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丘は、静まり返っていた。
敵の旗は消え、焚き火の跡だけが黒く残る。
私は騎乗のまま、空白となった丘へ進ませた。少数の護衛と、マルク、副騎士団長を伴っていた。
隊の士気は高い。作戦は成功し、敵は退いた。
だが、すべての顔が晴れているわけではない。正面からの決戦を望んでいた者もいる。
私は気づかぬふりをした。勝ちは、勝ちだ。
敵は退いた。そう判断するに足る状況だった。 私は報告を受けながら、馬を進めていた。
そのとき。風が鳴った。いや、違う。
マルクが叫ぶ。
「殿下!」
同時に、衝撃音。矢が、彼の腕を貫いていた。
「敵だ!」
誰かが叫ぶ。
丘の空気が、一瞬で戦場に戻る。
森は、まだ終わっていなかった。
矢を放ったのは、若い兵士だった。
まだ髭も薄い。捕縛は早かった。
森の縁から引きずり出され、地に膝をつかされる。
目が、ぎらついていた。怒りか、恐怖か。
何も言わない。
「処分を」
誰かが言った。
「殺せ」
若い兵士が、自ら言った。低く、乾いた声だった。その響きに、私は、気づいた。
死を急ぐような声。私は馬上から告げる。
「鎧を脱がせ。持ち物を改めよ」
兵が若者の兜を外し、胸甲を解く。
鎧は、普通の兵士と同等だった。しかし、汗に濡れた上衣の裏地に、刺繍があった。
粗布に似せてあるが、糸は細く、染めは上質だ。袖口には、小さく紋。
さらに剣を取り上げる。鞘は質素だが、刃が違った。鍛え込まれている。重さの均衡が、普通の兵のとは違った。
それを見て、随行の文官が息を呑んだ。
「……もしや」
彼は若者の顔を覗き込む。
「城塞都市へ撤退した伯爵の……息子では?」
一瞬。若者の顔色が変わった。血が引く。
唇がわずかに震える。否定はしない。それで、十分だった。
丘の風が、冷たく吹き抜ける。
兵たちの視線が、殺意から計算へと変わった。
私は言った。
「丁重に扱え」
「ですが……」
「後で確認したい」
それだけで十分だった。若者は縛られ、幕舎の外に置かれた。処刑もされず、牢にも入れない。中途半端な扱いは、心を削る。
夜営の準備が整った頃、私は護衛騎士二人を伴って若者の前へ向かった。
焚き火の明かりが、彼の横顔を照らす。
私は立ったまま言う。
「名は?」
沈黙。私は若者の袖を取った。裏地の刺繍を、短刀で切り取る。糸がほつれた。
若者が初めて動揺を見せる。
「やめろ」
私は答えない。布片を畳み、書状に添えた。
封蝋を落とす。
「これは明朝送る。内容は――お前が名乗らなかった、とだけ」
沈黙。
焚き火が爆ぜた。若者の喉が鳴った。
私は、何も言わない。
沈黙は、最も安い拷問だ。
翌朝、使者は旗を掲げて出立した。
白地に王家の紋。その後ろに、書記と二騎。
正午過ぎ、彼らは戻った。私は幕舎の前で待っていた。
「様子は?」
使者は馬を降りる。
「刺繍を見た瞬間、顔色を変えました」
「他には?」
「一言。――“生きているのか”と」
私は頷いた。それだけで十分だ。
夜が明ける前に、再び旗が見えた。今度は向こうから。城塞都市の色。使者は単騎。書状を差し出した。封蝋は急いだ跡があった。
私は静かに開いた。
文面は簡潔だった。
本戦そのものを否定するものにあらず。
ただ、捕虜に関する確認のため、一時の猶予を求む。
私は書状を閉じた。
焚き火の煙が、ゆるやかに流れる。
戦は、剣から筆へ移った。
私は城塞都市の伯爵へ書状を書いた。
此度の書状、確と拝受した。
捕虜の件につき確認を望まれる由、理解するところである。
当該人物は、身分に相応しき待遇をもって拘束中にて、辱めも粗略も加えてはおらぬ。
よって、三日の間、戦線を現状のまま固定することは可能とする。
ただし――その期間中、いかなる理由をもってしても我が領への越境行為を禁ず。
斥候、小隊、補給隊に至るまで例外は認めぬ。
これが守られる限りにおいて、捕虜の身柄は安全に保たれることを約す。
本戦そのものを否定する意は、我にもなし。
だが、無益なる流血は双方に利なし。三日ののち、改めて使者を立てられよ。
私は静かに息を吐いた。伯爵の陣では、灯りが遅くまで消えぬという。
焦っている。息子の身柄が、王家の耳に入った以上、 軽挙はできまい。
裏で、私は調べさせた。商人に。修道士に。捕虜にも。相手国は何を欲しているのか。
領土か。通商路か。それとも王の威信か。
そして、此方は。
相手国の望み。此方の、望み。
すり合わせは、できないのか。
ふと、視線を横にやる。幕舎の奥、寝台の上で、マルクの息が荒い。医務官が額に布を当てている。熱が出たのだ。
私はしばし、立ち尽くした。
戦は、秤の上にある。
だが――
血は、ここにある。
拳を握る。
戦いは、終わらせる。




