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礼拝堂を包んでいたざわめきが、ようやく静まり始めた。
石畳に膝をついたまま、人々は固唾を呑んで王妃を見つめている。
王妃は、まるで長い夢から覚めたかのように周囲を見回した。
「……私は」
か細い声が礼拝堂に響く。
「私は、ただ天より聞こえたお言葉を、お伝えしただけです」
王妃は胸の前で静かに手を組んだ。
「それが真に神の御心であったのか、それとも私の未熟な心が見せた幻であったのか……」
一度言葉を切り、大司教へ穏やかに視線を向ける。
「その判断をなさるのは、神にお仕えする皆様のお務めです。私は、一人の信徒として見聞きしたことを申し上げただけにございます」
それだけ言うと、王妃は深く頭を垂れた。
自らの言葉を正しいとも、奇跡であるとも主張しない。
ただ、教会へ判断を委ねる。
礼拝堂には重い沈黙が落ちた。
次の瞬間、一人の修道士が震える声で祈りを唱え始める。
それをきっかけに、あちこちで人々が十字を切り、静かに跪いた。
「なんと謙虚なお方だ……」
「神の御心を、自ら裁こうとなさらないとは……」
「だからこそ、お言葉には真実味がある」
感嘆の声は次第に広がり、石工たちは帽子を胸に抱き、騎士たちは剣を外して祈りを捧げる。
巡礼者の中には、涙を流しながら嗚咽を漏らす者までいた。
隣を見ると、エリシアも瞳を潤ませていた。
「お母様は……」
小さく呟いたその横顔には、深い尊敬の色が浮かんでいる。
母は自らの言葉で誰かを動かそうとはせず、すべてを教会へ委ねた。
そんなふうに受け止めたのだろう。
礼拝堂を満たす人々も、同じ思いだった。
誰もが王妃の慎ましさを称え、その姿を敬虔な信仰の証として見つめていた。
私は、その光景を黙って見つめるしかなかった。
……あまりにも、出来すぎている。
そんな感覚だけが、胸の奥に残っていた。
マルク視点
王妃の言葉を聞いた瞬間、マルクは身体が震えるのを感じた。
殿下が――国王になる。
それは、素晴らしいことだった。
殿下が王になれば、この国は変わる。 冷害に苦しむ民を救い、国庫を立て直し、交易を広げ、やがては今より豊かな国になる。
そして、自分も殿下の側近として、今より高い地位を得ることになるだろう。
そこまで考えたところで、マルクの顔から笑みが消えた。
……仕事は?
今でさえ、朝から晩まで書類に追われている。領内の税収、穀物の在庫、商人との交渉、温泉地の管理、阿片の生産と流通、教会との折衝。
それらを殿下は、まるで当然のように一つずつ片付けていく。
だが、それはあくまで一つの領地の話だ。
国王になれば、これが国全体になる。
各地の税、諸侯の要望、国境の問題、飢饉への対応、軍の維持、教会との交渉、他国との外交。
しかも、今の冷害はまだ終わっていない。
……これ以上、増えるのか?
マルクは、ぞっとした。
自分の仕事量まで増えることを想像したのではない。
殿下が、それらすべてを背負うことになるのだと気づいたからだ。
ふと、マルクは前方に立つ第三王子を見た。
殿下は何も言わず、人々の前に立っていた。
その背中はいつもと変わらない。
細身で、静かで、どこか疲れているようにも見える。
けれど、その背中に何を考えているのかは、今のマルクには分からなかった。
殿下は、王妃の言葉をどう受け止めたのだろう。
王になることを望んでいるのか。
それとも、ただ困惑しているのか。
……いや。
マルクは、ゆっくりと首を振った。
違う。これは、殿下の望みなどではない。
神託なのだ。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
もし、すべてが偶然ではなかったのだとしたら。
冷害が起きたことも、民が殿下の領地へ集まったことも、温泉地が発展したことも、阿片という新たな財源を得たことも。
そして、今まさに大聖堂が建てられていることも。
人の知恵だけで、ここまで重なるものなのだろうか。
マルクは、これまで何度も思ったことがある。
殿下は、恐ろしく頭が切れる。
けれど、もしかすると、それだけではないのではないか。
人間ならば、ここまで先を見通せるはずがない。
神が、殿下を導いている。
そう考えれば、すべてが繋がってしまう。
王妃の神託でさえ。
もし、あれが人の手によって仕組まれたものだったとしても。
その企みすら、神が殿下を王座へ導くために利用したのだとしたら。
そこまで考え、マルクは息を呑んだ。
人間の悪意さえ、神の御心の中では一つの駒に過ぎない。
そう思えてしまった。
「……殿下」
思わず、声にならない声が漏れる。
第三王子は振り返らなかった。
ただ静かに、前を見つめている。
その姿が、今までとは違って見えた。
王になることを望んでいるのではない。
王になることすら、自らの意思とは関係なく背負わされている。
そんな人間に見えた。
マルクは、強く拳を握った。
ならば、自分も逃げるわけにはいかない。
たとえ仕事が今の倍になろうとも。たとえ殿下が、さらに大きな重荷を背負うことになろうとも。
この方を支える。
マルクの脳裏に、一つの未来が浮かんだ。
現世の欲を捨て去り、人の理解を超えた知恵を授かり、神に愛されし王として、この国を導いていく男の姿。
それは、王というより、奇跡そのもののように思えた。




