215
とうとう、王妃一行が帰国する前日となった。
朝、応接室へ赴くと、王命監察官が静かに一礼した。
「殿下。本日は監査の総仕上げを行います。二週間に及ぶ調査結果を、本国の国王陛下へ提出する報告書として取りまとめなければなりません」
その声は、いつものように事務的だった。
机の上には、積み上げられた羊皮紙、インク壺、何本もの羽根ペンが並べられている。
「終日、筆を執る予定ですので、お気遣いは不要にございます」
「承知した」
監察官は静かに部屋へ戻っていった。
ようやく、あの男に付き添い続ける日々も終わる。
そう思うと、肩の力が少しだけ抜けた。
その入れ替わりのように、王妃が穏やかな笑みを浮かべて口を開く。
「レオンハルト殿下。明日はいよいよ帰国ですもの」
「はい」
「最後に、この素晴らしい温泉地を、もう一度ゆっくり見て回りたいのです。源泉や薬草園、建設中の大聖堂……娘夫婦と一緒に、思い出として歩かせていただけませんか」
隣では、エリシアが嬉しそうに私を見つめていた。
「お母様に見せたい場所がまだ沢山あります。是非、お願いします」
私は微笑みながら頷く。
「もちろんです。本日は私がご案内いたします」
そうして三人で温泉地を歩き始めた。
湯気の立ち上る源泉では、王妃が足を止め、静かに湯面を眺める。
「この温泉が、多くの人々を救っているのですね」
「ええ。地下の熱を利用しています。冷害の年でも安定して湯を供給できます」
続いて薬草園へ向かう。
地熱のおかげで青々と育つ薬草を見て、王妃は感心したように目を細めた。
「本当に見事ですわ」
「療養地には欠かせませんから」
エリシアも嬉しそうに薬草を眺めながら、
「お母様、この辺りは全部レオンハルト殿下が考えたのですよ」
と、まるで自分のことのように誇らしげに話している。
その姿に、王妃は優しく微笑んだ。
午後には建設中の大聖堂を訪れ、石工や大工たちが働く様子を見学した。
私は工事の進捗や建築の工夫を説明し、王妃は時折質問を交えながら熱心に耳を傾けてくれる。
監査でも尋問でもない。
ただ、この土地を知ろうとしてくれる穏やかな時間だった。
気づけば夕日が山の稜線を赤く染め始めていた。
「最後に、この大聖堂で祈りを捧げさせていただけませんか」
王妃は穏やかにそう言った。
ちょうど、晩課の鐘が町へ響き始める頃だった。
鐘の音を合図に、石工たちは槌を置き、大工たちは足場から降りてくる。
巡礼者も、騎士も、修道士も。
その場にいた誰もが仕事の手を止め、大聖堂の礼拝堂へと静かに歩き始めた。
私たちも、その流れに加わる。
建設途中の大聖堂は、夕日に照らされていた。
未完成の高い石壁は黄金色に染まり、組み上げられた木の足場が長い影を床へ落としている。
祭壇では香炉が揺れ、ゆっくりと立ち昇る香が西日を受けて淡く輝いていた。
大司教が祭壇の前へ進み、晩課の祈りが始まる。
人々は一斉に跪き、静かな聖歌が堂内へ響いた。
王妃もまた、祭壇の十字架の前へ進み、深く頭を垂れる。
エリシアは私の隣で静かに祈り、私もそれに倣って目を閉じた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
不意に、小さな嗚咽が聞こえた。
顔を上げると、王妃の肩が激しく震えている。
次の瞬間、その身体は力を失ったように石畳へ崩れ落ちた。
「おお……」
涙を流しながら、王妃は天を仰ぐ。
その声は、不思議なほど堂内いっぱいに響き渡った。
「見よ……天の門が開かれ、神が私にお示しになられる……」
礼拝堂の空気が凍りつく。
誰一人、息をする音さえ立てない。
「この冷害の飢えから民を救い、この聖なる神の家を建てる者こそ、正統なる王である、と……」
人々の視線が、一斉に私へ集まった。
「……ああ、主よ。その御言葉が示すお方は……」
王妃は震える指先を、ゆっくりとこちらへ向けた。
「レオンハルト殿下……」
その瞬間だった。
「神の御言葉だ……」
「なんという奇跡だ……」
「主がお示しになった……」
感嘆の声が礼拝堂中へ広がっていく。
修道士は胸元で十字を切り、石工たちは帽子を脱いで石畳へ額をつける。
騎士たちは膝をつき、巡礼者たちは涙を流しながら祈りの言葉を口にしていた。
私は、その光景を呆然と見渡した。
夕日に照らされた祭壇、香の煙、祈りに震える人々。
そして、涙を流し続ける王妃。
私は気がついた。
この場で平静なのは、どうやら私だけらしい。
私は、先ほど響いた王妃の声を思い返す。声そのものはよく通っていた。だが、その後に重なった低い響き…あれは単なる残響ではない。
そして、素早く礼拝堂を見渡す。
未完成の天井、複雑に組まれた木製の足場、その奥に広がる暗がり。
……なるほど。
足場や石壁の構造を利用し、声を別の場所から響かせている。王妃が最も声の通る位置に立っていたのも偶然ではない。
そして、最初の歓声は、あまりにも早かった。
私はようやく理解した。
……これは奇跡ではない。最初から、仕組まれていたのだ。
しかし、口には出さなかった。
今ここで真実を語ったところで、奇跡を否定した不敬者になるだけだ。
その時、王妃がゆっくりと顔を上げた。
一瞬だけ、視線が重なる。
そして王妃は、私にだけ分かるほど、ほんのわずかに口角を上げた。




