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少しして、エリシア王女は、少しだけ視線を伏せ、照れくさそうに微笑んだ。
「実は……。レオンハルト殿下は、大聖堂に私の名を冠した礼拝堂をお造りくださると約束してくださいました。その石壁には私の名とともに、私の生家たる王家の紋章も刻み、末永く祈りを捧げる場としたい、と仰ってくださいました」
王妃は思わず目を見開いた。
「礼拝堂を……。しかも、我が王家の紋章まで刻むというのですか」
「はい。完成した暁には、その石に私の名を刻み、日々の祈りが絶えぬ場所にしたい、と」
エリシア王女は幸せそうに言葉を続ける。
「冷害の最中だからこそ、人々のために祈る場が必要なのだと仰ってくださいました」
王妃はエリシア王女を見つめたまま、しばらく言葉を失った。
……なんていう男でしょう。
礼拝堂は、ただの建物ではない。
そこへ名を冠するということは、何十年、何百年と、人々が祈るたびにその名が語られるということ。
それは寄進者の信仰を示すだけではない。 教会はその名を記憶し、民もまた、その名を敬意とともに口にする。
それほどの栄誉を、一国の王女へ惜しみなく与えるというのか。
愛情だけでは、ここまでの決断はできない。
あの男は、人の心と教会の在り方をよく知っている。そして、その積み重ねが、やがて国そのものを動かす力になることまで見通しているのか。
王妃は静かに息を吐いた。
……けれど、母として確かめておきたいことが、まだ一つだけあった。
王妃は少し迷ってから、静かに口を開いた。
「母として、一つ聞いてもよいでしょうか」
「……はい」
「レオンハルト殿下は、私の前では立派な領主として振る舞っておられました。民を背負う者として、隙のないお顔をなさっていた」
王妃は微笑む。
「ですが、夫婦の間ではどうなのですか?」
エリシア王女が少し目を瞬かせる。
「人は、皆、外では役目の顔を見せるものです。けれど、心を許した相手の前でしか見せぬ姿もあります」
王妃はエリシア王女の手にそっと触れた。
「そなたは、あの方の前で王女であり続けているのですか。それとも……ただ一人の妻として、隣にいることができているのですか」
しばらく沈黙が流れた。
やがて、エリシア王女は俯く。
「……二人きりの時は」
小さな声だった。
「私は、レオンハルト殿下を……レオンとお呼びしています」
一度言葉を止め、目元を緩める。
「そして、私のことを、エリシアと呼んでくださいます」
エリシア王女は、頬を染めて言った。
エリシア王女の言葉を聞いた瞬間、王妃はしばらく何も言えなかった。
「……レオン、と」
エリシア王女の口から出たその呼び方は、あまりにも自然だった。 一人の女性が、心を許した夫へ向ける呼び方だった。
そして、第三王子がエリシア王女を呼ぶ時もまた「殿下」でも「王女様」でもなく……「エリシア」と。
その事実を聞いた時、胸の奥が静かに震えた。
エリシア王女が許したからこそ、その距離に立っているのだ。そしてエリシア王女もまた、彼を王子や領主としてではなく、一人の夫として見ている。
王妃はそっと目を伏せた。
嫁がせた娘が、異国の地で孤独に耐えているのではないか。王家の役目だけを背負い、心を閉ざしているのではないか。
かつて抱いていた不安が、ゆっくりとほどけていく。
あの男は、エリシア王女を飾りとして扱ってはいない。王家の血を利用するだけの妻としてではなく、自らの隣に立つ伴侶として迎えている。
だからこそ、エリシア王女もあれほど穏やかな顔で夫を語れるのでしょう。
王妃は誰にも悟られぬよう、小さく息を吐いた。
胸の奥に広がったのは、王家の母としての計算ではなかった。
ただ一人の母としての安堵だった。
「……安心しました」
王妃は静かに言った。
エリシア王女との別れを告げた後、王妃は長い回廊を歩いていた。
夜の城は静まり返っている。石壁に灯る燭台の炎が、ゆらゆらと揺れていた。
けれど、王妃の胸の内には、先ほどまでとは違う熱が宿っていた。
娘の顔が浮かぶ。
レオンハルト殿を語る時の、あの穏やかな表情。「レオン」と呼ぶ声に込められた、揺るぎない信頼。
そして、大聖堂に刻まれる娘の名と、我が家の紋章。
あれは単なる愛情の証ではない。一人の領主が、未来へ残す意思表示だ。
教会、民、血統、信頼、それらを結び合わせ、争うことなく人の心を動かす力。
武器を持つ者だけが国を変えるのではない。人々が「この者ならば」と信じた時、初めて大きな力は生まれる。
王妃は足を止め、窓の外に広がる夜の領地を見つめた。
冷害に苦しむ多くの土地とは違い、この地には灯がある。民を支える仕組みがある。
そして、それを作り上げた男がいる。
第三王子は、己の野心を語らない。権力を求める言葉も口にしない。
けれど、それこそが恐ろしい。
欲する者よりも、必要に迫られて責任を背負う者の方が、時として大きな力を持つ。
王妃は静かに目を伏せた。
彼がどこまで望んでいるのかは分からない。しかし、決して凡庸な男ではない。
ならば、この国が彼を必要とするのなら、その道を開くのが自分の務めだ。
王妃は再び歩き出す。
その表情から、先ほどまでの母親としての柔らかさは消えていた。
そこにあったのは、一国の王妃としての顔だった。
「……計画を進めるわ」
誰に聞かせるでもなく、王妃は小さく呟く。
静かな回廊に、その言葉だけが淡く響いた。




