237
私は執務室で、机の上に置かれた麦角をじっと見つめていた。
紫がかった黒色をした細長い塊。穂から突き出していた姿を思い出せば、まるで穀粒の中に、一本だけ異物が混じっているように見える。
指先でつまんでみる。
硬い。表面には細かな縦じわがあり、ところどころに浅いひび割れもある。
「……全く分からない」
昔の記憶を探ってみても、こんなものを見た覚えはない。
私は麦角を裏返した。
普通の麦粒とは、あまりにも違う。
「もし、これが生き物だとしたら……?」
そう呟いたところで、ふと思いついた。
私はすぐに研究者を呼んだ。
「これを土に埋めたら、どうなると思う?」
研究者は麦角を覗き込み、首を傾げた。
「出来損ないの、巨大なライ麦の粒……ですよ?」
「それでも、だ」
私は麦角を机の上に置いた。
「普通の穀粒と同じように、土に埋めてみろ」
「芽が出ると?」
「分からない」
私は正直に答えた。
「だから観察するんだ」
研究者は少し戸惑った顔をした。
「どのように?」
「まず、大きさと形を記録する。色もだ。表面に変化が出たら、その時点で記録する」
私は麦角の横に、細い枝を一本置いた。
「これを基準にして、毎日比べろ。割ったものも一つ用意して、中身も記録する」
「中身まで、ですか?」
「外から変化が見えないこともある」
研究者は頷き、記録板に書き留め始めた。
「そして、一つだけでは駄目だ」
「複数を?」
「ああ。土に埋めるもの、土の上に置いておくもの。乾いた場所に置くもの。湿った場所に置くもの。それぞれ分けろ」
私は少し考えた。
「さらに、埋める深さも変えてみよう。浅いものと、深いものだ」
研究者の表情が僅かに変わった。
「条件を分けて、違いを見るのですね」
「そうだ。何も起こらなければ、それも結果だ」
私は黒い麦角を見つめた。
研究者は麦角を慎重に木箱へ収めた。
その日から、麦角の観察が始まった。
毎日、同じ時刻に土の状態を確かめる。
麦角の色、硬さ、表面のひび、大きさ、重さ。
そして何か変化があれば、その日のうちに記録する。
最初の数日は、何も起こらなかった。
黒い塊は、ただ土の中で眠っているように見えた。
数日後の朝。
私は執務室で書類に目を通していた。
そこへ、研究者が息を切らせて駆け込んできた。
「陛下!」
「どうした?」
「例の麦角です!」
その言葉に、私は顔を上げた。
「何かあったのか?」
研究者は大きく頷いた。
「土に埋めたものの一つに、変化が現れました」
「変化?」
「はい。昨日までは何もなかったのですが……今朝、土の表面から何かが出てきています」
私は椅子から立ち上がった。
「芽か?」
「分かりません」
研究者は首を振った。
「少なくとも、普通のライ麦の芽とは違います」
私は研究者の後を追った。
観察用に用意した小さな畑へ着くと、研究者が土の一角を指差した。
そこには、黒い麦角から細い柄のようなものが伸びていた。
「……何だ、これは」
土から顔を出しているのは、緑色の芽ではなかった。
細い柄の先に、小さな丸みを帯びた頭部がついている。
まるで、極めて小さな茸のようにも見える。
私はしゃがみ込み、じっと観察した。
「昨日の記録は?」
研究者が記録板を差し出す。
「昨日の朝は、土の表面に何もありませんでした」
「では、一晩で出てきたのか」
「そのようです」
私は小さく呟いた。
「こいつは、死んだ穀粒ではない」
研究者も、息を呑んでそれを見つめていた。
「では……生きている、と?」
「まだ分からない」
私は首を振った。
「だが、少なくとも何かが始まった」
そして私は、記録板を指差した。
「毎日、同じ時刻に観察しろ。高さ、形、色。少しでも変化があれば記録するんだ」
「承知しました」
「それから――。絶対に勝手に捨てるな」
私は、土から伸びた小さなものをもう一度見た。
研究者は真剣な顔で頷いた。
「はい」
小さな黒い塊から伸びた、奇妙なもの。
それは、麦角について何も分からなかった私たちにとって、初めて目の前で起きた明確な変化だった。
その後、研究者から届いた報告書にはこう記されていた。
乾燥した場所、深く埋めた場所では、いくら待っても何も出てこない。
そして、あの奇妙な物。発生してから二週間ほどでしおれていき、やがて形を失う。消滅したと判断する。
記録はそこで終わっていた。
……短期間で枯れ、消える。これは植物の芽ではない。むしろ、冬を越した何かが、条件が整った時だけ姿を現している。
黒い塊そのものが、本体なのではない。そこから伸びてくる小さなものが、おそらく胞子を作るための器官なのだ。
結論、麦角は菌類だ。
胞子が飛ぶのなら、おそらくこうなのだろう。
春に地面から現れた子実体が胞子を放つ。
その胞子が風に乗り、開花中のライ麦へ入り込む。
感染した麦は、やがてベタベタした甘い汁を出す。――これは、虫を呼んでいるのではないか。
ハエやアリがその汁に集まり、身体に胞子を付ける。
そして別の麦へ移る。
春の小さな子実体から始まり、風による感染、甘い汁、虫による拡散。
そして夏には、麦の穂から黒い角が現れる。
だが、このことを公表するつもりはなかった。
まだ早い。
神や天使、悪魔ならば信じられる。
だが、目に見えない小さな粒が病を広げると言われても、それを確かめる術がない。
下手をすれば、私自身が「悪魔の力を知る者」と疑われかねない。
まして、流産や家畜の死まで同じ原因だと公に語れば、なおさらだ。
だから、今は黙っておく。
重要なのは、正体を皆に理解させることではない。
原因が分かれば、対策も可能なのだ。
土の中で冬を越すのなら、それを地中深く埋めればいい。
感染した麦を見分けられるなら、食料から取り除けばいい。
仕組みを理解できなくても、被害を減らすことはできる。
私はそう考えながら、閉じた報告書に手を置いた。




