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温泉療養地では新たな問題が起きていた。
「陛下、各地で同じ症状を訴える者が増えています」
報告を聞いた私は、すぐに運び込まれた麦を確認することにした。
倉庫に積まれた袋の一つを開く。
私は中の麦を手に取った。
黒い麦角が、いくつも混じってるが、それだけではなかった。
袋の中で麦同士が擦れ合ううちに、麦角も砕けていた。
黒い粉が生まれ、それが正常なライ麦の表面に付着している。
私は指先で一粒をつまんだ。
「……これでは、拾えないな」
黒い角のような麦角なら、目で見つけて取り除くことができる。
だが、粉になって麦の表面に付着してしまえば話は違う。
一粒ずつ確認しても、どこまで取り除けたのか分からない。
しかも、倉庫にある大量の麦を、すべて人の手で選別することなど現実的ではなかった。
マルクと研究者も黙って麦を見つめている。
「……すべて廃棄するしかないのでしょうか」
私は答えなかった。
冷害で、ただでさえ収穫量は少ない。
食べられる麦まで捨てれば、今度は別の飢えが生まれる。
「……何か方法を見つけなければ」
私はそう呟いた。
私は考えた。
麦角は菌類だ。ならば、正常なライ麦とは重さが違うのではないか。
そこで、正常なライ麦と麦角を同じ容器に入れ、簡単な秤で比べてみた。
しかし――。
「……ほとんど変わらないな」
思ったほど差がなかった。
水に浮かべれば分離できるかもしれない。
塩水なら、比重の違いを利用できる可能性もある。
だが、貴重な塩を大量に使うわけにはいかない。
それに、濡らしたライ麦を大量に乾かすのも大変だ。乾燥が不十分なら、今度は別の菌に侵される。
そこで、ふと思った。
麦角は菌だ。ならば――正常な麦と、同じように育つのだろうか?
私は研究者に尋ねた。
「ライ麦を水に浸して、発芽させたらどうなる?」
「発芽……ですか?」
研究者たちは、揃って首を傾げた。
どうやら、私の言っていることが伝わっていない。
「麦を発芽させ、その変化を利用する方法を知っている者はいないか?」
研究者たちは顔を見合わせる。
そこで私は、別の人物を呼ぶことにした。
――ビール造りを担当している修道士である。
教会との協力関係ができていたこともあり、今回は教会側から製麦の知識を持つ修道士を派遣してもらうことができた。
もっとも、その技術は修道院にとって大切な知識だった。
私は司教に向かって言った。
「教会がこの知識を守ることは理解しています。だからこそ、研究者には醸造そのものではなく、麦を発芽させる工程だけを教えていただきたい」
司教は黙って私を見る。
「これは酒を造るためではありません。冷害で失われようとしている麦を、少しでも救うための研究です」
やがて司教は頷いた。
「……分かりました。製麦を知る修道士を一人、協力させましょう」
こうして、ビール造りを担当していた修道士が研究室へやって来た。
彼は研究者たちに囲まれながら、麦を水に浸し、発芽させる。
「では、芽が出た後は?」
「通常なら、その後に乾燥させて麦芽にします。醸造では、この麦芽を使います」
私は頷いた。
「今回は乾燥させる必要はない。発芽するかどうかを確認できればいい」
研究者たちも頷いた。
麦角の混じった麦を水に浸すと黒い粉が水の中へ流れ出した。
「……これほど付いていたのか」
濁った水を見て、研究者が呟く。
私は頷いた。
「水を替えて、何度も洗ってみよう」
何度も水を替えながら、麦を洗っていく。黒い粉が、少しずつ洗い流されていった。
しかし、その後の工程については、私よりも修道士や農民たちのほうが詳しかった。
「麦を発芽させるなら、砂を混ぜて薄く広げればいいでしょう」
彼らはそう言って、麦の間に砂を混ぜた。
数日後、研究者が声を上げた。
「芽が出ています!」
白い小さな芽が、次々と麦の粒から伸びている。研究者が、一粒ずつ確認していく。
「……黒い粒は芽を出していません」
私は頷いた。
「つまり、洗ってから発芽させれば、正常な麦を見分けられる」
「しかも、表面に付着していた黒い粉も、かなり取り除けています」
研究者たちの顔に、明らかな変化が現れた。
砂が根同士の絡み合いを防ぎ、麦は一粒ずつ、ほぐれた状態で芽を出していた。
芽出しが終わると、砂を混ぜた麦を水槽に入れた。
砂と麦角は水底に沈み、発芽した麦芽だけが水面に浮かぶ。
「これなら、浮いた麦芽を網ですくうだけで選別できます」
水を利用することで、砂と麦角を簡単に取り除くことができた。
私はその様子を眺めながら思った。
麦角を取り除く方法は私が考えた。
だが、麦を効率よく発芽させ、異物を取り除く方法、それは修道士や農民たちのほうがずっと詳しかった。
研究者たちは、それを砕き、湯に浸した。やがて、麦の中から甘味が溶け出してきた。
「甘い……」
研究者が驚いたように呟く。
修道士も頷いた。
「これが、麦から生まれる甘味です」
私はその液体を見つめた。
濁った麦の水は、淡い色の甘い液体へ変わっていた。
私は思わず息を吐いた。
「……できたな」
ここには温泉がある。
薪を大量に燃やして湯を沸かす必要もない。
冷害で食料が不足する中、この甘い麦汁は、やがて教会を通じて民へ配られることになる。
「教会が食べ物を分けてくださった」
「神が飢えた者に恵みを与えてくださったのだ」
そんな声が、町や村に広がっていく。
そして何より――。
廃棄するしかないと思われていた備蓄麦の一部を、救えるようになった。
この方法は、やがて各地の倉庫でも試されることになった。
ただし、洗った水や取り除いた麦角を家畜の餌にしてはならない。
それらは別に集め、安全に処分した。
教会との共同研究は、麦角の被害を抑えるだけでなく、冷害による飢えを少しでも和らげる成果へとつながっていった。
しかし、ここで新たな問題があった。
――ギルド。
麦を発芽させ、甘い汁を作る。それは、ただの農作業ではない。
ビール造りを担ってきた醸造職人や修道院にとって、長年守られてきた重要な技術だった。
農民たちが勝手に麦を発芽させ、麦汁を作り始めれば、当然ながらギルドとの衝突は避けられない。
「……ならば、勝手にやらせなければいい」
私はそう決めた。
麦芽糖を作る作業は、すべて教会の管理下で行う。
修道士が製麦の方法を教え、教会が作業を監督する。
教会にとっても悪い話ではなかった。
「これは飢饉から民を救うための慈善事業です」
そう掲げれば、教会の権威を保ちながら、ギルドとの正面衝突も避けられたのだった。




