一、境界線は従前のままとすること
一、森外縁の交易地を共同管理地とすること
一、捕虜は協定履行の保証として保全すること
を骨子案として検討しております。
共同管理とすることで、領土の増減なく双方の面目を保ちつつ、通商の安定を図ることが可能と考えます。
捕虜の安全は協定遵守の担保となり、拙速な再戦を抑止する効も期待できます。
双方に大きな得はございませぬが、大きな損もまた回避し得る形にございます。
最終の御裁可は陛下の御聖断を仰ぎたく存じます。
国威を損なわぬことを前提に、最小の損耗にて終結を図る所存にございます。
書き終え、もう一通。それは、第一王女エリシアに。
表向きの骨子は別途奏上いたしましたが、内実を申し上げます。
境界を動かせば、敗北の形が生まれます。
それは敵国のみならず、我が方にも尾を引きましょう。
よって線は動かさず、交易地のみを共同管理とする案にございます。
共同管理は双方にとり利がございます。
我が方にとっては、通商税の安定確保と、国境監視の常設化。
相手方にとっては、嫡男の安全と面目の維持。
いずれも「勝利」とは申せませぬが、「敗北」でもございませぬ。
捕虜は返還を急ぎませぬ。協定履行の保証として一定期間保全する形が望ましいと考えます。
兵の多くは農民にて、耕作期が迫っております。
長期戦となれば、畑は荒れ、租税は減じ、疲弊は数年に及びましょう。
それは国境のみならず王都にも影を落とします。
此度の案は華やかさに欠けますが、血を止めることは可能かと存じます。
王都にて、双方が納得できる体裁に仕立てていただければと存じます。
実務は進められますが、物語は作れませぬ。
筆を置いた。
三日目の朝は、異様に静かだった。
森は濡れた炭のように沈み、煙の匂いだけが残っている。敵もまた、動かない。
約定の三日目。日が高くなるにつれ、兵の間に落ち着きのない空気が広がる。
固定は今日までだ。昼を越えれば、どちらかが動く理由を持つ。
私は丘に立ち、街道を見ていた。
王都へ向かわせた急使は、昨日の朝に着いているはずだ。
協議が整えば、夜を徹してでも返すだろう。
――だが、来ない。
風が森を撫でる。旗が、ひとつ鳴った。
私は何も言わず、街道から目を離さない。
もし王が退けと言えば。もし案が退けられていれば。もし、決断が遅れていれば。
捕虜は価値を失い、この三日は、ただの間延びになる。
時間が、刃のように首元に当たっている。
太陽が、わずかに傾いた。
そのとき。遠く、土煙が立った。
一点。速い。
「――馬だ」
誰かが呟く。丘の上の全員が息を止める。
馬は潰れかけたように駆ける。
騎手は旗を持たない。だが、王都の色だ。
私はようやく息を吐いた。
「道を開けよ」
急使は馬上から転げ落ちるように降り、封蝋の刻印を差し出した。
王の紋章。その場で開いた。紙の文章は短い。だが重い。
境界は動かさず。交易地は共同管理。
捕虜は協定履行まで保全。王都にて体裁は整える――進めよ。
私はゆっくりと息を吐いた。
終わらせられる。
紙を畳んだ。
丘を下りると、現実が広がっていた。
外では、負傷兵のうめきがまだ止まない。
捕虜は縄のまま、静かに座らされている。
死者は並べられ、司祭が低く祈っていた。
名を呼ばれぬ、者もいる。
私は、それを見た。胸の奥で何かが渦を巻く。怒りか。悲しみか。あるいは、力の足りなさへの苛立ちか。
戦には勝ったのかもしれない。
だが。
私は、あの日の天幕を思い出す。血と鉄の匂い。横たわるマルク。
――あの矢を、私は止められなかった。
私は、あの日、マルクの処置に立ち会った。
天幕の中は、血の匂いで満ちていた。
マルクは横たえられている。顔色は悪いが、意識は落ちていない。歯を食いしばり、ただ呼吸だけを整えている。
医務官が矢柄を見た。
「返しがございます。肉を裂きますが、引き抜きましょう」
「待て」
私は一歩前に出た。
「まず、刃は湯にくぐらせよ。煮立たせた湯だ。布もだ」
医務官が怪訝そうに私を見る。
「……わかりました」
熱い、湯が用意される。
「殿下、焼きごては――」
「焼くな」
声は低く、だが迷いはない。
「焼けば血は止まろう。だが肉は死ぬ。死んだ肉は腐る。腐れば命を削る」
沈黙が落ちる。
私はマルクの傷を見た。出血は多い。だが、まだ温かい。まだ間に合う。
「矢は押し出せ。引くな。返しがあるなら、貫かせて折れ」
医務官は一瞬ためらったが、やがて頷いた。矢尻が押し出される。短い呻きが漏れたが、マルクは叫ばない。
血が溢れる。私は言った。
「酒を持て。強いものだ」
医務官が眉を寄せる。
「殿下、傷には葡萄酒を――」
「強いのに。穢れを流せ。矢は森を通っている。土と脂がついている」
一瞬の沈黙。やがて、琥珀色の強い酒が運ばれる。私はそれを受け取り、傷へ注がせた。
マルクの喉が、低く鳴る。
「構うな。今、流せ」
酒は血と混じり、布を赤く濡らす。
「布を」
清い布を幾重にも当てる。
「押さえろ。強く。止まるまでだ」
兵が両手で圧迫する。私は自らも布を重ね、力をかけた。出血は勢いを弱める。
「糸はあるか」
「ございます」
「湯で煮よ。針もだ」
火にかけられた小鍋がぐらりと揺れる。縫合が始まる。針が肉を拾うたび、マルクの喉が鳴る。だが声は上げぬ。
「よい。あと少しだ」
私は淡々と言う。心は、昔に学んだ知識を必死に辿っていた。
縫合が終わる。
「蜂蜜は使え。ただし、薄く。上から清布で固く巻け。圧を抜くな」
医務官が頷く。
包帯が巻かれ、傷はようやく覆われた。
天幕の中の空気が、わずかに変わる。
医務官は私を見た。
「殿下の仰せの通りに致しました」
間。
「血は止まりました」
それ以上は言わない。
あとは、天命次第。司祭が低く祈りを唱える。マルクの額は、すでに熱を帯びていた。
マルクのもとへ向かう。彼の熱は、まだ引かない。
……私は何を見ていたのか。もっと、できることがあったのではないか。
唇を噛みしめる。
この戦には、勝ったのかもしれない。
だが――これは、始まりに過ぎない。
マルク視点
熱が、骨の内側から燃える。まぶたを開けると、天幕の影が揺れていた。
殿下が立っている。輪郭が滲む。
声は遠い。腕が重い。だが、動く。
一本で足りた。あの一瞬、前に出られた。矢は殿下に届かなかった。
それでよい。それが務めだ。
……本望だ。
だが。殿下の顔が、見えた。勝利の将の顔ではなかった。もっと、何かを見ている。
辛そうに。
それは、違う。殿下は戦局を導いたのだ。
兵は従い、敵は退いた。誇らしく、立っていてほしい。
いや――立っているべきなのだ。
主が揺れれば、兵も揺れる。私は、守る。腕が折れても。だが。殿下のその顔は。
意識が沈む。そのとき。
殿下の声が、近くにあった。
「マルク。生きよ。これは命令だ」
その声は、静かに落ちた。
私は、微かに息を吐く。闇が、静かに閉じた。熱の中で、ただ一つだけ願う。
殿下よ。
どうか、その顔を、曇らせないで。




