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晩餐会は、穏やかな空気のまま進んでいった。
派手な音楽も余興もない。
聞こえるのは食器が静かに触れ合う音と、壁の向こうを流れる温泉のせせらぎだけだった。
話題は自然と療養や薬草へ移っていく。
「この葡萄酒は実に見事です」
王命監察官が杯を静かに置いた。
「口当たりは柔らかく、それでいて身体の内から温まります。長年の務めで胃を痛めていますが、不思議と重苦しさが和らぐように感じます」
第三王子は穏やかに微笑んだ。
「それは何よりです。教会の薬草園で育てた数種の薬草を調合してます。温泉療養と合わせれば、より効果が期待できます」
司教も静かに言葉を添える。
「神がお与えくださった薬草は、人を癒やすための恵みでもあります。正しく用いれば、多くの苦しむ者を救う助けとなりましょう」
王妃は葡萄酒をもう一口含む。
薬草の香りは穏やかで、葡萄酒の風味を損なうことなく、喉から胸へと優しい温もりが広がっていく。
療養地ならではのもてなしとして、実によく考えられている。
王妃は静かに杯を置き、第三王子へ視線を向ける。
「我が国を発つ折も、冷たい雨が降り続いておりました。この地へ入るまでも、寒さに肩を落とす民を幾度となく目にしております」
一度言葉を切り、窓の外へ目を向けた。
「ですが、貴殿の領内へ入ってからは、不思議と民の顔に絶望の色が薄いように見受けられました。厳しい試練の中にあっても、人々の目には明日を信じる光が残っております。見事な治世ですね」
第三王子は謙遜するように頭を下げた。
「過分なお言葉にございます。すべては王妃殿下のご実家より賜りました貴重な交易品と、この地に湧く温泉の恵みに支えられてのことでございます」
その答えに、王命監察官が静かに頷く。
「この夏の寒さは、神が我らへお与えになった大いなる試練。我が国王陛下も、この地で進められている大聖堂の建設こそ、人々の信仰を支え、災厄を乗り越える光になると信じておられます」
「左様にございます」
司教も穏やかな声で続けた。
「試練の時であるからこそ、神への奉納を止めてはなりません。祈りも、薬も、ともに人々を救うための務めでございます」
王妃は静かに頷いた。
「この領地では、信仰と民の暮らしが見事に結び付いています。だからこそ、人々は希望を失わずにいられるのでしょう」
そして、隣に座る娘へ目を向けた。
「エリシア」
娘は姿勢を正し、王妃を見つめ返す。
「今では、夫と共に領民を支える立派な女主人となりましたね。母として、誇らしく思います」
エリシア王女は嬉しそうに微笑み、静かに一礼した。
「そのように仰っていただけるとは、光栄にございます。夫はいつも私を気遣ってくださいます。その温かさのおかげで、辛いと思ったことはございません」
そう言って第三王子へ向けられた眼差しは、飾りでも礼儀でもなかった。
王妃は何も言わず、静かに杯を口へ運ぶ。
エリシア王女は、その幸せを隠しきれていないように見えた。
やがて、司教が静かに立ち上がり、食後の感謝を神へ捧げた。
「本日の糧に感謝し、この地に集うすべての者へ神の祝福がありますように」
静かな唱和が石壁に響く。
王妃はゆっくりと席を立ち、第三王子へ穏やかな微笑みを向けた。
「今宵のもてなし、誠に見事でした。療養とは、豪華さではなく、心を安らげることなのだと改めて感じました」
「身に余るお言葉にございます」
第三王子が深く一礼する。
王妃はエリシアと並んで部屋を後にした。
振り返ると、地下から響く温泉のせせらぎだけが、静かな宴の名残を包み込んでいた。
王妃とエリシアは、部屋を辞して静かな回廊を歩いていた。
石壁には燭台の明かりが揺れ、窓の外には冷たい夜風が吹いている。
しばらくは互いに何も語らなかった。
やがて人の気配が途絶えたところで、王妃は静かに足を止める。
エリシアもまた立ち止まり、不思議そうに王妃を見つめた。
王妃はエリシア王女の顔をそっと覗き込み、その瞳を真っ直ぐ見据える。
「……エリシア」
自然と声は低くなった。
「レオンハルト殿下は、一体いかなる星の下に生まれたお方なのでしょう」
エリシア王女は目を瞬かせる。
「夏でありながら、この冷害。多くの領地では民が寒さと飢えに苦しんでます。それにもかかわらず、この城には温もりがあり、人々の顔には希望が残っています」
王妃は小さく息をついた。
「あの工房もそうです。教会の信頼を得て、薬を絶やさず、あれほど厳格な王命監察官ですら、今日の説明には反論の余地を見いだせませんでした」
静かにエリシア王女の手を取る。
「一地方の領主としては、あまりにも見事です」
エリシア王女は胸元で十字を切り、穏やかに微笑んだ。
「神のお導きにございます、お母様」
その声には迷いがない。
「あの方は武勲を語るより、帳簿を前に考え事をしている方が性に合うお人です。ですが、領地を治め、人を活かし、富を正しく巡らせる知恵は、私がこれまで見てきたどなたよりも優れてます」
王妃はエリシア王女の手を静かに握り返した。
「だからこそ心配なのです」
エリシア王女が息をのむ。
「これほどの力を持つ者を、中央がいつまでも一地方の領主として放っておくとは限りません。恐れる者も出るでしょう。利用しようとする者も現れるでしょう」
王妃は静かにエリシア王女の手を握った。
「そして、もし国そのものがあの方を必要とする時が来れば……その時、あの方が望むか否かにかかわらず、誰かが決断を迫られることになります」
王妃はそこで言葉を止めた。
その先を、今は口にしなかった。
しばし沈黙が流れた。
やがてエリシアは静かに顔を上げる。
「あの方は、自ら争いを望むお人ではありません」
その言葉には、確かな温かさがあった。
「ですが、この領地と、ここで暮らす人々を守るためなら、決して退くことはなさらないでしょう」
王妃はエリシア王女を見つめる。
エリシアもまた、真っ直ぐに王妃を見つめ返した。
その瞳には、夫への揺るぎない信頼だけが宿っていた。




